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B/A  作者: 秋月章
間章
8/17

Ex-2

 朝。

 目が覚める。高い天井が見える。カーテンのかかる室内は暗い。

 当たり前のことだけど、まだ新鮮に思えるのは、それだけ自分の生活が、母と妹と共にあったためだろうと、編美(アミ)は思う。

 二段ベッドの下で寝ていると、一日の最初と最後に見るものは板。自分にとってはずいぶん低い天井で、妹にとってみれば、薄っぺらい床。

 立場が変われば見えるものは変わる。感じられるものは変わる。それは――そんな事実の例えにするには、卑近なものにも思えた。


 「ふぁ……あぁあぁあ……」


 編美は身体を起こし、大欠伸をした。寝ている間に凝り固まった身体を伸ばす。全身に血液の行き渡るような感覚。

 けれど、瞳の奥には鈍痛が拭いきれず存在している。

 頭の奥が重い。

 枕元の携帯電話で時間を確認。おおよそ八時間は寝た計算。肉体的な疲労はすっかり回復したと判断していいはず。けれど。


 「ん……」


 カーテンを開けようと思ったが、気力は湧かない。

 編美は寝床から腕だけを伸ばして、蛍光灯を点ける。どんなに辛い朝も紐に吊り下がったキーホルダー大のテディ・ベアを引くことは苦にならない。精神的な理由ではない。寝転がった状態でも紐を引けるよう、長めに調節していた。かちり、と音がして部屋が明るくなる。

 眩しい。

 編美は小さくうめき声をあげた。

 今の眼にこれは辛い。灯すのは常夜灯一つにする。横目を向ければ机の上に、堆く積み上げた資料と文献の山。そしてノートパソコンが一台。

 のろのろと、這うようにしてパソコンに触れると、休眠状態(スリープ・モード)画面(ディスプレイ)が立ち上がる。薄暗い部屋に導光板(バックライト)の光がぼんやりと放射し、編美の顔を照らす。顔も洗っていない自分の顔はやつれて見えた。

 編美は地元にある大学の院に籍を置く大学院生だ。専攻は心理学。

 編美の街は過疎地域で、編美の同世代はほとんど都会へ出てしまっていたが、編美は地元に残ることを選択した。――今のところ、その選択を後悔するつもりはない。

 メールを開く。

 新着メッセージが一件。送り主はいつもと同じ。文面も、恐らくは。


 「……嫌だなぁ……」


 そう言いつつ、文面を開く。

 予想通りだった。フォルダを確認しろとの旨。

 メールを閉じ、いつものアプリケーションを開く。

 それはアドレスで紐づけしたアカウントさえあれば、保存したファイルを別の端末(デバイス)でも閲覧できる――いわゆるクラウド・ストレージだ。名義は研究室。編美が個人的に使うものと比べ、その容量は破格のものだが、既に半ばまで使われている。それだけ集積するデータの量が多いということだ。

 幾つものフォルダが並んでいる。名前は英字(アルファベット)数字(ナンバ)で記されていて、それがいつ作成したものかが分かるようになっている。このアプリケーションの初期設定(ディフォルト)だ。最新のものが作られたのは昨日の夜中。メールが来ていた時刻と同じ頃合。

 フォルダを開く。

 中にあったのは複数の動画ファイルだ。名前は同じく日付と時間。こちらは撮影した日時を記録し、ファイルとして保存する際にそれを名前とするよう、撮影機器で設定されている。高画質で撮影しているため、動画のサイズは普通のものよりも遥かに大きい。日付は昨日のもので、時間は朝の八時から始まり、夜の十二時、日付の変わるタイミングで終わっている。計十六時間分の動画を、律儀に、機械的に、二時間区切りで保存している。

 

 「嫌、だなぁ……」


 編美は、今一度呟く。

 それからマウスを動かして、フォルダの中の一番古いものを再生する。イヤホンジャックに刺しっぱなしのヘッドホンを付けるのも忘れずに。

 万が一隣人にでも聞かれたら――言い逃れはできない。

 ノートパソコンのメディアプレイヤが立ち上がり、動画再生の準備を進める。重い。

 連日こんなことをしているせいで、断片化(フラグメンテーション)でも進んでいるのだろうか? 最適化(デフラグメンテーション)は毎週欠かさずにしているのだけれど――。もといプリインストールのソフトウェアだから、性能もたかが知れているのか。

