黒髪の女装少年・1
その店は、いつも通りの雰囲気だった。
陽もそろそろ中天へ昇りつめようかという時分に、いかつい顔の人間がそこかしこのテーブルに寄り集まり、思い思いの過ごし方をしている。声をひそめて相談するグループもあれば、朝っぱらから陽気に酒を飲む連中もいた。
「アーニャ姉さん!」
そこに、やや高めの声を上げて駆け込んで来たのは、膝丈のスカートに白いエプロンを重ねた、ウェイトレス姿の子だった。もうすぐ昼食時となる時間に、息を切らせて入ってくるのは、何か事情があるのだろうか。
まるで少年のように短く整えられた黒髪を、レースのカチューシャで押さえ、ピンクの縦縞のワンピースで大股に歩くその子を見るや、何人かが小さく笑いを漏らす。だが、そんな彼らを無視して、ウェイトレスはまっすぐ店のカウンターへ向かった。
「あらぁ? ヴァンちゃん? これまた可愛らしい格好ねぇ?」
カウンターの奥に座っていた、二十代後半ぐらいの赤毛の女性がにっこりと微笑んで迎える。ムサい男が多く訪れるこの店の、れっきとしたオーナーである。
「遺跡の依頼が入ったって、聞いたんだけど、……ほんとにか?」
見るからに焦った様子の彼女に感化されることなく、『アーニャ姉さん』と呼ばれたオーナーは、しげしげと目の前まで来た彼女の頭のてっぺんからつま先を見つめる。
「……なんだよ」
「うぅん、なんでもないわ。ただ、……この店にその格好で来ると、事情を知らないお客さんに、ちょっかい出されちゃうかもね」
「―――そうそう、俺みたいなヤツとかな」
その声は、ウェイトレスの彼女――ヴァンの頭上から響いてきた。
「レックス、あんたかよ」
上を見上げれば、筋骨たくましい男が笑い出す一歩手前の顔をしていた。レックスは自分の明るい茶色の髪を、がしがしと乱暴に掻き乱すと、素直な感想を口にする。
「いやぁ、パッと見た感じ、男にゃ見えねぇぜ」
「余計なお世話だ。今日は『フィオーナ』のじーさんにジャンケンで負けちまったんだから、しょうがねぇだろ? しかも、こっちに行くならこの格好のままで、ついでに昼メシの宣伝までして来いってさ」
ヴァンは顔をしかめながら、カチューシャを一旦外し、落ちて来た前髪を上げ直した。
「……じゃなかった、アーニャ姉さん。遺跡の依頼の話だよ!」
ちょっと困った顔を見せたアーニャは、それでも、いつも依頼内容が貼り出されるボードを指差した。ボードにはいくつものメモ書きがピンで留められている。
『急募 庭木の剪定』
『パーティー参加者求む 鍵開け・罠解除のできる者に限り』
『屋敷警備 週三日』
そう、ここは酒場であり、仕事の斡旋所である。とかく、林立する諸国の争いの絶えない世の中で、「ドリフター」と呼ばれる者たちが生まれたのは、遠い昔の話ではない。小競り合いによって疲弊し、安定した職業の少ない国々を巡り、傭兵や用心棒となった者達がその起源と言われている。彼らは、時には特定の国の手足となって動き、時には小さな村を略奪者から守ったりと、それこそ様々な仕事をこなしていた。そして、時代の波の求めるままに、その数を飛躍的に増やし、家を継げない次男・三男坊の行き着く先として五指に数えられるほどになると、彼らの求める荒っぽい仕事の数にも限界がきて、仕事を選ぶ余地もなくなり、何でも屋のような職業になったのである。
だが、「ドリフター」が夢も希望もない使い走りになったわけではなかった。三年前に解散してしまったが、伝説のドリフターチームがあった。彼らは国を行き来し、危険な仕事を次々と成功させた。特に有名なのが、とある亡命王子の護衛のエピソードだ。内乱を嫌った王子は、叔父の手から逃れ、隣国の親戚の元に身を寄せることにした。その護衛を見事やり遂げたのがこのチームである。まとめ役のオズリック、鍵開け・罠解除を担当するアムレス、荒事・力仕事向きのギルデンスターン、そして、紅一点のフィリアの四人組は、ドリフターの憧れとなった。彼らのエピソードを本にしたものまで、王都には売られているらしい。そんな、彼らのようになることを目指し、ドリフターは日々の仕事をこなしていく。
さて、ヴァンは、ボードに留められた、さして多くないメモ書きの中から、難なく求めていた依頼を見つけ出すことができた。
