黒髪の女装少年・3
その店はいつも通りの雰囲気だった。
昼過ぎだというのに、いかつい顔の人間がそこかしこのテーブルに寄り集まり、思い思いの過ごし方をしている。声をひそめて相談するグループもあれば、陽気に酒を呑む連中もいる。
……そして、カウンターで店主相手に愚痴をこぼす人間もいる。
「だいたい、好きでこんな体格に生まれたんじゃねぇってのにさー」
短い黒髪をがしがしと掻き毟っているのは、もちろんヴァンである。愚痴の内容も、昨日のナサニエルとの一件に尽きる。
愚痴をこぼす通り、ヴァンは決して恵まれた体格ではない。十六歳にしては、小さく華奢な体つきで、三つ年上のバイト先の同僚ユーリアと並んでも、身長の面でやや劣る。見た目も可愛く、声も高め、となればウェイトレスの服を着せたくなる気持ちも分かるというものだ。
「ヴァンちゃん、暇なら、お皿洗いとか手伝わない?」
ヴァンよりも頭一つ分だけ背の高いアーニャが、そう持ちかけると、ヴァンはとんでもない、という顔をした。
(やばいなぁ、愚痴り過ぎたかな)
思い出すのは、『フィオーナ』のバイト一日目にしての、店主ティボルトとの会話だった。
―――まだ、ユーリアが出勤していない時間だったから、ティボルトから直接、仕事内容について教わっていた。
基本的に、メニューを渡し、注文を聞き、食事を運び、そして片付けるという内容さえ把握していれば、後は、テーブルの配置やメニューを記憶するぐらいしかできないので、仕事内容についての大雑把な説明が終われば、何となく雑談に流れていった。
ティボルトは、ヴァンの養い親とも面識があり、話は自然と養い親のことになったのだが、ふと、ティボルトは神妙な顔つきでのたまった。
「お前、アーニャには騙されるなよ」
何をバカなことを、と笑った覚えがある。アーニャは誰にでも優しい、ちょっとトロいところがあるものの、それだって許容範囲内の、ヴァンから見ても可愛らしい店主だった。それに何より、自分の娘をそんなふうに言うのかと、それがびっくりだった。
「あれは、俺の娘じゃない。―――カミさんの娘だ」
前半部分にびっくりしたが、後半を聞いて、ティボルトが何を言おうとしているのだろう、と首を傾げた。
「いいか、うちのカミさんも、若い頃からこの食堂を切り盛りしてたが、その、なんというか、こう、ほっとけない感じでな、ついつい、俺も注文聞きやら、皿洗いやら手伝ってやったもんよ」
あぁ、なんだ、のろけか、とツッコんでみたら、エラい剣幕で怒られた。ばかやろう、よく聞け、とかなんとか。
「あれはな、罠だったんだ。帳簿まで手伝うようになったら、もう逃げられねぇ。そんときゃ、かぶってた猫もすっかり取り払って、虎になっちまってるって寸法よ。……アーニャはあれの娘だ」
苦々しく呟いたティボルトに、顔を引きつらせて聞いていたことは今でも覚えている。ティボルトの表情に、それが本当だと信じ始めてきたのだ。
それからも、ティボルトはヴァンに、気を付けるべき仕草や会話の流れについて語った。
「最初はビンのフタだ。開けられなーい、とか甘えた声で言ったら、それは獲物を探してるんだ」
自分というエサに食いつく獲物が誰なのか、見極める手段だという。
「次は、皿洗いか店内掃除。役に立つかどうかを見るためだ」
ヴァンは、うんうん、と真剣な目つきで話に相槌を打った。
「だがな、何より恐いのは帳簿だ。計算が合わない、とか言われて手伝っちまったら、もうおしまいだ。……そうだ、帳簿については、もうひとつ、忘れちゃならないことがある」
ティボルトは厨房に居るであろうカミさんを恐れ、いっそう声を低くした。
「今月が赤字だとか言いながら、店で帳簿付けをすることがあるかもしれないが、ありゃ、別の帳簿だ。バカな男どもが、それなら、と注文するのを誘ってやがんのさ。本当の帳簿は絶対に表に出さないし、たとえ、帳簿付けを手伝わせても、それはダミーだ」
表と裏の帳簿を持っている、とティボルトは呟いた。
それからというもの、それとなくアーニャの行動を見ているのだが……
(ことごとく、当てはまるんだよなぁ)
目の前のアーニャは人畜無害そうな猫の姿をしているが、その正体は虎なのだ、と、ヴァンは完全に確信していた。
「え~? お皿洗いがダメなら、ちょっとあそこの空いてるテーブル、拭いて来てくれない?」
甘ったるいネコ撫で声に、どう断ろうかと思案していると、横からぬっと大きな影が出て、アーニャの差し出した布巾を受け取った。
「なんだよ、アーニャ。オレに言ってくれれば、いつでも手伝ったのに」
その巨漢はこの店の馴染み、レックスだった。アーニャに惚れているのかどうかは知らないが、今のところ、第二のティボルトの最有力候補である。
「あら、うれしい。じゃぁ、あそことあそこのテーブル、お願いね?」
アーニャの笑みが、ヴァンには悪魔の笑みに見えた。
レックスが布巾を持って離れたのを確認すると、ヴァンは本題を切り出そうとポケットからコインを取り出した。
「……アーニャ姉さん」
カウンターにパチリ、とコインが乗せられる。
「言いたいことは分かるわよ。……ファン・ル・ファン遺跡の調査許可をゲットした学者さんと、語らいに《・・・・》行くんでしょ?」
「うん。もう、これしか手段がないから」
