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B/A  作者: 秋月章
間章
7/17

Ex-1

 「えー。有坂さん。有坂蒼さん。第一診察室へお入りください」


 という、看護師の案内に従って、有坂蒼とその付添・村田瑞月は移動した。待ち時間はおよそニ十分ほどだった。

 円いソファと、ワイドショーを垂れ流しにしているテレビ、端が折れ、全体によれた女性誌、と言ったありふれた待合室には先客が数名いたけれど――やや沈みがちの、見た目にはごく普通の男女だった――先に呼ばれたことは、不思議だった。


 ――病院では、よくあることなのかな。

 ――特に、精神科では……。


 蒼は視界の端で待合室を捉えつつ、そんなことを思う。

 第一診察室は、廊下に出てすぐに見つかった。

 先を行っていた瑞月が、こんこんと、軽くノックをした。すぐに、どうぞ、と声が返ってきた。

 瑞月が入室を促す。

 ドア。職員室と違って、白い、よく分からない素材でできている。


 「……失礼、します」


 蒼はからからと開く。

 そこにあったのは――純白の部屋だった。

 床、壁、窓にかかったカーテン、ベッド、そのシーツに至るまで、すべてが曇りなき白一色。暗い廊下との落差で、距離感覚が狂いそうになる。

 どこから流れているのか、小さな音量でクラシック――静かな旋律、エリック・サティの『ジムノペディ』だ――が聞こえ、柔らかな花の香り(アロマ)も漂っている。

 蒼の知る――イメージする病室とは、そこは、まったく異なる一室だった。


 「――ああ。驚いたかい、お嬢さん。患者さんに無用な刺激を与えないというのが、精神科(ココ)部長(ボス)――僕の上司の方針でね。いや、僕も却って面食らうんじゃないかとは思うんだが……」


 入ってすぐに立ち尽くした蒼に、部屋にいた者が、声をかけた。

 白い――恐らく元はスチール地のグレーだったデスクに向かい、書き物をしていた、蒼に半身を向けた男性だ。金の髪を乱雑にかき上げ、濃い赤色をした立ち襟のシャツを白衣の下に着る姿は、秀麗な顔立ちの男にはよく似合っていたが――かなり軽々とした雰囲気を与えている。


 「僕もね、仕事がやりにくくて敵わないんだけどさ。医者ってのも、皆が思っているほど自由な仕事じゃないってこと――。ほら、立ってないで、椅子にかけてくれるかい? お嬢さんに、それから、ご婦人も」

  

 捲し立てるような流麗な言葉に、蒼と瑞月は生返事と共に医者の前、丸椅子――例外なくこれも白い――へ腰かける。


 「さ――本日はどういったご用件で?」

 「その。問診票は書いた、と思うのですが……」


 蒼は問う。医者の手元にある、A4サイズの紙は、間違いなく問診票――待合室で書かされた、簡単な質問と、症状を説明するための自由記入欄フリースペースを設けた紙だった。蒼には仔細に記入した記憶がある。


 「そうなんだけど。患者さん自身から、直接訊くことが大切でね」

 「そう……ですか」


 医者はちらりと、瑞月を窺う。


 「ご婦人も理解していただけるとありがたいのですが」

 「私はご婦人ではないのですけど」

 「おや。それは失礼。ああ。失礼ついでに患者さん――有坂さんとはどういったご関係で?」


 なぜそんなことを訊くのか、やや不審に思いながら瑞月は答える。


 「保護者……、のようなものです」

 「の、ようなもの――ですか」


 瑞月の話を聞きながら、医者は手元のペンで何かを書きつける。


 「親権自体は蒼の父方――有坂の家にあるものですから。真似事ですよ」

 

 瑞月は投げやりに言う。

 保護者を自称してはいるし、日頃目にかけてはいたけれど、肩書の上ではフリージャーナリストの――それも入念な取材と社会性の高い記事を売りにした瑞月は、自営業者(フリーランス)ではあったけれど、忙しい身の上だった。猫の手も借りたいし、ときに、決して比喩(メタファ)でなく、不眠不休で活動する必要もあった。

 自分の妹――すなわち蒼の母親である有坂(アリサカ)陽古(ヨウコ)、旧姓・村田(ムラタ)陽古(ヨウコ)の手前、金銭面を超える範囲での援助に及び腰の有坂家に対し、大見得を切って保護者役を買って出たものの、そのような事情があるせいで、満足にその役目を果たせているとは、瑞月自身が思っていない。

 これで蒼が今の生活に不満の一つでも言えば、奇妙な話ではあるが、瑞月とて多少は救われる部分もあった。

 だが蒼自身は、瑞月に対し不平の類を言うことはなかった。決して、なかった。

 それどころかたまの休み――と言うよりは仕事と仕事の合間の空白(ブランク)と言うべき時間――に瑞月が会いに行ったとき、必ず蒼は笑って出迎えた。笑うのが――表情を作るのが、上手いわけではないのに。あまり上達したとは言えない料理と共に。