『ファン・ル・ファン遺跡の調査のため、護衛・案内役求む』
アーニャは、ヴァンの視線がその一点で止まったことを知ると、ようやく口を開いた。
「ヴァンちゃんの待ってた依頼って、これでしょう? でもねぇ、すぐ人がついちゃったのよ」
「な、なんだってぇーっ!」
ガツン、と殴られたようなショックを受け、ヴァンが立ち尽くした。
「だ、だ、だ、だ、誰がっ!」
口も回らない彼に、「まぁ、落ち着けや」と隣のレックスが水の入ったコップを差し出すが、ヴァンはそれを手で拒んだ。
「誰、って言われてもねぇ。初めてのお客さんだったし、えーと、確か、王都から来たようなことを言ってたわねぇ……」
アーニャはあさっての方角を見つめ、朝早くにやってきた青年を思い出した。ヴァンの隣に立つレックスほどに体格がよく、焦げ茶のくせ毛を持った二十代ぐらいのその青年は、顔はそこそこで、何より人当たりが柔らかかった。
「交渉、できそうだった?」
「どうかしら? それはやってみないとわからないわ。まだ、依頼人には知らせてないけれど」
むしろ、ヴァンが交渉に入るであろうことを見越して報告していない、と言った方が正しい。それに依頼には「最大三人まで」とあった。あの青年は一人のようだったし、そこにヴァンが加わっても問題ないだろうと踏んだのである。……あとは、二人の相性の問題だけだ。
「どっかで、その人に会えないかな。何か言ってなかった?」
「まぁ、また来るとは言ってたけどねぇ……」
思案するようなアーニャに、ヴァンは勢い任せに「それじゃ、昼メシ食いに来るように言ってくれるかな」と頼んだ。それと同時に、巨漢のレックスが思いっきり吹き出した。
「なんだよ。別にメシおごって交渉持ちかけるぐらい……」
「いや、いいけどな。でも、ヴァンはその格好で会う気なのか?」
言われて、ようやく自分の服装を思い出したヴァンの顔に朱が散った。バイト先の店主――目の前のアーニャの実の父親にあたるのだが――と交渉の末、ヴァンはジャンケンで負けた日には、必ずウェイトレスの格好をすることになっていた。しかも、女装した日は何故か貰える手当てが向上するという精神的慰謝料つきなのである。はっきり言って、からかわれまくっていた。
ヴァンも、交渉した時には「女装ぐらい」と思っていたのだが、店主の出してきた服がミニスカートのワンピースだということを知って、愕然としたものだ。いわく、正規のウェイトレスが長めのスカートだから、もう一人はミニにしないと釣り合いがとれないとかなんとか。
「……で、どうする? 伝えておく?」
少し困ったような微笑みを浮かべたアーニャの声に、ヴァンは我にかえった。
「ちょ、待ってくれ、その……あー、午後のお茶に寄ってくれるように言ってくれるかな。もちろん、オレのおごりだって言って」
「だよな、おごりとでも言わなきゃ、何が哀しくてヤローと二人でお茶なんざ……」
「レックスは黙っててよ」
ギッと鋭い視線を向けると、「はいはい」とやっつけ返事が戻ってくる。
「まぁ、いいんじゃない? それじゃぁ、伝えておくわね」
アーニャの言葉に、ヴァンの顔が輝いた。「それじゃ、オレもう帰るな」と声を上げて、くるりと背を―――
「ちょっと待って、ヴァンちゃん。何か忘れてない?」
「え、オレは何も……?」
アーニャは、ふぅ、とため息をついて、腕組みをして見せた。
「お店のランチの宣伝するんじゃなかったの? そういう約束でバイト抜け出て来たんでしょ?」
「あー、そういや、そう言ってたな。……ヴァン、仕事は最後まできっちりとな?」
レックスにまで言われ、ヴァンは心底イヤそうな顔をした。
「いや、でも、ほら、なんつーか……」
「お父さんのことだから、後で絶対確認するわよ? でなきゃ、バイト代を減らされちゃうんじゃない?」
「そうそう、お前も裕福ってわけでもないしな」
アーニャとレックス、二人の連携に、ヴァンは「うぅ…」と小さく呻きを漏らした。
「う、分かったよ、やりゃいいんだろ」
さっきまでヴァンが大声でまくしたてていたせいか、店内の注目を集め直すことは必要なさそうだった。むしろ、ヴァンを知る常連が、ニヤニヤと彼の困る様子を観察している。
(ちっくしょ、この娯楽なしヒマ人どもがっ!)
