Ex-1
「えー。有坂さん。有坂蒼さん。第一診察室へお入りください」
という、看護師の案内に従って、有坂蒼とその付添・村田瑞月は移動した。待ち時間はおよそニ十分ほどだった。
円いソファと、ワイドショーを垂れ流しにしているテレビ、端が折れ、全体によれた女性誌、と言ったありふれた待合室には先客が数名いたけれど――やや沈みがちの、見た目にはごく普通の男女だった――先に呼ばれたことは、不思議だった。
――病院では、よくあることなのかな。
――特に、精神科では……。
蒼は視界の端で待合室を捉えつつ、そんなことを思う。
第一診察室は、廊下に出てすぐに見つかった。
先を行っていた瑞月が、こんこんと、軽くノックをした。すぐに、どうぞ、と声が返ってきた。
瑞月が入室を促す。
ドア。職員室と違って、白い、よく分からない素材でできている。
「……失礼、します」
蒼はからからと開く。
そこにあったのは――純白の部屋だった。
床、壁、窓にかかったカーテン、ベッド、そのシーツに至るまで、すべてが曇りなき白一色。暗い廊下との落差で、距離感覚が狂いそうになる。
どこから流れているのか、小さな音量でクラシック――静かな旋律、エリック・サティの『ジムノペディ』だ――が聞こえ、柔らかな花の香りも漂っている。
蒼の知る――イメージする病室とは、そこは、まったく異なる一室だった。
「――ああ。驚いたかい、お嬢さん。患者さんに無用な刺激を与えないというのが、精神科の部長――僕の上司の方針でね。いや、僕も却って面食らうんじゃないかとは思うんだが……」
入ってすぐに立ち尽くした蒼に、部屋にいた者が、声をかけた。
白い――恐らく元はスチール地のグレーだったデスクに向かい、書き物をしていた、蒼に半身を向けた男性だ。金の髪を乱雑にかき上げ、濃い赤色をした立ち襟のシャツを白衣の下に着る姿は、秀麗な顔立ちの男にはよく似合っていたが――かなり軽々とした雰囲気を与えている。
「僕もね、仕事がやりにくくて敵わないんだけどさ。医者ってのも、皆が思っているほど自由な仕事じゃないってこと――。ほら、立ってないで、椅子にかけてくれるかい? お嬢さんに、それから、ご婦人も」
捲し立てるような流麗な言葉に、蒼と瑞月は生返事と共に医者の前、丸椅子――例外なくこれも白い――へ腰かける。
「さ――本日はどういったご用件で?」
「その。問診票は書いた、と思うのですが……」
蒼は問う。医者の手元にある、A4サイズの紙は、間違いなく問診票――待合室で書かされた、簡単な質問と、症状を説明するための自由記入欄を設けた紙だった。蒼には仔細に記入した記憶がある。
「そうなんだけど。患者さん自身から、直接訊くことが大切でね」
「そう……ですか」
医者はちらりと、瑞月を窺う。
「ご婦人も理解していただけるとありがたいのですが」
「私はご婦人ではないのですけど」
「おや。それは失礼。ああ。失礼ついでに患者さん――有坂さんとはどういったご関係で?」
なぜそんなことを訊くのか、やや不審に思いながら瑞月は答える。
「保護者……、のようなものです」
「の、ようなもの――ですか」
瑞月の話を聞きながら、医者は手元のペンで何かを書きつける。
「親権自体は蒼の父方――有坂の家にあるものですから。真似事ですよ」
瑞月は投げやりに言う。
保護者を自称してはいるし、日頃目にかけてはいたけれど、肩書の上ではフリージャーナリストの――それも入念な取材と社会性の高い記事を売りにした瑞月は、自営業者ではあったけれど、忙しい身の上だった。猫の手も借りたいし、ときに、決して比喩でなく、不眠不休で活動する必要もあった。
自分の妹――すなわち蒼の母親である有坂陽古、旧姓・村田陽古の手前、金銭面を超える範囲での援助に及び腰の有坂家に対し、大見得を切って保護者役を買って出たものの、そのような事情があるせいで、満足にその役目を果たせているとは、瑞月自身が思っていない。
これで蒼が今の生活に不満の一つでも言えば、奇妙な話ではあるが、瑞月とて多少は救われる部分もあった。
だが蒼自身は、瑞月に対し不平の類を言うことはなかった。決して、なかった。
それどころかたまの休み――と言うよりは仕事と仕事の合間の空白と言うべき時間――に瑞月が会いに行ったとき、必ず蒼は笑って出迎えた。笑うのが――表情を作るのが、上手いわけではないのに。あまり上達したとは言えない料理と共に。
しかも、あまつさえ、自分が精神科への受診が必要なほど追い詰められていることを、そうなってしまったこの段階に至るまで、蒼は保護者である瑞月に秘していたのだ。
