1-5
後頭部がじんじんと痛む。きっと夢ではない。
でも。
夢じゃないなら――
夢じゃないのなら――目の前の光景を、いったいどう説明すればいい?
カイルは自問する。
――机上に、少女が腰かけている。
さっきまで、パソコンのあった位置に。
独りの、美しい少女が。
唐突に、表れた。
茫漠な光を放ちながら。
まるで、白昼夢のように――。
白く、霞むような視界の中。
飾りの多く施された、少女趣味な服を着て。机に着くほど長い髪を垂らし、少女は机の上、パソコンのあった位置にぺたんと座り込んで、カイルをきょとんと見ている。
重力の介在を感じさせない、浮世離れした雰囲気を湛えながら。
拭い去れない違和感――非現実感を、全身に纏いながら。
手元にはボロボロの、分厚い本が一冊。
カイルは反射的に、記憶を手繰る。
――この本。
――見たことあるような、ないような……。
それは、あまり市況に出回るような本じゃない。
稀覯本とまでは言わないが、本国でもあまり有名とは言えない、なぜ翻訳されたのかも分からない、マイナーな海外作家の著作。
――タイトルは。
――タイトルは、確か。
カイルは、そこまで思い出し――。
――……アレ。そう言えば、俺は、どうしてそんなことを知っているんだ。
――こんな本、タイトルにだって、覚えはないはずなのに。どうして記憶に存在するんだ……?
――どうして……。
疑問と共に、何かを覚える。
頭の奥底から、血潮が湧き上がるような感覚。そこに、もう一つの拍動するものがあるかのような。
熱い。
頭が割れるように痛い。
押し出されるように込み上がる嘔吐感。
口が乾いていくのを感じながら、カイルは問う。
「アンタ……何だ?」
少女は、答えない。
聞こえていないのか。
それとも聞いていないのか?
いずれにせよ答えない。無言。没交渉。
少女はどこか茫然と――夢見心地のまま、カイルへとろりとした視線を投げる。
その輪郭は朧に揺らぎ、視線で追うたびに形を失う。
――と。
「――――。――」
「ん。あ、な、何だ……?」
不意に、少女が口を開いた。
美しい顔を歪め――どうやら何かを言っているようだ。
「――――? ――……」
「何だ、もっと大きな声で言ってくれ」
熱を持ったような頭痛をこらえ、カイルは耳をそばだてる。
二人の距離は決して遠くない。むしろ近い。何せ少女はパソコンのあった位置にいるのだ――普通に話す分には支障はない。
そのはずだ。
が、どれほどカイルが耳を傾けても、その声は聞こえない。
確かに少女は声を発している――空気を震わせているにも関わらず、それを感じ取れるほどの距離で、その意味内容を知ることができない。何も、聞こえない。
その現象は、もはや少女の発する声が小さいから、という理屈で説明できるものではない。
そう。もっと単純な話だ。
少女の声が遮断されている。外部から――何を以て内外を分かつのかは不明だが――客観的、かつ選択的な、人の理を超えた事象によって、少女の声だけが、かき消されている。
例えるならば、編集の過程で消音をかけた映像のように。
――映像……。
そこでカイルはもう一つのことに気が付いた。
それは少女の纏う、非現実感にまつわること。
少女は、陶磁器人形のように整った――秀麗な顔立ちをしていたが、どこか見る人を不安にさせるような、累卵の危うさを漂わせていた。
だが本来、美しいものとは、合理的なものだ。
合理的なものは、どんなに繊細優美であっても、危うさを感じさせないはずだ。素材などの、副次的情報を添えられない限り。
なのにどうして――どこからそんな主観を抱くのだろう?
カイルが思い至ったのは、そんな問いへの、一つの答えだ。
――そうか、映像……。
目の前の少女は、映像だ。
一見しただけでは分からない、巧妙精緻な立体映像。
現代の技術で製作が可能なのか――また作れたとしてどれくらいの手間と費用を要するのか。あまつさえ星見カイル、たった一人を欺くことが、果たして割に合うのかは、カイルの記憶にある習慣的知識の集積、いわゆる常識では判断はできなかったけれど――。
実際、少女は映像だ。
……いや、映像であるかは、この際さほど問題ではない。
と言うより、気が付いたカイルにも分からない。
映像と言う表現がその本質――最も着目すべき点を、端的に評するのに適しているだけだ。幽霊だとか幻影、幻覚と言った、世に膾炙した様々な表現もまた同様に、この少女には当てはまるだろう。別にそれが――少女が何なのかは、その本質さえ誤らなければ、どちらだっていいことだ。あらゆる問題と同じく、解釈の違いに過ぎない。
少女は非実在にも関わらず、今ここに存在している。
重要な事実とは――カイルの気が付いたこととは、要約してしまえば、たったそれだけのこと。
非実在の存在。
矛盾しているようだが、そうではない。あるいは矛盾しているのかも知れないが、同時に成立もし得るのかもしれない。
現にこうして、今、少女は存在しているのだから。
存在と、実在。ひどく似た孤々つの言葉。
その間に、いったいどれほどの差があるというのだろう?