悪態をつくものの、宣伝しなくてはならない。
ヴァンがぐっと拳を握り締め、ぐるりと店内を見まわす。見知った顔だけならともかく、ほとんど知らない顔も混ざっているから余計にやりにくい。
それでもとりあえず、覚悟を決めることにした。
すぅ、と息を吸いこむ。大丈夫。……恥さえ捨てれば。
「みんな、おいしいご飯が食べたかったら、ジオナータ通りのレストラン『フィオーナ』に来てねっ!」
できるだけ可愛らしい声を出すと、知り合いの類からどっと笑いが上がった。
「ちっくしょー、こっちだって恥ずかしいんだから、笑うなよっ!」
「あーはいはい。確かにとびっきりの宣伝はしたって伝えておくから、もう戻っていいわよ。お昼のラッシュ始まっちゃうでしょ」
来た時と同じように冷やかされながら、ヴァンは真っ赤な顔で店を飛び出して行った。
「さぁさ、まともな昼ご飯を食べたい人は、フィオーナに行ってねぇ。ここは、おつまみ程度しか出さないんだから」
パンパン、と手を叩いて、アーニャは注目を散らす。
それに従ってか、いくつか立ちあがったグループが店の外へと足を向けた。
と、その前に、ぬ、っと一人の男が店へ姿を現した。
何かショックなことでもあったのか、その足取りはそこはかとなく重い。彼はカウンターへとまっすぐ向かってくると、そのままに座った。常連ではないが、知っている顔だ。アーニャは「どうぞ」と水を差し出す。
「オーナー、いまの女のコって、よく来るの?」
青年の口に上がった「女の子」が、出ていったばかりのヴァンを指しているのだと気付いたアーニャは、笑いを堪えて少しヘンな顔になった。
「ま、まぁ、そうね、ここじゃ知られた子だけど」
「今さぁ、ナンパしてフラレちゃったよ。タイプじゃなかったのかな」
アーニャはゴホンと変な咳をした。テーブルに戻ったレックスの方は、ひたすら腹を抱えている。
「あーあ、最近じゃぁ、結構いいランクだったのになぁ……」
ぼんやりと呟くその男に、アーニャは先程の伝言を伝えるべきかと真剣に悩んだ。
从从从从从从从从从从从从从
町の中央を突き抜けるジオナータ通りにレストラン『フィオーナ』はある。この町で、酒のつまみ以外のまともな食事をとるとなると、まず挙げられる食堂である。正確に言えば、たいした観光資源もなく、大きな街道からも外れたこの町で、まともな食事のとれる場所は、二軒しかない。もう一軒は宿も併設した店で、「あの店は人間用の飼料を出す」ともっぱらの評判だった。
さて、昼のラッシュを終え、ひと仕事終えたヴァンは、入口にほど近いテーブルに陣取り、お茶をすすっていた。ウェイトレス姿とはうって変わって、白無地の長袖シャツに黒のズボンを履いている。そうしていると、ちゃんと少年のようだった。
(しまったなぁ、ちゃんと外見とか聞いておくんだった)
ヴァンは舌打ちすると、お茶の入ったカップをトン、とテーブルに置いた。自称「ドリフター」のヴァンだが、あまり長期の仕事は好まず、こうして町を離れずにバイト三昧の日々を送っている。自称、というのは、あくまで「さすらい人」というのは第三者がつけた呼び名であり、その定義も曖昧だからだ。最近は、『ドリフター』を認定し、支援するギルドを作ろうとする動きが出ているみたいだが、都会から遠く離れたこんな山地ではその影響もない。
「ヴァン、お茶のおかわりいる?」
『フィオーナ』の看板娘、ユーリアがポット片手に尋ねてきた。ヴァンが見上げると、ちょっとくすんだ金髪に、ようやくソバカスが消えたばかりの頬に笑みを浮かべている。
「ねぇ、ヴァン。『ドリフター』なんて、やめちゃいなよ」
これはユーリアの口癖だった。
「やだね。オレはぜってぇやめねーよ」
半分だけになったコップを差し出しながら、これまた口癖になった答えを返す。
「んもう、あたしが心配してるのに~。育ててくれたおじいさんの職業を、あなたが継ぐことなんてないでしょ?」
「……ユーリア」
じとん、とヴァンが睨むなり、ユーリアはすぐさま言葉を続ける。
「はいはい、いつも通りに『じいさんの意志を継いでるわけじゃない、これはオレの意志なんだから』って言うんでしょ? まったく強情なんだから」
ユーリアはくすり、と笑った。
