まどろむ白い巨人・2
ヴァンが連れて行かれた先には、デルモーグ一人だけしかいなかった。マダムの部屋とは違って、ひたすら機能美を求めたシンプルな部屋は、デルモーグ自身の性格を表しているようだった。外見を気にせず、能力だけを、と。
「来たか」
相変わらず、正視に堪えない顔を晒し、デルモーグはヴァンを睨みつけた。
「これからアレと引き合わせるわけだが、事前に言っておこう。―――勝手なことをすれば、マルコが自らの血で止めるだけだ。その意味がわかるな?」
自分の言葉だけで神さまを従えることができる巫女とは違い、マルコは血を使って「眠れ」と言うことしかできない。つまり、それを続ければどうなるか、その結末は容易に想像できた。
(それにしても―――)
ヴァンは考える。
クスリを使われていない自分を、どうして急いで神さまと対面させるのだろうか。普通であれば、クスリで判断力を低下させるだろうに。
「そして、お前がアレに命令することは、ただひとつ。―――王都からの査察軍を、記憶を書き換えて追い返せ」
あっさりと答えを渡され、ヴァンはデルモーグを一瞥した。焦っているのだろうか、査察軍に探られて困ることなど……
「返事はどうした」
デルモーグの問いかけに、ヴァンはそっぽを向いた。途端に、パンという音と焼けつくような痛みが頬に走った。
「答えなさい、この不届き者めが!」
それは、部屋にいなかった筈の、マダム・ジェーンだった。いつもの扇を持つ手も、怒りにぶるぶると震えている。彼女に頬を張られたことよりも、ヴァンは、いつの間にそこにいたのかが気になった。
「ジェーン、部屋で待っているようにと」
「あたくしは、いやです。別に血など恐くありません。ですから、どうぞ、お側に」
「ジェーン……」
デルモーグはしばし沈黙した後、「好きにするがいい」と答えた。
そして、ちょっと展開から置いて行かれそうになっていた、ヴァンと、彼を捕まえたままのナサニエルに顔を向けた。
「さぁ、やるのか、やらないのか」
これで答えなかったら、今度は扇子あたりが飛んで来るような気がして、ヴァンはしぶしぶ口を開いた。
「本当に、そういうことができると思うのか?」
「は、マルコから聞いている。異教徒狩りに来た、教会の討伐軍を、まったく同じ方法で追い返したことはな!」
デルモーグの言ったことが本当かどうかは、知らなかった。だが、その可能性はある。記憶をいじる、というよりは、幻を見せることによって、何もなかったと思い込ませるのだ。
(どちらにしろ、神さまに会えるなら、問題ないか)
横柄な神の言葉を思い出して、ちょっとムッとしたヴァンだったが、「分かった」と絞り出すような声を装って答えた。
「ふん、始めから大人しく従っておればよいのだ」
デルモーグはヴァンに背を向けると、続き部屋の扉に向かって「入れ」と声をかけた。
ガチャリ、とノブを回す音がする。ゆっくりとドアが開いていく。そして、彼が姿を――――
「……っ!」
自分が行動を制限されていることさえ忘れ、ヴァンは彼に駆け寄ろうとした。もちろん、ナサニエルに阻まれたが、そんなことも問題ではなかった。
先日、顔を会わせたばかりの兄は、青白かった肌をさらに青くさせ、半開きの目は、ただデルモーグだけを見つめていた。そして、緩慢な動作で、ゆっくりと歩いていくその手には、白い石像が抱かれていた。
そう、白い石像だ。それこそが、休眠状態の神さまに他ならないのだと、ヴァンは知っていた。
「そこに置け」
デルモーグの冷たい声に、こっくりと頷いたマルコは、主人の隣にあるテーブルに猫ぐらいの大きさしかない石像を置いた。そして、子供のように「これでいい?」と目で訴える。
「そこに座れ。あとは、分かっているな」
デルモーグに渡された短剣を、恭しく受け取り、マルコは迷わず自分の腕にあてた。
ここまで、ただの一度も、ヴァンを見ることなく。
「……どうした、感動の対面だろう?」
揶揄するようなデルモーグの声に、ヴァンは拳を強く握りしめた。手のひらに爪が食い込んだが、その痛みさえ忘れるほどの怒りが、ヴァンを支配していた。
「―――それで、始めていいのか?」
我知らず、声が震えた。少しでも間違ったことを言えば、きっと彼は迷わず短剣を使う。
「あぁ、始めてもらおうか」
ヴァンはデルモーグをぎろり、と睨みつけた。
「その前に、オレのやるべきことをやらせてもらう」
「なんだと?」
「巫女としての宣誓をしなければ、神には巫女として認めてもらえない。それすら、そいつの血で止められたら意味がないからな」
