黒髪の女装少年・2
どういう理由で育ててくれたのかは知らないが、じいさんは拾いっ子と呼んだ。そのまんまだ。まぁ、拾える状況だったから拾った、それまでのことだろう。
生き抜くために色々と教えてくれたじいさんも『ドリフター』だったから、自分も当たり前のようにその道を選んだ。
とても温厚なじいさんだったけど、昔はなかなかに乱暴者だったようで、気にくわない発言にはよく拳で返していたと聞いたことがある。本人からだったか、それとも、斡旋所にたむろしている誰かからだったかは、覚えていない。
そんなじいさんが、一度、とてつもなく強い男に負けて、それ以後は、自分をからかうような言葉を二回までは耐えることにしたらしい。いや、そうするように、その男に誓約させられたらしい。
人間関係を築いていく上で、その誓約は正しかったのだと、じいさんは言った。だから、自分も、二回までは耐えることにしていた。
……三度目からは、止める理由もない。
「ヴァン、お願いだからやめてったら」
『フィオーナ』の店先でナサニエルと対峙するヴァンに向かって、ユーリアが悲鳴のように懇願した。
ヴァンがキレてからの経緯は、至極簡単なものだった。物音か、聞き耳か、状況を素早く察した『フィオーナ』店主ティボルトが、「やるなら外でやれ、審判役はやってやる」と、嬉々として駆け付けたのだ。今は、店の前の道を引っ掻いて、円を描いている。
ヴァンは、軽く身体をほぐしながら、ナサニエルを見た。
体格は悪くない。何と言っても、背丈はレックスぐらいにあるのだ。鍛え上げられた体は、対するヴァンを、さらに小さく見せている。ヴァンは小さい身体を生かしてのスピード勝負が多い。無論、今回もそのつもりだった。
「あー、どちらかが参った、って言うか、円から出たら負けな。……まぁ、賭け試合にはしないでやっから、気楽にやれや」
後半はヴァンに向けられた言葉だった。ティボルトもドリフターあがりで、道理が分かっている。できるだけ穏便にかつ楽しくやろう、という魂胆が見え見えだった。
ファイト、と二人をけしかける声に、ヴァンの小柄な体は低く構え、いつ飛びかかろうかと隙を計るヤマネコのようになる。
「おいおい、ほんとにやるのかぁ?」
ナサニエルは困ったような、それでいて面白がるような表情で、ヴァンを見つめている。町の背に広がる山々には緑が萌え、初秋のさわやかな風を吹き下ろしてきていた。その風を受けながら、ナサニエルは深緑色のベストを脱ぐ。だが、ファイティングポーズをとることはせず、ベストを地面にそっと置くと、やれやれと肩をすくめた。
はからずもムッとなったヴァンは、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「てっとり早いだろ。これでオレが無残に負けるようだったら、遺跡のことはもう頼まねぇよ」
「……っつったってなぁ」
ナサニエルがぽりぽりと頭を掻く。まるで目の前の敵は大したことないとでも言うように。
「ま、やり合わないわけにも、いかないか」
ちらちらと好奇の視線を向ける通行人にも聞こえるように呟くと、ナサニエルは、ゆっくりと右拳を前に構えをとった。
从从从从从从从从从从从从从
「いちちちち……」
半時後、『フィオーナ』の厨房近くの部屋で、痛みを堪えつつ着替える、小柄な影があった。
「もう、ヴァンったら。……大丈夫?」
隣に腰かけるユーリアは、心配そうにヴァンにウェイトレスの服を差し出す。
昼にも着ていたミニのワンピースを見て、ヴァンはげんなりした顔でそれを受け取った。よりにもよって店主のお手製である。最初はユーリアに着せようと思っていたらしいが、ウェイトレスに辞められては大変、と厨房を預かる奥さんに大反対されたらしい。以後、お蔵入りになっていたものだったのだが、ヴァンという新しいオモチャを見つけた彼が、嬉々として引っ張り出して来たのだ。
最初は、腰まわりがキツいとか、胸元がガバガバだとか、色々難癖をつけて断っていたヴァンだったが、ひとつ指摘する度に、その次までにはきっちりと修正がされているので、とうとう口実も尽き、着ざるをえなくなってしまった。ここまで完全にヴァン用にカスタマイズされてしまっては、もはやユーリアも、おいそれとは着れなくなっていた。
「痛いけど大丈夫。幸か不幸かアザにはなってないし」
「うぅん、二の腕なんか赤くなってるわ。たぶん、これから青くなってくるはずよ」