そのとき、キィっと音を立てて、店のドアが開いた。振り返ったユーリアと、ヴァンの視線の先には、黒い瞳を好奇心で輝かせた焦茶の髪の男が立っている。
「げっ」
思わず漏れたヴァンの声に、その男がこちらを見た。
「お一人様ですか?」
ユーリアの声に「そうなんだけど、ヴァンってヤツいる? なーんか、ここで待ってる、って伝言されちゃってさぁ。君みたいな可愛い子と待ち合わせならよかったんだけどね」などとお茶らけた返事をするのが聞こえた。ヴァンの拳がふるふると震える。
「ヴァン? それならあそこで座って……、なに突っ伏してるの、ヴァン?」
ユーリアの指摘した通り、ヴァンは何かを呟きながらテーブルに顔をうずめていた。
「あっれー? さっきの子じゃん。なんだ、もしかして、やっぱり付き合ってくれる気になったんだ?」
もしかしてやっぱりとはなんだ。もしかしてやっぱり、とは。
ヴァンが顔を上げると、いつの間にやら目の前にその男が座っていた。
「だから、オレは男だって、何回言ったらわかるんだ…っ!」
今にも殴りかかりたい衝動を何とかこらえ、ヴァンはギリギリの口調でそう言った。
昼前に、ウェイトレス姿でこいつと会ったのは、確かにアーニャの店の前だった。ここ『フィオーナ』へ戻ろうと急いでいるところに、いきなり腕を掴まれ、「ちょっとこの町の案内してもらえる? できれば君のことも聞きたいな」と囁かれたのだ。たとえヴァンでなくとも、鳥肌ぐらいは立てただろう。殴りつけるまではいかなくとも。
「えー? だって、どう見ても女の子だろ? ……あぁ、待て待て、ゲンコツ禁止」
ヴァンは何とか怒りを抑えようと、はらはらと成り行きを見つめているユーリアに「こっちの人にもお茶お願い。あとつまむものを」と頼む。
ユーリアが奥へ引っ込んだのを確認してから、ようやく正面に座る男に向かい直った。
目の前の男はナンパ男じゃない。これは大事な交渉相手なんだから、と口の中で呟く。
「……突然、呼びつけてすまなかった。どうしても、頼みたいことがあって、な」
真剣な顔に変わったヴァンに、男が軽く眉を上げた。
「あー、聞いた聞いた。あの美人のオーナーから。……依頼を譲るか、依頼に加えるかして欲しいんだろ?」
「分かっているなら話が早い。それであんたの意見はどうなんだ?」
ヴァンはじっと相手を見つめた。男は答えずにあさっての方を向く。
「お待たせしました」
ウェイトレス姿のユーリアが、お茶とクッキーを持って来る。
その間、ヴァンの視線はずっと男に、男の視線はずっとユーリアに注がれていた。
さすがに仕事中に声をかけることはしないのか、と思っていたら、クッキーの皿を置いた直後に「ありがとう」とヴァンの目から見ても極上の笑みを浮かべて見せた。ユーリアはさすがに戸惑った様子だったが「どうぞごゆっくり」とあっさり流す。見習わなくては、とヴァンはちょびっとだけ思った。
結局、ユーリアが奥に引っ込むまで、男はヴァンに視線を向けようともしなかった。
そして、ようやくヴァンに向き直った男は、きっぱりと言い放った。
「……えーと、率直に言えば、断る」
予想の範囲内にあった答えだったせいか、ヴァンはさして動揺もせず、「理由を聞かせてもらえるか」と呟くように尋ねた。
「あー? あぁ、まず、基本的に経験の浅いヤツとは組みたくなくてね。この仕事を始めてから二年とは聞いたけど、調査・探索の仕事なんてやったことないんだろ? あの店のお姉さんからバイトの方が多いって話も聞いたしな。それに―――」
男はヴァンを上から下までざっと見た。舐めるようなイヤな視線ではなく、むしろ値踏みに近い一瞥だった。
「できれば初見の女と仕事はしたくない」
「だから女じゃねぇっつってんだろっ!」
バン、と机を叩き、ヴァンが立ち上がった。
「まぁ、熱くなるなよ。だいたいな、こっれくらいの挑発にノるようだから、経験も浅いって言うんだよ」
ヴァンは拳をぎりっと強く握り、大人しく座った。相手の言うことも、もっともだったが、だからといって、わざと怒らせるような真似をするのもどうだろうか。
(いや、違う。わざと怒らせるのは、オレの方から交渉を打ち切らせるためか?)