 やがて準備が済む。

 再生が始まる。

 

 ビデオカメラの立ち上がる雑音ノイズ。画面のざらつき。人間で言えば目覚めたときの瞬きに近いか。しかしそれもすぐに止む。

 カメラは、ある一室を捉えている。

 部屋の角に据えられているようで、映像からは床が歪んだ菱形(ダイアモンド)にも見える。

 何の変哲もないリビングだ――ただ一点を除けば、少しモノが少なすぎるというだけの、普通の部屋。

 音源がなく、時折入り込む小鳥の囀りを除けば静かなもので、カメラの動作音すら、動画には収められている。

 だが三分もしないうちに、ドアが開く。

 パジャマ姿の少女が一人、リビングへ入ってくる。


 「……おはよう」


 小さな声だが、機器越しでも明瞭に理解ができる。鈴を転がすような声。寝起きらしく、目を擦り、欠伸をしながら、台所(キッチン)へ向かう。

 彼女が――何の変哲もない一人の少女が、この動画の撮影する目的。

 編美の観察対象だ。

 名前は知らない。便宜的にAと呼ぶことにしている。

 英語(アルファベット)のA。

 記号(シンボル)のA。

 目下のところ、彼女――少女Aを観察することが、編美には課題として与えられていた。

 編美は大学院で、ある研究チームに所属している。

 とは言っても、それで卒業をするようなことはない。編美自身には、別の研究もある。同じ地元で、同じ大学に入った友人のたっての頼みで、手伝いをしている。

 その内容が、少女Aの観察だ。

 編美はスクールカウンセラーの資格を得るために大学院で臨床心理学、及び児童心理学を勉強しており、研究チームの長である教授からその一助になるのではないか、とこの仕事を任された。少女Aの行動を観察し、気が付いた点などをまとめ、定期的に――およそ三日ごとに、教授へと送っている。少額ではあるが報酬も出る。

 しかし。


 「やっぱり、何かおかしいよね、これ……」


 編美自身は友人から頼まれただけで、教授の研究内容は知らない。

 この手伝いをする段階で、研究内容についての詮索や漏洩の一切を禁止する旨の書類に署名(サイン)している。自分のすること――少女Aに関する記述(データ)が教授の研究に必要不可欠だということしか知らされていない。

 ――だが、それでもこの研究が異常だということは理解ができた。


 少女Aが、台所(キッチン)から戻ってきた。

 手にはお盆を持っていて、その上には木のお椀とスプーン。朝食。シリアルの類だ。

 それを硝子のテーブルに置いてから、早速食べようとして――思い出すように少女Aは言った。


 「……いただきます」


 そして控えめに両手を合わせ、食事を始める。

 少女Aは、髪を肩口まで伸ばした少女だ。発育不全気味なところがあって、身長の割に端々が華奢だが、容姿は非常に整っている。編美には妹がいたけれど、恐らく妹と同年代か、あっても上下一歳程度の差だろう、と思う。

 もし仮に学校に通っていたら、異性からの人気は高かっただろう。表情に乏しいところはあったが、却ってそれも魅力的に思える――どこか放っておけないような雰囲気を醸す一因となっている。自分や妹と比べて、人間かどうかすら危うい。限りなく精巧な――人間に似せた人形を想わせる。

 少女Aが黙々と食事をしている。

 美味しいともまずいとも言わずに淡々と、自分のペースでスプーンを進めている。

 変わったところと言えば、ソファに正座をしていることくらい。

 

 それから――何人もの少女Aの姿が、画面に映し出されていることくらい。

 

 何人も。何人も。向きを変え、位置を変え、部屋を埋め尽くすようにして、少女Aは部屋に存在する。普遍性を湛えて。

 別に、何か異常なことが起きているわけではない。

 

 ――ほとんどの少女Aは虚像(にせもの)

 ――実像(ほんもの)の少女Aはたった独り。

 

 編美は自分へ、そう言い聞かせる。

 種明かしとしては単純な話だ。

 この部屋のほぼ全面に鏡が張ってある。

 床も、壁も、天井も。全てが鏡張り。

 それも微妙に角度を持たせることで、どこにいても少女Aは、鏡の中の複数の少女Aと視線が合うようになっている。

 鏡小屋(ミラーハウス)、あるいは万華鏡(カレイドスコープ)を想像させるが、その拘りは、設計者の執念を感じさせる。

 本当に――何人もの少女Aが同時に存在しているように見えるのだから。

 

