あいれいく
葵は嘘を吐く時、自分の胸元をぎゅっと掴む癖がある。
「今回は引き分けだ。お互いに嘘は見破ったんだから」
俺は葵の嘘が分かるし、葵が俺の巧妙な嘘に気付くはずがない。だから、この勝負が始まった時点で俺の勝ちは揺るぎないもののはずだった。
なのに、まさか引き分けるとは。やはり「好きな色は?」などという質問で嘘を吐くべきではなかったか。
まあ、反省をするのは後にしよう。今はとにかく葵の嘘を暴くのが先だ。
じゃないと、負けたことになって罰ゲームを受ける羽目になるからな。
「葵、お前が晴野と付き合っているのは"本当"だろ?」
「......だから、嘘だって言ってるじゃん」
どうやら葵は嘘だと言い張るつもりらしい。ならば、こちらも容赦はしない。
見せてあげましょう、この雨宮緑の推理力を。
「それが嘘なら、葵は嘘を二つ吐いたことになる。ルール違反だ」
「なんで? 私が吐いた嘘は一つだけだよ?」
葵は胸元をぎゅっと掴みながら答えた。
それを見て、俺は自分の推理が正しい事を確信する。
「俺が葵に聞いた質問は3つ。『今までで一番恥ずかしかったこと』、『数学のテストの点数』、『葵と晴野が付き合っているのか』、だな」
「テストの点数はさっき見せたから、間違いなく本当だよね? じゃあ緑は、『恥ずかしかったこと』が嘘だって言いたいの?」
「『恥ずかしかったこと』は、本当だと思う。葵があんな作り話できるとは思えないし、何より笠野葵という人間の解像度が高すぎた」
北海道からの転校生を天使だと勘違いしました、なんてエピソードを出せるのは世界でただ一人だけだろう。
「う、なんかそれはそれで納得いかないなあ。でも、それなら私が吐いた嘘は一つだけで合ってるよね?」
「ああ、確かに一つだけだな」
「じゃあ、私の勝ち」
「ただし」
俺は葵の勝利宣言を遮り、机の上に置かれたしわくちゃの紙を指差した。
「葵の嘘は、"テストの点数"だけどな」
「何言ってるの? ちゃんとテストの点数見せたでしょ?」
葵は再びしわくちゃの解答用紙の端を開き、縦に書かれた名前の下の点数を俺に見せる。
「ほら、28って書いてるでしょ?」
「俺が聞いたのは、"数学のテストの点数"だ」
「......これは、数学のテストだよ」
違う。これは数学のテストではない。
それを確信したのは、葵が胸元を掴んだからだけではない。もう一つ、決定的な理由があった。
「数学のテストなら、名前は横に書くんだよ」
「え、うそ」
「数学の問題が縦に書いてあるのを見たことがあるか? 基本は横に書いてあるはずなんだ」
葵の手から解答用紙を奪い、破らないよう丁寧に開いていく。
「答えの数字とか数式とかも横に書くだろ? それと同じで名前も横に書くようになってる」
解答用紙に書かれていた文字は数字でも日本語でもなく、英語だった。
「何が『I lake.』だ。いつからお前は湖になったんだよ」
「......そうだよ」
葵は両手で胸元をぎゅっと握り締めながら、そっと呟いた。
そして、俺に真っ直ぐ笑顔を向ける。
「いやあ、さすが緑だね。私の嘘に気付くとは」
「ようやく嘘を認める気になったか?」
嫌な予感がした。
「うん、大降参だよ。緑の言う通り、私は二つ嘘を吐いてたんだよ」
葵はまだ、嘘を吐くつもりだ。
「......やめろ」
「数学のテストの点数は嘘。そして、司と付き合ってるのも」
「やめてくれ!! いい加減にしてくれ、葵!!」
こんなに声を張り上げるのは、生まれて初めてかもしれない。俺はこういう感情的に叫ぶのが一番苦手なんだよ。