ヴァンはそう考え、疑うように口にした。
「……つまり、オレが男だろうが女だろうが、組みたくねぇってことだな?」
「そうは言ってないさ。ただ、今のところは組む気はないな。何かセールスポイントでもあるってんなら別だがな」
からかうような笑みを浮かべた男を睨みつけながら、ヴァンは自分のカップに手を伸ばした。
(落ち着け、こいつのペースにノせられるんじゃだめだ)
だが、目の前の男について、情報が少な過ぎる。向こうはアーニャから色々聞いているんだろう。余裕綽々の眼差しでこちらを見ていた。その様子にさらに腹が立つ。
依頼内容は、遺跡の調査隊の護衛と案内役だ。
ファン・ル・ファン遺跡については、ヴァンはイヤという程に知識を持っている。六年前に滅びた山の異教徒。彼らの崇めていたという白い巨人伝説。異端の痕跡を破壊しようとする国教会の反発を押さえつけ、神殿跡が国の管理下におかれてからというもの、遺跡調査許可証は一度も発行されていない。だからこそ、この機会を逃すわけにはいかなかった。ヴァンは、その為だけに『ドリフター』になり、ファン・ル・ファンに一番近いこの町に居を構えているのだから。
「……ファン・ル・ファン遺跡について、どれぐらいの知識があるんだ?」
「案内役をもぎ取ろうってか? ここに住んでる人間なら、不案内ってこともないんだろう? それじゃお前を選ぶ理由にはならないぞ?」
そんなことは分かっている。ファン・ル・ファンの最も重要な遺跡――神殿跡に国の許可なく入れないとはいえ、集落跡なんかは誰でも行ける。まぁ、好んであんな山奥まで行く人間もいないだろうが。
「そうかな、ファン・ル・ファンには、足腰の鍛錬も兼ねて月に一回は通ってる。オレ以上にあの道を知ってるヤツはいないぜ」
足腰の鍛錬というのは真っ赤なウソだった。だが、月に一回、ヴァンは集落跡に通っている。その理由は、この町に住む人間なら、誰でも知っていた。亡くなった養い親の墓参りと、かつて暮らしていた山小屋の手入れだ。
「別に、学者先生を案内するのに、そこまで道を熟知してる必要はないだろうけどな」
またダメ出しだ。……こいつ、ほんとはからかってるだけじゃねぇのか? とヴァンが訝しむ。
「だいたい、そんな細っこい体じゃ足手まといになりそうで恐いしなー」
男の言葉に、ヴァンは自分の体温がすっと冷えるのを感じた。
これで、三度目だ。二回は女呼ばわり、そして今度は身体的特長を表に出しての揶揄。もういいや、と心の中のヴァンが何かの紐をぶち切った。
「……あんた、そういや、名前聞いてなかったな」
ヴァンの少年のような声が、ぎりぎりの低音を絞り出した。その意味に気付いたのか、男はにやにやと笑みを貼り付けたままだ。
「おや、自己紹介してなかったっけ。俺はナサニエル。ナットでもナッティでも、まぁ、好きなように呼んでくれてかまわ――」
「ナット」
ヴァンの声がナサニエルの言葉を遮った。
「表に出ろ。三回も侮辱されれば十分だ」