2-1
――その日。
有坂アオイが学校の、自分の所属する教室に到着したのは、始業の鐘が鳴る、その少し前のことだった。
アオイにしては非常に珍しい。普段は教室にまだ誰もいない――早朝練習に、運動部員が来るような時間に教室へ入り、そのくせ何もせず、己の席についてぼうっと外を眺めている。他にすることと言えば、たまに、借りた本を、図書室の前にある返却用の箱へ入れておくくらいだ。
だから早くに行こうが遅くなろうが、アオイにとって不都合はない。そもそもなぜそんな早い時間帯から学校へ行くのかと言えば、単純な話で、当人・有坂アオイの表現を借りれば、『部屋にいる理由がないから』だった。
部屋にいる理由もないのなら、学校へ早く行く理由もまたないはずだが、無為な時間を過ごした上に遅刻をする可能性を増すことを嫌うからだとか、生活習慣を整えるためだとか――およそ、説明しても理解の困難であろう細かな理由があって、しかしその説明が面倒な故に、アオイは口を噤んで、淡々と学校へ来て、日々を消化していた。
教室へ入り、席へつく。時間をちらと確認すると、アオイはカバンから本を取り出して読み始める。使い込まれ、風合いが飴色になった本革のブックカバーがかかった、ハードカバーだ。
アオイの席は窓際の後方。周囲には級友の席がおよそ等間隔に置かれているが、朝ももういい時間帯だと言うのに、そこには誰の姿もない。冬の最中、風邪の流行る季節ではあるが、その座席に割り当てられた生徒が欠席しているわけではない。
彼らは離れた位置で談笑している。そして何でもないようなことを話しながら、珍しく普通の時間帯に来た奇妙な級友・有坂アオイのことを、その不気味さを、密やかに交わしている。共有している。遠巻きに、観察している――。
――たった一名を除いては。
「おはよ、アオイ」
アオイの視界の外から、声がかけられた。読書を中断し、アオイは顔を上げる。
「……おはよう。高代さん」
「むう」
挨拶をした女子生徒が、頬を膨らませる。小動物を連想させた。手には通学カバンを持っている。今しがた来たのだろう。アオイの知る限り、彼女はいつもこれくらいの時間に来るし、ギリギリ遅刻することもある。
「私のことはレミでいいって言わなかったっけ?」
「……高代さ――」
「レミ」
「……」
アオイは観念した。
「……おはよう、レミ」
「うん。よろしい」
女子生徒は破顔した。
名前を高代レミと言うこの女子生徒は、去年の後期から図書委員を務めていて、その縁でアオイと話すようになった。
明るい茶色の髪を緩く二つにまとめていて、背はあまり大きくない。見た目よりも幼く見え、見た目以上に利発な少女だ。
この学校は地元の学生が多く、レミもその一人だった。そしてその多くが、有坂アオイの家庭事情を、多かれ少なかれ知っていた。もちろん、レミも例外ではない。
しかしそれを知る者のほとんどがアオイを避ける中、レミはそうしなかった。
むしろ。
「そんなこと気にしない――。そう言えば、嘘になるけれど。私にとっては、それくらいのほうが刺激的でいいわ。ええ。格別に」
などと、笑った。それも、初対面で。
さしものアオイも面食らったものだった。
言ってみれば高代レミは、自他ともに認める、変わり者だった。
「そうだ。アオイ。今日は、遅かったじゃない。どうしたの?」
「遅いと言っても、レミよりは早かったけど。よく分かったね、私が遅いって」
「オリエに聞いたのよ」
「堤さんに?」
堤オリエは級友の一人で、レミと二人で図書委員をやっている生徒だ。変わり者ではない。大人しい生徒だ。どうやら、レミとは以前から親交があるらしく、アオイがレミと話していると、決まってじっと二人のほうを見ていた。
今だって自分の名前が出た瞬間に、オリエはびくり、と気の毒になるほど大きく肩を跳ねさせた。二人を盗み聞きしていなければできないことだ。恐らく、アオイが視線を向けたことにも、オリエは気がついているだろう。
ただしレミは気が付いていない。オリエはレミの背中越しにアオイを見ていたからだ。この位置関係は果たして偶然そうなったものなのか――いや、そうではないだろう、とアオイは思う。
「どうしたの?」