ユーリアの言葉に、ヴァンは体をひねってその部分を見る。確かに、彼女の指摘通りに、赤紫に近くなっていた。
「んげ、カンペキ内出血じゃねぇか」
ヴァンは呟きながら、白いシャツをえいやっと脱いだ。目の前で着替えられることに慣れているのか、ユーリアは平然としている。
……だが、ヴァンの格好は異様だった。
上半身、特に胸や背中を隠すように、細長い白い布がぐるぐると巻きつけられている。だが、覆われていない肩口に醜い傷痕があり、それが包帯の下にまで続いていることは確かだった。
「夕方の混雑時間、大丈夫?」
「あぁ、これっくらいならね」
ピンクのワンピースをバホッと被り、ヴァンは、もそもそと袖を通す。
渡された白いエプロンを付け、仕上げにヘアバンドで前髪を上げた。
「……あーあ、ほんっとに慣れちゃったわね、ヴァンったら」
ユーリアは目の前の同僚に呆れ顔で呟くと、「先に行ってるわね」と手を振って背中を向けた。その足音がいつも通り店内に出たのを確認して、ヴァンは大きくため息をついた。
「……ちくしょう」
ナサニエルにかなわなかった自分の技量を思いだし、ぎり、と歯を鳴らす。
だけど、まだ、諦めたくはない、と心の中で叫ぶ。
だが、どうしようもない、と別の自分が冷めた口調で呟いた。
基本的にドリフターの依頼は早い者勝ち。先に依頼をとったナサニエルに渡りをつけたけど失敗。どうにもならないのは明白だった。それでも、一刻も早く、あの遺跡へ行きたいのに……。
「やめやめっ! とりあえずバイトに専念するぞっ」
自分の両頬をバシバシッと叩いて、ヴァンは厨房に向かって歩き出し―――
「お、ヴァン。大丈夫なのか?」
ひょこっと顔をのぞかせた店主ティボルトに声を掛けられた。
「審判やってた人間がよく言ったもんだ。見てただろうが。……あの野郎、完全に手加減しやがって」
「あっはっはー。そりゃ、技量の差がねぇ。って、怒るな怒るな」
ティボルトは立っているヴァンを頭から靴先までざっと見て「うん」と頷いた。
「スカートのボリュームがもう少し欲しいな。パニエを少し増やすか。あとは、ヘアバンドにもうちょっとフリルも足して、袖、もう少し改良したいな、もっとかわいく―――」
「こら待ておっさん」
ヴァンは慌ててティボルトの、暴走する妄想独り言を遮った。
「これ以上、どこに意匠を凝らせば済むんだ。もう十分だろ?」
ヴァンは自分のスカートの裾をつまんでヒラヒラさせてみせた。胸パット、エプロンのフリル、袖元の改良、襟をストイックに、胸パット増量、スカートをふくらませるためのパニエ、これまでの改良点を挙げればきりがなかった。
「ヴァン、お前は何か勘違いをしてないか?」
重々しい声を出すティボルトに、ヴァンはちょっとだけ怯む。
「お前が目の前でそれを着ている限り、可愛らしさへの追求はとどまるところを知らないんだぞ?」
こんなことも分かってなかったのか、と自信満々に胸を張るティボルト。
まー、つまりオレは体裁の悪くないオモチャってことで、つまりは、そのあたりも含めたバイト代増額で、でも、この仕事を続けていく限りこの『改良』が続くわけで、でも、女装を断ったらサイフが大打撃なわけで。
ぐるぐると考えたヴァンは大きく肩を落とした。
「あー、もういいや。どうにでもしてくれ」
「なんだ、張り合いがないな、おっと、そろそろ六番テーブルの魚が焼きあがる頃だな」
厨房に戻るティボルトに付いて行ったヴァンは、トレイを渡され、店に出た。六番テーブルは店の入口のすぐ近く、壁に寄り添った場所にある。そこにこのA定食を運ぶのだろう、トレイには焼き立ての鮎の塩焼きとライスとスープ……ヴァンの視界に六番テーブルの客が目に入った。
焦茶のくせっ毛をバンダナで軽くまとめた男は、こちらに気がつくと、にっこりと微笑みを浮かべる。
(あー……、見ない見ない。これは知らない人間、まったく見たこともない人間)
呪文のように唱えると、ヴァンはこれ以上ないぐらいに愛想笑いを浮かべて「A定食お待たせしました」とトレイをテーブルにのっける。そして、そのまま踵を返した。
とはいえ、まだ夜の混雑に入ろうかという時間に、そうそう忙しく動くこともできない。それも知ってか、「ねぇ、ウェイトレスさん」と、そいつが声をかけてきた。
「なんでしょうか? 追加注文ですか?」