――そして。
ではなぜ、カイルはそのことに気が付けたのか。
それこそが少女の――映像の少女の持つ危うさを醸し出す、最大の原因だった。
少女は、鏡に映る像のように、左右が反転していた。
服の分け目――ボタンの位置が、左右反対。細い革のベルトの、バックル部分の金具も、位置関係が逆。
それはほんの些細な差だが、ひとたび気付けば瞭然だ。
字義通り、一目瞭然。
普段、人間は網膜という鏡に映すことでものを見る。当然そのままでは左右が反転してしまうため、視神経で光の刺激を伝達する過程で更にそれを反転――結果として、正位置に戻し、認識することになる。
つまり人間は、厳密にそのもの自体を見ているわけではない。常に幾重の過程を重ねた世界を見ている。
それが故に、ときに人の視界は容易く偽られ、同時に、その欺きを看破する。真実なんてどこにもないがため、偽りに厳しい戒めをかける。
決して――その存在を許容しない。
翻って、カイルは。
何とかして、少女への接触を試みる。
「聞こえているんだろう、お嬢さん。声を出せないなら……そうだ。聞こえているなら。首を縦に振ってくれれば」
何とかして対話の糸口を掴もうとする。
相手が話せないなら、こちらが話す。
聞くこともできないのなら、身体言語、身振り手振りだ。
伝えるための、意志の経路はいくらでもある。
少女は依然、ぼんやりとカイルを眺めながら、淡々と、淡々と、口を開く。何かを言っている。大切なことかも知れないし、今日見たバラエティにいた、顔のいい芸能人に関する話――呼吸のついでのような、些事かも知れない。
空調も点けていない部屋は、凍えるように寒い。せっかく温めた身体も、再び熱を奪われる。現在の気温は氷点下。屋内で、しかも造りのしっかりとした――寒冷地用の、断熱材の分厚い壁越しだから幾分和らいではいたし、時折吹く、骨身を切り裂くような鋭利な風も感じられない。
だが、この不毛な時間――二人の伝達経路の不一致は、その内外の差を感じさせなかった。少女の漂わせる白霧は――これだって恐らくは映像だと、カイルは確信していたのに――偽りの冷気を錯覚させるには充分だったし、現実問題として、カイルの伝達手段は無限ではない。限界はある。物質的なあれこれではないのだ。払底するのに、さほどの時間は要さない。
――くそ……。
――どうすれば。どうすればいい……?
歯の根の合わない寒さの中。
カイルは考える。考える。考える――。
日本語でダメなら、拙い英語も試した。
目の前の少女はどう見ても日本人だったが――黒髪黒目、かなりの色白ではあるが、黄色の肌、少なくともアジア系には見えた――こと話者人口を考えたとき、英語のそれは日本語を遥かに凌駕する。――そんなこと、カイルは頭の片隅にも置いていなかったけれど。ただ。
英語は国際的な言語だ。
だから、と一縷の望みを託したが、結局は不通に終わってしまう。
焦燥感が一層募るだけとなる。
更に、初めは輪郭だけだった少女の揺らぎが、徐々に、徐々に、内側へと広がっていく。蝕んでいく。
少女は消えようとしていた。
「言葉はダメ。ジェスチャーもダメ――なら。なら……」
カイルは、机の引き出しを開ける。
中には、レポート用紙や万年筆が雑多に押し込まれている。
この部屋を前に使っていた者――アリサカフミノリとやらは、どうやら整理整頓が得意ではなかったらしい。適当に紙束と万年筆を引っ掴み、慌ててカイルは文面を書き殴る。
それを。
「どうだ……!?」
少女へと、示した。
少女は、ぴくり、とわずかに身じろいだ。反応を、した。
それからその視線を初めて揺らし、文章に目を通し――
やがてゆっくりと、頷いた。
頷いた。つまりは、イエス、だ。
今や少女は完全に消えかかっていた。もう、いつ霞となってもおかしくない。しかしこの期に及び、ようやく二人は意思の疎通に成功した。
尋ねたこと――文面は単純だった。
「星見カイルを知っているか?」
というものだ。
熟考の時間は既になかったが、悪くはない問いかけだった。この少女を追うことが、自身の記憶――星見カイルという存在を求める、埋め合わせることに繋がるということへの傍証程度にはなる。
それはたった一歩。否、半歩程度の歩みではあるが――。
何もないところからは、大きな進歩と言えよう。
束の間、震えるほどの寒さも忘れる。
しかし、もう訊けたとして、あと一つくらい。それも、急がねばならない――考える時間はほんのわずかだ。最後の質問。カイルは思考を切り替える。
――何を訊く?
