サイン
翌日の朝は、ヘリオス国の空には見事な雨雲が広がった。
「雨乞い師、探したぞ」
「あ、陛下」
私がシモンと庭にいると、陛下が私の元にやってきた。
周りの使用人の顔がさぁ、と青ざめた。
「……なにをしている?」
私を見て王は目を見開いた。何故なら雨乞い師の衣装を着ていたからだ。空は暗くポツリポツリと雨粒が落ちてくる。
「お花の水遣りが大変そうだったので、私が済まして差し上げようかと」
(私にはこれくらいしか役に立てないから)
得意げに言うが、王はシモンを睨む。
「シモン……」
「私達は館の者と総出でお止めしたのですよ」
「だって重たい水を運ぶのは大変でしょう?」
次の瞬間、ざぁーと大量の雨が私達の上に降り注いだ。
一瞬で濡れ鼠になった王はシモンを睨む。
使用人は慌てて傘を陛下と私に持ってきた。シモンが慌てて私の上に傘をさしたが、私はその手を押し返した。私の上に降り注ぐ雨が心地いい。
「私、自分の雨に当たってみたかったんです」
ポツポツと体を濡らす雨。建物の中からしか見ることのなかったそれを私は初めて触れることが出来た。もしかしたら、ずっと子供の時には触れたこともあるかもしれないが、私の記憶の中では雨はただ天井を濡らすだけのものだった。両手を高く伸ばして雨粒を手の平に受ける。
(あぁ、私は自由なんだ)
しばらくそうしていると、私の頭上に再び傘が現れた。ボツボツと雨を弾く音が聞こえ振り返るとそこには王がいた。
「風邪をひく」
顔をしかめた王は、私の頭から自分のマントを脱いで被せた。
「もう夏になります。着替えれば平気ですよ」
「お前が髪を濡らした姿を見たものを、全員処刑するか?」
使用人達は一斉に下を向く。
別に髪くらい……と思わなくもないが、王は気になるらしい。
「帰りましょう」
即答し、王と共に館に入る。玄関にはタオルをもったメイドとアルノーが待っていた。
「ああ〜、舞衣装が」
アルノーが悲鳴をあげる。
泥が跳ねたのだろう。裾が汚れていた。私は基本的に、整えられた舞台や道を歩き、万が一汚れそうな場所を歩くときは抱きかかえられて過ごしてきた。勿論、雨に当たるなど以ての外で私の行動は徹底されてきた。自由に振舞うことは、私にとって憧れでもあった。
「雨乞い師」
「はい」
私が王を見上げれば、彼は顔を逸らしてしまった。
「衣装を汚すな」
「洗えば良いでしょう?」
「そういう問題では無い」
「?」
私が首を傾げていると、アルノーが私の背中を押した。
「先に着替えをしましょう。陛下もドロシー様に話したいことがあるのでしょう?」
「あぁ」
「私が部屋まで送りますから。ほら、シモンも着替えてきて下さい」
「ありがとうございます」
シモンはぺこりとお辞儀をして下がった。
「では、陛下。また後で」
「ああ」
王は全く私を見ようとしない。何故だろう。そこまで怒っているようには見えなかったのだが。
廊下を歩いていると、アルノーが「気になってしまうのですよ」と言った。
「へ?」
「陛下はドロシー様の雨乞い師の衣装がお好きなようで」
この人、私の思っていることがわかったのかしら。
「これが?」
毎日着ていた、私には飽き飽きしたこの服が?