マルコを「そいつ」と呼んだことに対して、微かな驚きを示したデルモーグだったが、その表情も、すぐさま嘲笑に変わった。
「ふん、……だそうだ、マルコ。巫女の宣誓が終えるまでは、動くなよ。――――お前のことはどうでもよくなったらしいな」
デルモーグはそう言ったが、もちろん、マルコには、後半部分の意味を理解していなかった。目の前の黒髪の少年すら認識せず、ただ、「クスリ」をくれるデルモーグのことしか頭にないのだ。
ヴァンは、そんな兄から目を逸らし、今は小さな、白い巨人の像に指先で触れた。ヴァンの瞳が明るい紫に変わったのを見て、ジェーンが驚愕とも畏怖ともつかない声を上げる。
『ハン・リグル・リグジェ、白き巨人よ』
ヴァンの言葉に続いて、マルコがそれを公用語に翻訳するのが聞こえた。
『……お前か、新米の巫女よ』
不機嫌そうな声が、ヴァンの頭の中から聞こえてくる。だが、それをマルコは聞き取ることはできない。
『全ては最初の巫女の制約どおりに、私は巫女として、神の声を聞き、神の力を借りよう』
それは、教えられた宣誓の言葉。たぶん、目の前の神がイヤというほどに聞いた言葉。
『それだけか?』
その言葉に、びくっとヴァンの手が震えた。
(な、何か、忘れたものがあったっけ……?)
大きく息を深呼吸。いち、に、さん。
『わ、私の名は、ヴィル・エーダ。最初の巫女の末裔』
『それはもう聞いた』
容赦ない神の声に、ヴァンの血の気が引いた。
『……』
神の沈黙がひどく痛い。
『……えーと』
『もういい。それで、差し迫った用事があるのか?』
問われて、ヴァンは言葉に詰まった。もちろん、宣誓が終わったのだから、さっきデルモーグに言われたことを、そのまま伝えなければならない。だが、それを、本当にやっていいのか……?
(記憶をいじって追い返す、のは、ともかくとして、それを、こんなヤツのために?)
だが、それをやらなければ、目の前の彼が傷付いて……
(本当に、そうか?)
間違ったことを言えば、即座に血を持って止めさせる、そういうことは言っていたが、ヴァンが命令しないことに対しては、デルモーグは何も言っていない。だが、命令しないこと、なんて、結局、些細な時間稼ぎに過ぎない。それなら―――
「宣誓が、失敗した」
ヴァンの言葉に、その場にいた全員が驚愕の声をあげた。
「な、なんだとっ! どういうことだっ?」
「宣誓は特別なものだ。祭の日に行わないと意味がないそうだ」
「な……に?」
デルモーグの顔が苦いものでも噛み締めたように、醜く歪む。
「幸い、祭の行われていた日は、次の……新月だ。それほど日数はかからないと思うが」
ヴァンの言葉に、デルモーグの拳がぷるぷると震えた。
「この、役立たずめがっ!」
拳をふるわれ、ヴァンは毛足の長い絨毯に倒れ込んだ。自分で立ち上がるより先に、ナサニエルに無理矢理立たされる。
「それを連れて行け」
デルモーグの言葉に、ナサニエルは小さく返事をすると、黒髪の少年を引っ張って、部屋を後にした。
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「……おおぅ」
部屋に入った途端、ナサニエルが声を上げた。だが、驚いて慌てふためく様子もなく、そのまま部屋の奥へずかずかと入る。
「逃げたみたいだな」
あっさりと外された鎖の主――ジュリオは、早々に逃亡した模様だった。
「あー、やっぱ、これ、俺が探すのかぁ? めんどっちいなー」
ナサニエルはヴァンを掴んでいた手を放すと、両手でガシガシと焦茶のくせっ毛を掻き乱した。
「どうした? 早く報告に行けばいいだろ?」
拘束から逃れたとは言え、ドアがナサニエルの身体で塞がれているヴァンは、そう言ってやった。彼が出て行った後に、もう一度神さまと話をしようと思っていたのだ。むしろ、早く出て行って欲しかった。
「オレ、あんまりめんどいことしたくねーんだよなー。っつーか、あのジュリオの野郎が、オレで捕まるかってのによー」
ぶちぶちと文句を呟き続けるナサニエルに、ヴァンは首を傾げた。
「だいたい、デルモーグさんもよー、あのエラそうな口調はどーにかなんねーのか? マダムの雇われならまだしも、醜いツラの野郎になんか、仕えたくねーっての。しかも、クスリまで使うキングオブ外道だしなー」
愚痴を吐き続けるナサニエルは、再び髪を掻き乱した。
「……あー、ナット?」
「うっし! 決めた! ……イーチぬーけたっと」
(は?)