 「……ごちそうさま」


 少女Aは食事を終え、盆に戻し、台所(キッチン)へ立つ。

 量の割に遅かった。小食なのかもしれない。

 食器を洗い、戻ってきて、何をするでもない。少女Aはソファに三角座り。ぼうっと虚空を見つめている。

 もとよりこの部屋には娯楽に関するものが何もない。最低限生活に必要なもののみが一揃いあるだけで、欲望を満たす術がない。

 時折、どこから持ってきたのかも分からない分厚い本の内容を横目で見つつ、無地のノートへ書き写すくらいのことしか、少女Aの日常は変化をしない。


 「ん――」


 ふと。

 少女Aが何かに気付いて、ソファを立った。ぺたぺたと素足を鳴らし、部屋を出る。

 カメラは何も捉えてはいない。

 少しして、笑い声が聞こえてきた。

 少女Aの声。

 楽し気な、歓談。


 ――まただ。

 ――また、始まった。


 編美は、今すぐにでもヘッドホンを毟り取りたい衝動に駆られる。これから起こることを、編美は知っている。

 だがこれも課題。

 課題なんだ――。

 すぐに少女Aは戻ってくる。


 「――うん。そうなの。これも、お父さんが買ってくれた。心理学の本。まだ時々分からない言葉もあるけど、半分くらいは、理解できたかな。……あ、いいよ。座ってて、座ってて。私、お茶を淹れるから。紅茶でいいよね? 私は――」


 甲斐甲斐しくテーブルを片付け、少女Aはティータイムの準備を済ませる。

 お盆の上には湯気を漏らすティーポット。安物だが品のいいデザインをしており、青のティーコージーがよく似合う。お茶菓子がないのが惜しく思われる。

 少女Aは、手際よく紅茶をカップへ注ぐ。カップは二つ。二人前。角砂糖を、各一つずつ。


 「――いい香りのする、新しい茶葉を買ってもらったの。ストレートで飲むのが美味しいんだけど、私は砂糖を入れなきゃ、苦くて飲めない。……え? 私もそう? うふふ、嬉しいな。あ、でも、お父さんには、悪いことをしちゃったかな。私、いつもお部屋にいるのに。わがままばかり聞いてもらってる。いつか、お返しもしたいんだけど――」


 先程までとは別人のようによく喋る少女A。花の咲いたような笑顔。

 ふわりと、湯気が二条、カップから立ち上る。


 「――そう。何がいいかなあ。……気持ちだけできっと嬉しいって? ダメだよ。それじゃ。私、お父さんと違ってお金はないけど、使い道があるわけじゃないし、全額使ったって、きっと大丈夫だもの。うんと豪華なものをあげたいわ。ネクタイとかどうかな? お父さん、いっつもネクタイをしているものね。それとも――」


 少女Aは、無邪気に相談事をしている。

 どうやら、父親にプレゼントをあげたいらしい。可愛らしい話題だ。

 けれど。


 編美には、話し相手の姿が見えない。

 映像には、記録されていない。

 いいや――いる。確かに存在してはいる。

 

 ――少女Aの目の前に。

 ――少女Aと同じ姿をして。

 

 少女Aは、鏡に映る自分と、対話をしているようだった。楽しそうに、自分自身と歓談に花を咲かせている――。

 悍ましい。背筋に嫌悪感が走る。

 少女Aの話題は成立していない。鏡の向こうの少女Aは、当然左右反転のまま、その動作を反響することしかできない。

 手つかずのカップは、虚しく湯気を立てている。


 ――いわゆる、空想の友人(イマジナリ・フレンド)……。

 ――厳密には違うかもしれないけれど。それが一番近い……のかしら。


 編美はそう分析している。

 空想の友人(イマジナリ・フレンド)

 文字通り自分の空想の中に、自分にしか見えない友人を生み出す現象だ。児童期に広く見られ――ちょうど少女Aくらいの年齢の子供に、よく起こり、年齢を重ねるうちに空想の友人(イマジナリ・フレンド)の存在そのものを忘却するという形で終息する。

 言い換えれば子供が大人になる過渡期に喪われる現象であり――空想の友人(イマジナリ・フレンド)とその終息を、健全に大人になるための通過儀礼(イニシエーション)の一つとして捉える見方も存在する。