「いえ――。何でも。今日は霧が濃いな、と思っただけ」
アオイはオリエから視線を外す。
「ふぅん……? 確かに濃いけど――。観測史上でもかなりのモノなんだっけ? 今朝の霧は」
「さぁ、私は家を出てそう思っただけで、詳しく調べてはないけど」
「何か、この霧、二三日は続くみたい」
「へぇ、そうなの」
「テレビの受け売り。ま、問題は霧がどれくらいの間続くか、じゃなくてどれほど濃いか、ってことだけど」
「そうね」
アオイは頷く。
この街は昔から霧が多い。大概はその日のうちに晴れる。夜に山上から霧が下りてきて、日中には晴れる、という具合に。ただ時々――特に今のような寒い時期には、気温の問題で、霧が晴れないまま何日も居座るときがある。さほど珍しいことではない。この街を行く交通機関は、だから霧の対応にも精通していて、多少であれば、まったく問題なく運行ができる。
だが――。
「そう。だから今日なんて最悪。前もって早く出てなきゃ遅刻してた――あんなに濃いなんて、思ってもみなかった」
そう言って、レミは溜息を吐いた。
今日の霧は、慣れた交通機関すらも運行を躊躇させるほどに濃いものだった。牛乳を零したように白く、数メートル先すらも見えない。これほどに濃い霧が、しかも数日居座るなどというのは、この街でも珍しい。
見れば、教室もまだ全員揃っていない。レミと同じく電車通学をしている生徒が、レミと違っていつも通りの――それもあまり朝余裕のない時間に出たがために、今も立ち往生を余儀なくされているということだ。
「だから――ううん。だからってわけじゃないけどさ」
レミはわずかに言いよどむ。
が、言う。
「何か、嫌な感じがする。分からない、アオイ?」
「嫌な感じ――ね」
アオイにはよく分からないことだ。
「ま、アオイはその辺り、鈍感そうだけど……あ、もしかして遅かったのって、霧のせいなの? でもアオイ、確か徒歩通学じゃ……」
「ええ。まぁ」
アオイは原付で通っていることを、レミにも秘密にしていた。校則違反であるし、そもそもアオイは無免許だ。もっとも今日は、正真正銘、徒歩で通学していたが。
「ただそれは的外れね、レミ。実はちょっと、昨日から親戚が家に来ていて。その都合で遅くなったの」
「親戚? ……それって、有坂の?」
レミは声を潜めた。
「ううん。母方。仕事の都合でね、こっちに用があるんだって」
「あ、なんだ。そうなの……」
「多分、悪い人ではないけど、色々とうるさい人でね。だから、今日は、ほら」
そう言って、アオイはカバンに入れた包みを見せた。パステルカラーの布に包まれた箱だ。小さなサイズのものが、二段重なっている。
「弁当? 本当に珍しいわね。手作り?」
「まさか。その人が作ったの。案外小器用でね。私が普段お昼は適当にパンで済ませてるって言ったら作ったのよ。年頃の女の子は身体を大切にしなさい――ってね」
「ああ、そりゃ、確かにうるさい」
うへぇ、とレミは舌を出した。
高校生ともなれば、自らの周りにある社会の、その輪郭くらいは見えるようになる。だけどまだそれに順応するまでには至らない。結果、女の子は身体を大切にするべきだ、というような教訓――レミ達に言わせれば古臭い教え――には、とりあえず否定から入りたくなってしまう。
反抗期。
そう言ってしまえば楽だが、当人からすれば発展途上の、歪で複雑な感情である。
ところでアオイは昨夜のうちに、星見カイルの存在を対外的には母方の親戚と偽ることに決めていた。父方――有坂の関係者は、この街では顔が割れていて、ごまかすことが難しいが、母方――村田であればそうではないからだ。何せ、アオイ自身もあまり詳しくない。物心の付く前、生まれて間もない頃に亡くなったと父親から聞かされ、母の話をしたことはあまりなかった。
この弁当も、母方の親戚――ではなく、カイルの作ったものだ。昨夜、夕食を供したところ、カイルは非常に困惑、そして拒否し、自分が食事を作ると申し出た。そしてずいぶん遅い夕食を終えた後、翌日の朝食と昼食――すなわちこの弁当を作るとまで、カイルは言った。一過性のことではなかった。