あくまで彼を一人の客として応対するヴァンに、彼は意味ありげな視線を向けた。そして、低い声で囁く。
「育ててくれた人がファン・ル・ファンの出身だったって、ほんと?」
「―――どいつが漏らしやがったんだ、どちくしょう」
ヴァンの素のままの悪態に、ナサニエルは笑みを浮かべた。
「なんで執着するのかな、って聞きこみしただけだよ。なぁんだ、お父さんの為だったんだな」
「……それについてはノーコメントだな。それで、なにか?」
むっつりしたままで「追加注文は?」と尋ねたヴァンに、ナサニエルはことさらに何でもない顔で「んー? 別にぃ?」と答えた。
(ちくしょう。なんでこんなヤツに先越されたんだ。人を見てニヤニヤしやがって)
ヴァンは「それでは失礼します」と形式通りの応対をしてバイトに戻る。その背中に、軽く、声がかけられた。
「一晩で、手を打とうか?」
ヴァンは声をちゃんと聞き取ったのか、そのまま奥へと引っ込む。
いや、聞き取れていないわけではなかった。ただ、振り向いたが最後、バイト中だということも忘れて殴りつけてしまいそうだっただけだった。
厨房の壁を殴りつける代わりに、彼は服の上からサラシを握り締めた。まるで、それが自分を守る鎧であるかのように、強く。
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そこは、とあるやんごとなき婦人の別荘の一室。人払いをした部屋に、婦人と男が二人きりでいた。
豪勢な灯りに照らし上げられているのは、『絢爛豪華』の域から片足を『ケバケバしい』に突っ込んだ部屋の内装と、部屋を引き立てるかのような、黒のシックな装いに身を包んだ女性だった。口元を紫色の扇で隠してはいたが、その目許のシワから、決して若くないと分かる。
男の方は、意図的にだろうか、光を避けるように壁際に身を寄せていた。目の前の女性を満足させるために片腕を胸の前に上げて略式の礼をとっている。
その男が紡ぐ言葉を、婦人は満足そうに目を細めて聞いていた。
報告を聞き終えると、手にした扇をパタ、と閉じる。
「まさか、こんなところに、そんな人間がいようとはねぇ……」
やや厚化粧の婦人が、ふふふ、と含み笑いを漏らした。口元のほくろが妖しく動く。
「ファン・ル・ファンを出奔した男が育てた子、十六才だと言ったかしら? ……とすれば、あの時には十才。記憶が残っていてもおかしくないわねぇ」
パタ、と極楽鳥の尾羽のような扇が再び開き、婦人の忍び笑いを隠す。
「はい。『ドリフター』をしていますから、もしかすると、この依頼を待っていたのかもしれません」
男は淡々と答える。
「そうねぇ、だったら、こちら側から道案内を頼むのもいいかもしれないわ。結局、お金を出すのは、あたくしなのですもの」
「では、調査隊に加える、と?」
婦人が「もちろん」と答える。
「手がかりは、一つでも多い方がいいものね。そのあたりは任せるわ、怪しまれないようにうまくやってちょうだい」
男は低い声で了承を示した。
婦人は彼を下がらせようと扇を閉じたが、思いとどまって、それを口元にあてた。
「……そうそう、瞳に紫があるか、確認してちょうだい。それと、その子の特徴を、マルコに伝えて反応を見てみるのもいいかもしれないわ」
マルコ、という名前に、男は面倒臭そうな表情を垣間見せた。
「もし、紫があったり、マルコの反応がよかった場合は、いかがいたしましょうか」
「もちろん、連れて来るのよ。……調査の後の方がいいわね、その方が怪しまれないもの」
男は小さく頷き、自ら部屋を出ていった。
残された婦人は、くすくすと笑う。
「ふふ……、もうすぐよ、あなた。きっと、手に入れてみせますわ」
恍惚にも似た表情を浮かべる彼女の目に映るのは、今はここにいない愛しい男の姿だった。
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「あー……、なんもやる気しねぇや」
ヴァンはぼんやりと呟いた。
バイト先からもらった余り物――鮎の塩焼きとキノコのバター焼きを腹におさめ、洗濯を終えた後のことである。整理整頓された部屋で、洗濯されたシャツはドア近くに干されていた。
今日は散々だった。人のことを女扱いするヤな奴と遭遇したばかりか、そいつにあっさり負け、なおかつファン・ル・ファン遺跡へのチケットまで失ってしまったのだ。まだ鈍い痛みを訴える脇腹と左腕が、あの屈辱を思い起こさせる。