 児童期というものも相まって繊細(センシティブ)な問題ではあり、子細な観察は必要ではあるものの、空想の友人(イマジナリ・フレンド)それ自体は本来、そう怖れる事態ではない。

 

 そう――本来は。


 「――あれ? 紅茶、飲まないの? 冷めちゃうよ、せっかく淹れたのに――」

 「――ごめんなさい。私、猫舌で――」

 「――ああ。そうだっけ。次からは冷たいものも用意するね――」

 「――いいえ。お構いなく。そこまで迷惑をかけるつもりもないもの。私は――」

 「――迷惑? そんなことないわ。私は遊びに来てくれるだけで嬉しい。こうしてお話をしているだけで。私は私が友達でいてくれて、本当に嬉しいもの――」

 

 

 少女Aは空想の友人(イマジナリ・フレンド)と話す。

 一人二役で。それぞれ、異なる人格を有する――


 ――ううん。違う。

 ――彼女は、鏡に映るものを、自分だとは認識できている。

 ――けれどそのうえで、それを友人として認識している。

 ――彼女は誰と話しているのだろう。

 ――自分?

 ――それとも……他人?


 編美には、少女Aの分析ができない。

 話すという行為には、どういった形式であれ他者が必要だ。直接話すにせよ、何らかの媒体を介するにせよ、あるいは空想上に仮想化させるにせよ――そこには明確な他者が存在する。

 しかし少女Aの場合は異なる。鏡に映った自分自身と話している――決して比喩ではない。自分自身という他人、他の人格を有する者ではなく、自己と同一の人格を共有(シェア)する――少なくとも少女Aは、そう考えている――存在と、矛盾なく会話を成立させている。

 自己同士の対話。

 疑わしいのは人格の分裂。すなわち解離性人格障害だが、それにしては整然とし過ぎている。自己と対話をするという行為は論理的には成立のし得ないものであり、何らかの矛盾(エラー)を内包する。そのはずだ。

 しかしそれは矛盾なく、少女Aの現実に成立している。

 少女Aの世界においては自己との純客観的な対話は矛盾することのない規則に基づいている。その点において少女Aは、編美の存在する世界とは異なる世界に存在する。

 つまり撮影機器の向くものが、この現実世界に極めてよく似た別の世界でない限り、少女Aは自らの言葉(ロゴス)で世界の法則を歪めている。


          ――自らの主観で世界を書き換えている――


 ……編美には、これ以上、この映像を観る気力は湧かなかった。

 

 「あの娘は――神様でも騙りたいのかしら?」


 編美は吐き捨てる。神学論争なんてしたくて、今の道に進んだわけではない。

 何でこんなことをしなくちゃいけないのか――不満と後悔ばかりが先に立つ。


 「……いいえ」


 世界の法則を規定するのは神だ。

 しかし神を規定するのは人間であり、人間の言葉(ロゴス)

 自分には、少女Aが神に取って代わろうとしているかに見えた。その傲慢さがきっと癪に障るのだろう、と思った。


 「だって私、そんな信心深くなんて、ない――」


 違うのだ。そう。根底が違う。人の奥底にいて法則を規定するのは神ではない。

 それは紛れもなく自分だ。自分の影。世界は物理現象に自分を投影した結果に過ぎない。見ると言うのはそういうこと。見られるという結果。全ては相対的(リレイティブ)であり対称的(シンメトリ)

 つまり――


 「あの娘は私だ。私になろうとしていた。なんで、どうして――?」


 編美は、映像を閉じる寸前の少女Aの姿を思い出す。

 少女Aは、編美を見ていた。


 あるいは――編美の瞳が、少女Aを見ていたのかもしれない。


 それは同じこと。同じことなのだ。

 本来は違っていなくてはいけないのに。


 ――本来?

 ――本来って、何?

 

 編美はヘッドホンを千切るように耳から引き離すと、洗面台へ駆け込んで、嘔吐した。吐き出すもののない胃からは酸っぱい液体が流れ出て、蛇口から流れる透明と混じって消えた。

 鏡の向こうの自分は笑っている。胃酸で口の端がぴりぴりと傷む。笑っている。どうして? 意味が分からない。まるであの子のよう。どうしてなの? 編美――

 

 ――このままでは、きっと自分は壊れるのだろうと、編美は客観的にそう思った。

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