そう。
多忙な瑞月の身を、慮って。
瑞月に、心配をかけまいとするために――
――ああ。つくづく保護者失格だな、私は。
――やっぱり、文字通りの……
真似事だ。
瑞月はハ、と自虐に口角を歪めた。
「何かありましたか? えぇと……村田さん?」
「いいえ? 少し、考え事を。……それより、先生。私のことなんかより、早く蒼の話を聞いたら如何です?」
「うん? ああ。それもそうですね……」
きぃ、と椅子を軋ませて、医者は蒼を向く。
「で、話してもらえるかな?」
「――分かり、ました」
蒼は小さく頷いて、話し始めた。
「実は、最近、夢を見るんです」
「夢?」
「はい」
「それは、どんな?」
「それは――」
蒼は長く話をすることに慣れていなかった。その口ぶりはたどたどしく、だが聡明さ故か、要点を外すことはなかったものの、時折説明が飛躍することが――医者の中で論理的な関係が構築できず、飛躍した、と考えてしまうような――あって、理解に余計な時間が必要だった。
――それは要約すると、以下のようなことだった。
有坂蒼はいつからか、ある夢を見るようになった。夢の中で蒼は、昔父親と二人で住んでいた街にいる。だが父親は既におらず、父方の――有坂家の援助を受けながら、マンションで独り暮らしをしつつ、学校へ通っている。
夢の中の蒼は、今ここにいる蒼とはずいぶん装いが異なっていて――同一人物だと蒼は思っているし、実際に蒼の視点と、もう一人の蒼は合致している――まるで同姓同名の他人のように思えた。そしてそれはどこかで異なる選択をした自分のようだとも、そんな夢を見てしまう自分は、心のどこかで、今の自分を悔いているのだろうか、とも思った。悲しくなった。
……それだけならば、まだよかった。
夢の中の蒼は、段々、蒼が覚醒しているときにまで表れるようになった。最初は、半覚醒状態――つまり日常、ぼんやりとしているときに、視界の片隅を掠めるようにして、蒼が見えた。それが次第に何でもないときにまで見えるようになり、ついには夢の中の蒼が接触をするようになった。
具体的に言えば、視線や違和感、という形を取って――。
「……違和感?」
そこで、医者のペンを走らせる手が止まる。医者は紙面を一顧だにせずに筆記していた。それは職業病と言うより、医者のほんの些細な特技だった。
「違和感ってのは、なんだい?」
「あの――どう説明すればいいのか、分かりませんが……」
「いや。いいよ。焦らないで。ゆっくり説明して」
「わ。分かりました……」
蒼は深呼吸をした。カバンの中の何かをきゅっと握りしめる。
「その、夢――を見るときって、世界の見方が、いつもの自分とは異なる感じがしませんか? どう言えばいいでしょう、俯瞰している、というか……」
俯瞰、と医者は繰り返す。
「それは……三人称、みたいな? 物語の」
「三人称。三人称――。そうですね。近い、でしょうか……」
自信なさげに、蒼は言う。
「違和感と言うのは、何だか操られているような――そんな感覚です」
「操られている? 誰に……いや、まさか……」
「はい。どこからか、私を見ているもう一人の私に、俯瞰している自分自身に操られる――そういう感覚です。何の前触れもなく、私は私の主導権を失って……気が付けば、また回帰する。時間の感覚などまるでないので、一瞬のようにも感じられるのですが、時計を見れば、平気で一時間も経っていますし、時間によっては、服装や場所だって変わることがあります」
蒼は、俯く。瑞月も横で、不安げに蒼を見る。相談のようなものは受けたが、まさかそんな深刻な事態になっているとは思っていなかった。
「夢の中の私が、私を奪って行動する間に、何をするか、もし悪いことをしたらと思うと――とても怖いですし、それに。それに……何より、この主導権を失う時間が、段々と伸びていることが、一番、恐ろしい」
蒼は、顔を両手で覆った。
「最初はほんの十分もなかったことが、三十分になって……い、今では、一時間をゆうに超すようになりました。もし。もしこれが、際限なく伸びて、二十四時間にまで達したとしたら――私という存在は、今ここにいる有坂蒼は、いったいどうなってしまうんでしょう?」
がたがたと。
がたがたと――蒼は震え出す。
恐怖が、恐怖が、恐怖が――内側から際限なく湧き出してくるように。
「いったい――私は。わ、たし、は。もしかして。もしかし、て」
「あ、蒼、さん。落ち着いて、深呼吸を――」
医者の制止も振り切って、蒼は血を吐くように叫んだ。
「もしかして、消えるんですか、私は。どうなんですか、先生――――!」