「じいさん。オレ、どうしたらいいかな」
部屋の端にある粗末なベッドに寝転がり、ヴァンは天井を見上げる。酸化して黒っぽくなった天井の梁が、彼の視線を受け止めた。
二年前に他界したヴァンの育ての親は、かつて、ファン・ル・ファンに住んでいた人間だった。
彼の言葉を借りて言えば、ファン・ル・ファンは閉鎖的にもほどがある集落だったという。『邪悪な巨人を崇め、巨人と心を通わすことのできる巫女達を中心に全てが運営されていた異端の村』というのが、一般的な認識であったが、彼は『邪悪』という言葉を決して口にしなかった。だからと言って、否定もしていなかった。
一般には『邪悪な巨人』が暴走し、ファン・ル・ファンの集落を一夜にして滅ぼしたと言われているが、その現場を見た者はいない。この地を預かる領主が異変に気付き、私設軍を派遣したときには、煙に包まれた集落に瓦礫と死体だけが転がっていたという。
折りも折り、病没した父王の後を継いで即位した新王と、前王の弟の間で内乱があり、国内は騒然としていた。秩序はなくなり、無法が町を歩き回っていた。地方の領主達は自らを守るために自警団や軍を組織し、これ幸いにと民に対して様々な締め付けを行っていた。
皮肉なことに、ドリフターの需要は高まり、その一方で、意味のない弾圧が増えた。国教会が異端を弾圧したのもこの時である。
晩秋の祭の夜に、ファン・ル・ファンは滅亡し、その翌春には内乱もおさまっていた。
平和へ、復興へ、歩き出した人々は、内乱の影で滅亡した集落について、様々な噂を取り交わした。
「巨人が暴走した」
「国教会が秘密裏に異端弾圧を行った」
「名もない山賊が、祭の夜を狙った」
噂は風のように広がった。
もうひとつ、早かったものがある。それは、内乱の収束期であったにも関わらず、国の対応だった。
ファン・ル・ファン滅亡から、半年後に叔父を処刑することとなった新国王は、すぐさまファン・ル・ファンの廃墟への立ち入りを禁止し、国王の許可なく遺跡――神殿跡へ入れないようにしてしまったのだ。
そのため、疫病根絶のための焼き討ち説や、巨人を使役した巫女の怨霊説、はたまた邪悪な巨人の神殿封印説など、多様な噂が飛び交うようになった。
滅亡より以前に、ファン・ル・ファンを飛び出していた者は決して少なくないにも関わらず、彼らが出身をひたすらに隠し、巨人については一切語ろうとしなかったこともまた、それに拍車をかける結果となった。
その点に関して言えば、ヴァンの育ての親は、変わり者だったと言える。ファン・ル・ファン出身であることを隠そうとせず、巨人についてはさすがに口にしないが、王都の学者に請われ、ファン・ル・ファンの話をしたことさえあった。
そして、死ぬ間際になって、彼はヴァンも忘れかけていた、あの日のことを語った。それゆえ、ヴァンはこの場所から遠く離れようとはしないのである。
さらに、もうひとつ。彼はヴァンに――たとえ結果的にそうなったとしても――ひとつの夢を託した。養い親自身が追い求めたその夢は、『滅亡に至る経緯を知ること』であった。彼の故郷が、なぜ、どのように滅亡への道をたどったのか、彼はそれを知りたがっていた。
(たとえ、それがどんなに醜く信じがたいことであっても、ただ、真実だけを、事実だけを……)
ヴァンはベッドサイドにある粗末な机の引き出しに手をかけ、小さな手帳を取り出した。
そこには暗号めいた文字の羅列と、明らかに共通語とは違う記号が並んでいた。
―――何かを隠すように、外部の人間を集落に迎え入れなかったファン・ル・ファン。外界との交易はあったものの、集落内で使われていた言語は文字も独特のもので、未だ解読が為されていないという。
その文字を記した手帳は、今は、ヴァンの手にある。
「最悪、これを武器に依頼人と直接交渉、かな」
憂鬱を隠そうともせず、ヴァンは静かに呟いた。
寝転んだまま手帳を広げると、その間から、何かがヴァンの頭の横にぱさり、と落ちた。
それは、たわいもないアクセサリーだった。木の葉に何回も特別な木の樹液を塗って、光沢と強度をつけただけの、そこに革紐を通しただけの、たわいもないペンダント。
ヴァンは、それを大事そうに持ち上げると、そっと机の上に乗せた。そして、小さく何事かを呟くと、手帳もその隣に置く。その後は、寝転がったままで、しばらく天井を見つめていたが、すぐに布団の中へもぐりこんでしまった。