 しかも、あまつさえ、自分が精神科への受診が必要なほど追い詰められていることを、そうなってしまったこの段階に至るまで、蒼は保護者である瑞月に秘していたのだ。

 そう。

 多忙な瑞月の身を、慮って。

 瑞月に、心配をかけまいとするために――


 ――ああ。つくづく保護者失格だな、私は。

 ――やっぱり、文字通りの……


 真似事だ。

 瑞月はハ、と自虐に口角を歪めた。

 

 「何かありましたか? えぇと……村田さん?」

 「いいえ? 少し、考え事を。……それより、先生。私のことなんかより、早く蒼の話を聞いたら如何です?」

 「うん? ああ。それもそうですね……」


 きぃ、と椅子を軋ませて、医者は蒼を向く。


 「で、話してもらえるかな?」

 「――分かり、ました」


 蒼は小さく頷いて、話し始めた。


 「実は、最近、夢を見るんです」

 「夢?」

 「はい」

 「それは、どんな?」

 「それは――」


 蒼は長く話をすることに慣れていなかった。その口ぶりはたどたどしく、だが聡明さ故か、要点を外すことはなかったものの、時折説明が飛躍することが――医者の中で論理的な関係が構築できず、飛躍した、と考えてしまうような――あって、理解に余計な時間が必要だった。

 

 ――それは要約すると、以下のようなことだった。

 

 有坂蒼はいつからか、ある夢を見るようになった。夢の中で蒼は、昔父親と二人で住んでいた街にいる。だが父親は既におらず、父方の――有坂家の援助を受けながら、マンションで独り暮らしをしつつ、学校へ通っている。

 夢の中の蒼は、今ここにいる蒼とはずいぶん装いが異なっていて――同一人物だと蒼は思っているし、実際に蒼の視点と、もう一人の蒼は合致している――まるで同姓同名の他人のように思えた。そしてそれはどこかで異なる選択をした自分のようだとも、そんな夢を見てしまう自分は、心のどこかで、今の自分を悔いているのだろうか、とも思った。悲しくなった。

 ……それだけならば、まだよかった。

 夢の中の蒼は、段々、蒼が覚醒しているときにまで表れるようになった。最初は、半覚醒状態――つまり日常、ぼんやりとしているときに、視界の片隅を掠めるようにして、蒼が見えた。それが次第に何でもないときにまで見えるようになり、ついには夢の中の蒼が接触(アプローチ)をするようになった。

 具体的に言えば、視線や違和感、という形を取って――。


 「……違和感?」


 そこで、医者のペンを走らせる手が止まる。医者は紙面を一顧だにせずに筆記していた。それは職業病と言うより、医者のほんの些細な特技だった。


 「違和感ってのは、なんだい?」

 「あの――どう説明すればいいのか、分かりませんが……」

 「いや。いいよ。焦らないで。ゆっくり説明して」

 「わ。分かりました……」


 蒼は深呼吸をした。カバンの中の何かをきゅっと握りしめる。


 「その、夢――を見るときって、世界の見方が、いつもの自分とは異なる感じがしませんか? どう言えばいいでしょう、俯瞰している、というか……」


 俯瞰、と医者は繰り返す。


 「それは……三人称、みたいな? 物語の」

 「三人称。三人称――。そうですね。近い、でしょうか……」


 自信なさげに、蒼は言う。


 「違和感と言うのは、何だか操られているような――そんな感覚です」

 「操られている? 誰に……いや、まさか……」

 「はい。どこからか、私を見ているもう一人の私に、俯瞰している自分自身に操られる――そういう感覚です。何の前触れもなく、私は私の主導権を失って……気が付けば、また回帰する。時間の感覚などまるでないので、一瞬のようにも感じられるのですが、時計を見れば、平気で一時間も経っていますし、時間によっては、服装や場所だって変わることがあります」


 蒼は、俯く。瑞月も横で、不安げに蒼を見る。相談のようなものは受けたが、まさかそんな深刻な事態になっているとは思っていなかった。


 「夢の中の私が、私を奪って行動する間に、何をするか、もし悪いことをしたらと思うと――とても怖いですし、それに。それに……何より、この主導権を失う時間が、段々と伸びていることが、一番、恐ろしい」


 蒼は、顔を両手で覆った。


 「最初はほんの十分もなかったことが、三十分になって……い、今では、一時間をゆうに超すようになりました。もし。もしこれが、際限なく伸びて、二十四時間にまで達したとしたら――私という存在は、今ここにいる有坂蒼は、いったいどうなってしまうんでしょう?」


 がたがたと。

 がたがたと――蒼は震え出す。

 恐怖が、恐怖が、恐怖が――内側から際限なく湧き出してくるように。

 

 「いったい――私は。わ、たし、は。もしかして。もしかし、て」

 「あ、蒼、さん。落ち着いて、深呼吸を――」


 医者の制止も振り切って、蒼は血を吐くように叫んだ。


 「もしかして、消えるんですか、私は。どうなんですか、先生――――!」

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