アーニャは、情報料をすっと迷いない仕草で受け取ると、「フィオーナの隣、ワイクさんの宿に滞在中よ」と小さく言葉を返した。
「ヴァンちゃんの生い立ちについては、この町じゃ有名だから。……きっと、うまくいくわよ」
ウィンクを返して微笑むアーニャに、ヴァンは「ありがとう」と背を向けた。
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「是非ともファン・ル・ファンについて、語り合ってみたい。自分の育て親はそこの出身だから」
そう言って取次ぎを頼むと、学者先生は「ふん」と鼻をならし、承諾した。
宿ではなんだから、と隣のフィオーナに案内すると、その助手も「話を聞きたいから」とついてきた。昼過ぎのフィオーナは閑散としていることは知っていたから、ヴァンにとっても話しやすい場所だと思った。もちろん、応対に出て来たユーリアに、周囲のテーブルに客を入れないように頼んだ。
「改めまして、ヴァンと言います。今日は無理を言ってすみません」
丁寧に挨拶をすると、白髪まじりとはいえ、見事な赤毛の学者先生はグゼイルと名乗った。次いで紹介した若い助手の名前はジュリオ。こちらは研究助手にしては、目鼻の整った美形だったが、いかんせん、愛想がなかった。
まず、ヴァンが、養い親との会話や、そこから自分がどんな風に興味を持ったかなどを話してみると、グゼイル先生はぐいぐいと喰らいついてきた。偏屈で、典型的な自己中心型な学者のようだったが、こと研究対象になると、一気に目が輝いた。集落跡を残すのみで、これまで自発的な証言者がいなかったこともあったのだろう。話は主に、家の構造や食事内容など、しごく一般的なものに留まった。ヴァンとしては、何よりも『巨人』について根掘り葉掘り尋ねられるだろうと思っていたので、これは非常に面食らった。民俗学者と言っていたから、宗教に関することは興味がないのか、もしくは、意図的に避けているのか。……異教に関することについては、国教会が神経質になっていることもあるし。
気付けば、ヴァンは質問攻めになっていて、グゼイル先生はツバを飛ばして質問し、助手のジュリオは二人の問答をせっせと書き取っていた。
(まずいな、ちょっといやな雲行きだ……)
このままでは、こちらが知っているファン・ル・ファンの知識を披露して終わりになってしまう。そう考えて視線を泳がせたとき、少し離れたテーブルでこちらを眺める目に気付いた。
向こうはこちらに気がつくと、人を食ったような笑みを浮かべ、ひらひらと手を振ってみせた。
ヴァンが何か声を掛けるより先に、その人物が立ち上がって、こっちへとやって来る。
「お話中を失礼しますよ、グゼイル先生」
「おぉ、護衛役のあー、なんだったかな、まぁ、いい。適当な道案内役は見つかったのか」
高圧的な態度を見せるグゼイル先生に、ナサニエルは見事にイヤな顔ひとつせずに頷いた。
「えぇ、探していたんですが、見つかりました。こちらの彼を推薦しようと思っていたんですよ」
思ってもみない言葉に、ヴァンはガタンと音を立てて腰を浮かした。
「何しろ、養い親と住んでいた山の庵に行く道すがら、ファン・ル・ファンの集落へ寄っているという話ですから、遺跡の見張り役と同じぐらいに信頼できる案内人です」
(アーニャか? 人の情報売ったのは……!)
そのアーニャから情報を買って、学者先生と直接交渉しているヴァンと、まったく同じことをしたわけである。いや、案外、アーニャが、ヴァンの行動を漏らしたのかもしれない。ヴァンの行動によって、口入れした筈のナサニエルが依頼から外れることを避けようとしたのだろう。……怒っていたとはいえ、そこまでする気はなかったのに。
「ほほう、なるほど。それならば安心だな。うむ、では、道すがらに話を聞くこともできるわけだ」
鷹揚に頷いたグゼイル先生に、助手が「先生、私は歩きながら筆記はできません」と至極まじめに意見した。
「むぅ、それもそうか。それならば仕方がない。お前が内容を覚えておけ」
ヴァンは内心ひどい仕打ちだと思ったが、助手ジュリオは「そうですか」と微妙な返事をした。たぶん、こういった無茶を言うことが多いのだろう。波風を立てずに話を進めるためには、最善の返事と言えた。
「さて、明日の用意もせねばな。二人とも、明日は頼むぞ」
ヴァンに対する質問も、明日に先送りすることに決めたのか、グゼイル先生はさっさと店を出て行った。ジュリオは慌てて筆記具を片付け、「それでは失礼します」と一礼して、あたふたと後を追う。
「……なんか、我が道を行く依頼人だな」
ナサニエルの言葉に、ヴァンは思わず頷いた。
「さて、じゃぁ、明日の予定でも詰めるか」
ナサニエルが、さっきまでグゼイル先生の座っていたイスに座ると、ヴァンも元の位置に戻った。
「……何も、言わないんだな」
ぼそり、とヴァンが呟くと、「あぁ?」とふざけた返事が戻ってきた。
「あー、なんだ? まさか、これっくらいで罪の意識とかあったりするのか? そいつは善良だな」
自分が引け目に感じていたことを、あっさりと笑い飛ばされ、ヴァンは小さくため息をついた。こいつにはとてもかないそうにもない、と。
善良だな、と呟いた相手の、微かに泳いだ視線には、とうとう気付かないままで。