「そうです。ですので、陛下が見慣れるまであの態度を取っていてもお気になさらないで下さい」
「はぁ」
それで服を汚したことを咎められたのか。
「それと、舞のことですが、雨を降らせる際は一度声を掛けてくださると助かります」
「どうしてですか?」
アルノーは苦笑する。
「雨は助かるのですが、降るなら降るで備えも必要ですから」
(あ、そうだよね)
城では舞の日程や調整は全部人に任せていた。パタパタと急いで濡れた洗濯物を運ぶ使用人や濡れた私達にタオルを用意するメイド達をふと思い出した。今日は街中を覆う雨雲を作ったから、国の人全員が濡れてしまったり洗濯物を慌てて片付けたりきっとてんやわんやだっただろう。
自由なのと、好き勝手に振舞うことはちがう。私は天気を変えてしまったことを反省した。
「慣れないことばかりかもしれませんが、私共もフォローして参ります。一緒にこれからについて考えていきましょう」
「アルノー様!」
なんて頼りになる人だろう。
「陛下が誰よりもドロシー様のお力になってくれるでしょう」
「そうでしょうか」
「ええ。間違いなく」
アルノーの笑顔に安心する。
「私、雨乞い師としてリジェ大国でも頑張りますね」
何故かこの返事には苦笑された。
お風呂に入り、身支度を整えた私は大使館のサロンへと案内された。
シモンはドアの前で待機し、部屋の中は私と王の2人きりになる。
私は王の向かいに置いてあるソファに腰掛けた。この間と同じ位置だ。口づけをされたことを思い出し、私は頭を振ってかき消した。これからが大変なのに、こんな浮ついてばかりではだめだ。
「どうかしました?」
「明日の王子のパーティ、一緒に行くぞ」
「ほ、本気ですか?」
私は驚きに目を見開く。
私を連れて行けばヘリオス国と完全に対立してしまうのでは、と胸が騒ぐ。避けられるものではないとしても、パーティに行けば喧嘩を売っているようなものではないだろうか。
「もう雨乞い師の居場所が特定されているのに、こそこそする必要もあるまい」
そうだった。すっかり忘れていたが、この王は弟一派を葬るような力でねじ伏せるタイプの人だった。
「真実を知っても尚変わらないお前の意思を確認できた今、私がお前をヘリオスの王族から遠ざける意味はなくなった。この状況なら正面から乗り込んでも問題ないだろう」
「で、ですが……」
(無理やり連れ戻されたらどうしよう。陛下にもお世話になったし、顔合わせ辛いよ)
「別に争いを起こすつもりはこちらにはない。しかも、お前はこの国に雨を降らせてやりたいのだろう?平和的解決を望むなら尚更奴らを安心させる為にも話し合いが必要だ」
「はい」
(けじめはつけなきゃダメだよね)
「当然、あいつらはお前と接触できる最後のチャンスと無理を押し通す可能性もある。私は確実にお前を守りたい」
王は一枚の書類を机の上に置いた。
私は我が目を疑う。
「これって……」
それは婚約書だった。教会が発行した正式なものだ。そこにサインすれば私はリジェ王の婚約者となり、ヘリオスは一切の手出しが出来なくなる。
そして、其処には既に王の名前が記入されていた。
「いけません、陛下。これは国も関わる大事なことなのでしょう?」
(私がこの人の大事な国をダメにしてしまったらどうしよう)
求婚された嬉しさよりも恐怖が先にたった。私はこの人が好きだ。でも大国の王妃になるほどの覚悟が足りていない。
王は私の前に来ると、ソファのへりに手を掛けた。
「嫌なのか。やはりジョシュア王子が気になるのか?」
それはとんだ誤解だ。確かに前までは引きずってたかもしれないけれど、私がジョシュア王子を気にかけることは多分もう一生無いと思う。
「ち、違いますっ!! ジョシュア王子が気になるならば私はリジェに行くなんて言いません。そうではなくて、リジェの様な大国にはもっと相応しい方が……」
王は私の答えに少し安心した様に息を吐いた。
「国には私がいれば十分だ。政治に妃の助力などいらん。お前は私の力を疑うのか」
「……いいえ」
これは魅力的な誘いだった。好きな人に求婚され本当の家族を作る。私がずっと夢見ていたことだ。それでも、直ぐにサイン出来ないのは婚約書を破られた時の胸の痛みを思い出してしまうからだ。
(後で、やっぱり私なんていらないって言われたらどうしよう)
「ドロシー」
青ざめる私に王は優しく囁く。
「お前が嫌だと思うならそれでいい。無理強いをさせるつもりはない。この様な繋がりがなくとも、明日のパーティでお前のことは私がちゃんと守る。その為の準備も終わった」
私は王の袖を掴む。
「陛下は最初私に何も求めてはいないと仰られました。それでも、私は貴方の役に立ちたい。妃として、貴方の側で役立てることはあるのでしょうか」
「私はお前がお前であればいい。私の話を聞き笑って側にいてくれれば、それで十分だ」
「そんなこと、誰でも出来ます」
「誰でも出来るが、お前でないと意味がない」
私はパッと顔を上げた。王の顔は真剣だ。夢の様なこの状況を彼の瞳の光が現実だと教えてくれる。
「後で婚約書を破いたりしませんか?」
王は目を白黒させた後、私の唇にキスを落とした。
「好きだ、ドロシー。永遠の愛をお前に誓おう」
私は婚約書にサインをした。婚約書は「不安ならお前が持っていればいい」と言われたが、私は王に渡した。
私はこの人を信じると決めたのだから。