だがまあ、葵のあんなにびっくりした顔を見れたのなら良しとしよう。
「どうしてそんな嘘を吐くのか俺には分からない。でも、それが嘘だってのは分かる」
今も葵は胸元を握りしめたままだ。
「だから、もう止めろ。もうそれ以上嘘を吐くな」
ずっと苦しそうに嘘を吐いてる。
「葵のバカみたいに正直で素直なところ、俺は結構好きだぞ」
「......なんで」
絞り出すような声が聞こえた。
「緑が言ったんじゃん、私と司が付き合ってないんじゃないかって。それって、私達が付き合ってない可能性を少しでも期待したから出た言葉じゃないの?」
気づけば、葵は泣いていた。泣きながら、叫ぶように言葉を紡いでいた。
「もう分かんないよ、私。このままでいたいのに、このままじゃいけない気もして」
葵の手が胸元を離れ、涙を溢さないように目元を覆う。
「こんな嘘をついたって、どうにもならないのは分かってるんだよ? でも、もし今抱えてるこのモヤモヤが少しでも軽くなるならって思って」
今葵が話した事はきっと、嘘じゃない。
上手く言葉にできないような、ありのままの本音を俺に話してくれたのだと思う。
「期待してたよ」
だから、俺ももう少し正直になることにした。
「葵と晴野が付き合ってないんじゃないかって、期待してたよ」
「......え」
「いいか葵、お前は俺の数少ない友達なんだよ。その友達に彼氏なんていう友達以上に大切そうなやつがいたとするだろ?」
好きとか嫌いとか、付き合ってるとか付き合ってないとか、友達とか彼氏とか。
人間関係ってのは、どれも面倒がつきまとう。
「普通に嫉妬するだろ? 俺は葵が好きなのに」
「......それって」
俺は何も知らない。
「likeとかloveとかは、正直わからん」
でも、葵が抱えてるものを少しでも分けて欲しい。
「だから今は、lakeで頼む」
「......ふふ、なにそれ」
この曖昧な状況を変えなければならない時は、いつか来る。でも今はまだ勘弁してほしい。
俺はまだ変えたくないのだ、今の関係を。
「......じゃあ、このゲームは緑の勝ちだね。私が反則しちゃったし。よし、約束通り罰ゲームだ!! ばっちこい!!」
「なんで罰ゲームに乗り気なんだよ。というか、俺が考えなきゃいけないのか? めんどくさいんだが」
「何でもいいじゃん、ほら、しっぺとかデコピンとかさ」
「俺の物理攻撃が葵に効くとは思えないんだが。むしろ俺の方がダメージを貰いそうだ」
「私の体、鉄で出来てると思ってる?」
「いや、ウルツァイト窒化ホウ素で出来てると思ってる」
「何それ。くだらないこと言ってないで罰ゲーム考えててね? 別に今すぐじゃなくていいから」
地球上で最も硬い物質をくだらないとは、これ如何に。
「もう日も暮れそうだし、そろそろ帰るよ。今日はお邪魔しました」
そばに置いてあった鞄を手に取って立ち上がり、軽くお辞儀をする。
「あ、これはどうもご丁寧に」
そんな俺に倣うように、葵も慌てて立ち上がって深々と礼をした。
「じゃあまた、学校でな」
「あ、緑。ちょっと、あっち向いて」
部屋から出ようとした俺を呼び止め、葵は窓の方を指差した。
何か面白いものでもあるのかと俺がそっちに顔を向けた、その時だ。
「ホイ」
頬に、柔らかい何かが当たった。
「っ!? な、何を!?」
驚いてすぐに顔を戻すと、目の前には葵の指の先があった。
「唇かと思った? 残念、指でした!!」
葵のもう片方の手は、胸をぎゅっと掴んでいた。
「そういえば、緑の好きな色って結局なんだったの?」
「あー、紫色だよ。ちょっと明るめの」