食事にこだわりを持たないアオイにとって、昼食は――否、全ての食事が些事。栄養補給だ。滋養に差はあれ、消化器に収まれば同じこと。無論美味しいに越したことはないが、粗食に慣れたアオイの味覚は、出来合いのパンも要求を満たすに足りるものだった。
しかし。
この弁当はアオイの――有坂家のお金で作ったものだ。加えてアオイの嫌いなものが入らないよう、制作過程も逐一見届けている。
無下にするのは――
そう。無下にするのは、非経済的と言えよう。非効率的と言えよう。
だから捨てたりだとか、何かのついでに適当に食べるようなことはしないでおこう――と、アオイは考えていた。
「――ええ。まぁ、家に置いてあげている身分だから、一応。私は。これくらいは……そも当然のことではあると思うけど」
そう言ってアオイは包みをカバンへ戻し、それを学習机の左横に引っ掛けた。
きょとん、とレミはアオイを見る。
「……何?」
「いやぁ――アオイって、手作り弁当とか食べるタイプなんだ、って思って」
「どういうこと?」
「うんや。勝手な思い込みだったんだけど。なんか、人の握ったおむすびとか、人と同じ鍋を突くのとか、てっきり苦手なタイプなんだとばかり思ってたよ、私」
「それって、潔癖症ってこと?」
「そうなるかな」
「ふぅん……。潔癖症、ね」
思い当たるところが、ないわけではないけれど。
「綺麗好きだとは思うけど。それは単に私が、出来合いのものばかり食べているからじゃないの?」
「あー。そうかも。だから珍しいな、って思ったし。その、弁当」
「でしょうね。自慢じゃないけど、私、料理なんて、それこそ購買のパンくらいしか作れないもの」
「――パンくらいは自作できるってこと?」
「まさか」
アオイは嘯く。
「袋を開けるくらいしかできないってこと。……だって私、火が怖いもの」
「――――プッ」
レミは、たまらず噴き出した。
「アハハハハハハハハ、いくら何でも大袈裟。冗談下手ね、アオイ」
「……冗談に聞こえなかった?」
「冗談にしか聞こえないから下手なのよ!」
笑いながら、ばしばしと背中を叩くレミ。クラスメートが、そしてもちろん堤オリエが、ぎょっとした顔を隠しきれないでいる。彼らには導火線の近くで火遊びをする子どもでも見えているに違いない。
「冗談じゃ――ないんだけどね」
「何か言った?」
「……いいえ。別に。ならよかった、って言ったの」
「――変なアオイ」
変なのはそっちだ、とアオイが指摘しようとする。
その瞬間、鐘が鳴った。始業の合図だ。教師が入ってくる。席を離れていた生徒が、弾かれたように席に戻る。レミも例外ではない。
レミの背中を見送ったアオイは息を吐いた。今日は遅刻がなくなった――つまり公共交通機関の遅延で遅刻をした生徒も、遅刻扱いにはならない、という先生の話に、ならば遅刻すればよかった、と抗議する生徒達を尻目に窓の外を眺める。
外には、レミの話通りの、記録的な濃霧が広がっている。白く、数メートル先も見えない有様だ。
「――嫌な感じ、か」
アオイはレミの言っていたことを呟く。この先を見通せない感覚は、あまりいいものではない。神経を使わされる。
それに。
――少し、やり方を考える必要があるわね。
――『人形』殺しも……。
考えるべきことも増える。
この天候では、超長距離狙撃は不可能だ。ただでさえ繊細なことだ。あまり不確定要素を介入させるのはよくない。これまでも荒天はあった。霧の日もあった。しかしこれほど状況の悪いのも珍しい。
原付も気掛かりだ。今は同居人――星見カイルが使うということで、マンションの駐輪場にある愛車。こんな悪天候で、万が一にも事故が発生しないとは限らない。もしそうなれば、あの男は。
あの男は――。
――これじゃ、原付とあの男と。
――どちらを心配しているんだか、分からないわね。
顔が浮かぶ。
星見カイル。
同居人にして、記憶のない異邦人。
今頃は出かける準備でもしているだろうか?
どこへ行くと言っていたか――そう言えば、聞いていなかったけれど。
――。
ああ、なんだか。
「――嫌な、感じ」
アオイは今一度、声に出してそれを呟く。
教室がそれで凍り付くのにも構わず――窓の外、天地の曖昧な空を見ながら。
―――
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