ヴァンにはナサニエルが何を決めたのか「イチ抜けた」なのか、まったく分からなかった。
「んじゃ、オレ、仕事放棄すっから。よくよく考えたら、ちょうど『褒美だ』って小金もらったとこだし、あとは適当に……」
「待て、ナット! 仕事放棄するなら―――」
「あぁ、女の子と手を取り合って逃避行。いいねぇ」
「違うっての! ぶろと……マルコの居場所を教えてからいなくなれ!」
ヴァンのセリフに、きょとん、としたナサニエルだったが、その目をすっと細めた。
「そいつはオススメできねーなぁ、ヴァン」
「……なんだよ」
「あれを、まだ兄ちゃんと考えてるようなら、甘いぞ? もう、あそこまで来れば立派な中毒だ。クスリの為なら何でもやる人間になっちまったんだよ」
分かっていたはずだった。だが、それでも、改めて他人の口から聞くと、胸にナイフを突き立てられているような気分になってしまう。
「ま、どっちにしろ。俺は知らねーけどな。白いお人形と一緒に、どっかに隔離されてるみたいだしー?」
肩をすくめてみせたナサニエルは、今度は探るようにヴァンの目を覗き込んだ。
「んで? お前はどうするんだ、ヴァン?」
俺と逃げるか?と尋ねられ、ヴァンは返事に窮した。この邸に、兄と神さまを残して? 一度は自分を裏切った男の手をとるのか?
「……邸を、出られる算段はあるのか?」
「お前に、その気があれば、な」
服の下には、まだ葉っぱのペンダントが下がっている。大丈夫なのか?と自分に問い掛けながら、服の上からぎゅっとそれを掴んだ。
「ここから、逃げたい」
ヴァンの答えに、ナサニエルは、最初に出会ったときのような笑顔を浮かべた。
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「確かに、出られたな」
「出られたろ?」
至極あっさりと邸を抜け出した二人は、宵闇の迫る道を、てくてくと歩いていた。
体格のいい男が、隣の人影の肩に手を回す。
「ほら、俺ってば、結構、こーゆーことやってるしなー」
隣には黒髪の少女……もとい、邸のメイド服を来た少年が歩いている。
「侍女と一緒に夜の町へ繰り出すことか?」
白いエプロンこそないものの、グレーのワンピースは、ナサニエルがどこからか調達してきたものだ。腰と胸がかなり余っていたが、それ以外のサイズはぴったりだった。
「ま、そうだなー。……で、これからお前はどうするんだ?」
「家に帰りたいところだけど、それも危険だし」
行く当てはなかったが、今、行かなければならない場所は分かっていた。ファン・ル・ファンへ行けば、柱がある。そこでなら、神さまと話ができるはずだった。
「とりあえず、山に登る。オレは、……いや、なんでもない」
いろいろ話してしまいそうになる口を、ヴァンは慌てて止めた。
この数日間で、覚えたことがある。それは、『裏切り』だ。
ナサニエルもジュリオも、一度は自分を裏切り、さらに雇い主まで裏切った。また、いつ、どんな裏切りがあるか分からない。
(それなら―――、こちらも、何も話さないだけだ)
「ふーん、ま、いいけど。やることないんだったら、連れて行こうかな、って思っただけだ」
「連れて……?」
「言ったろ? 王都から仕事の帰りだって。ここで収入が入らないのは痛いが、戻ればすぐに仕事も見つかるさ」
そう言われれば、別にホームとなる斡旋所があるとかいう話をした気がする。
「すまないな。オレは、やっぱり、両方取り返したいから」
ヴァンの表情に決意の固さを見出したナサニエルは、つい、微笑んだ。
「いい顔になってきたじゃん。―――さ、ここまでだ」
ナサニエルは立ち止まった。
真っ直ぐ行けば、アーニャ姉さんやユーリアのいる町にたどりつく。右を行けば、苦い思い出のある集落へ続く山道に繋がる。
「ありがとな、ナット」
「ま、スカートだし夜だし、登りにくいとは思うけど、いつ追っ手が来るか分からねーしな。頑張れよ」
そして、二人はあっさりと別れた。後ろも振り向かず、さくさくと歩いて行くナサニエルを、ヴァンは警戒とは違う眼差しで見送ると、自分も山へ向かった。たぶん、もう会うこともないんだろう、と思いながら。