――何を訊けばいい?
何となく、直感ではあるが、この少女が現象を直接引き起こしているわけではない、とカイルは思う。核心に迫る質問は有効ではないだろう。
だからと言って、そう、あまり自分のことなんて聞いても仕方がない。そもそも現段階では情報が不足しているのだから、有効な質問をする素地もないのだ。
だったら――考えるだけ無駄かもしれない。
カイルは、さらさらと文を書いて、示した。
「また、会えるか?」
少女は、逡巡した。
まるで口説いてるみたいだ、とカイルは自嘲する。もしかしたら記憶を失う以前の自分は、とんだプレイボーイだったのかもしれない。ちょうど、服装も気取っていたし。などと思う。
少女は、やがて、自信なさげに小さく頷いた。
イエス、なのだろう。確度が心もとないか、あるいは本当はできないが、本心ではまた会いたいと思ってくれているか。いずれにせよカイルにとって悪いものではない。
そして、時間切れとなった。
最後に、少女はにこりと、カイルへ微笑んだ。雪花のような笑みだった。魅力的に思う間もなく、少女はほどけるように、ついにこの空間から消失した。
――あとには、清冽な冷気だけが残り――
「……ここにいましたか」
平坦な声で、カイルは我に返る。
そこには上下逆さまになったアオイの姿。なんだか妙に肌色が多い。
いや。いいや。
天地が逆転しているのは自分のほうだ。天井が見える。明かりが見える。視界の端にはチェアの脚に付いていた車輪も映る。見事にひっくり返っている。
ただ。アオイの肌色面積が広いのは、見間違いでは決してない。
「や。ずいぶん挑発的なカッコだね。案外、夜は元気だったりするのかい?」
「こんなに間の抜けた夜へのお誘いは、ついぞ経験がない」
アオイは呆れ、それから屈んでカイルへ手を伸ばした。
「ありがとう」
ずきずきと、後頭部に痛みを覚えながら、カイルは手を取って立ち上がる。
湯上がりのアオイは、上気した色白の肌を惜しげもなく晒す格好だった。上半身は裸に、外でも着ていた分厚い外套。下半身は下着に、スリッパを突っかけているだけ。
大事なところは辛うじて隠れてはいたけれど――寒くはないのだろうかと、カイルはやや不思議に思う。女子高生は摩訶不思議だ。
「しかし、いったい何をしていたんですか? そんな間の抜けた風体を晒した」
「二回も言うことか?」
間の抜けた、なんて。
いっそ間抜けと言え。ストレートに。
「何をですか?」
「何でもない、何でもない。完全にこちらの問題だから」
カイルは慌ててごまかす。
「……しかし。何をしていたかって……」
何が起きたのかは、記憶のうちにある。
しかし言ったところで、信じてもらえる保証はどこにもない。自分なら信じないだろうし、とカイルは考える。もっと穿つなら、それをアオイに言ったことで不利益が生じる可能性だって、まだ否定はできないのだ――。
「少し、調べものをな」
「調べもの? ……ああ」
アオイはパソコンへ歩み寄る。
当然だが、古い筐体はそこにどかりと居座っている。
「これを、触っていたんですか?」
「ああ。それでまあ……不慮の事故、と言うか……」
何とか弁明に努めるカイル。
だがアオイはそれとはまったく無関係に、あちゃー、と片手で顔を覆う。
「……どうした」
「――いえ。すみません。これは先に言うべきでした……」
「何をだ?」
「実はこれ、動かないんですよ。今はただの箱です」
「――えっ?」
ほら、とアオイは何かをカイルに見せた。
それはケーブル。半ばで断線し、被覆された内側の金属部分が露わになっている。それはもう片方の端がパソコンへと繋がっている。それが何をするために伸びていたものかは分からないが、結構な太さがあって、大切そうなものに見えた。
「昔、この部屋を掃除する際に、この机を動かそうとしたことがあって――その時に間違って線を千切ってしまったんです。何か大切なものだったらしく、それ以来、動かなくなってしまったのですが、私にはパソコンを使う趣味もありませんし、別に生活に支障は出なかったので、そのまま放置してしまっていたのです。ですが、カイル。あなたが使う可能性は、まったく考慮に入れていませんでした。動かなくて、さぞや不思議に思ったかと存じます――」
「な――ッ!?」
カイルは絶句する。
自分の記憶の中では、パソコン自体はきちんと起動した。その後の検索ができなかっただけだ。しかしアオイの説明では、電源そのものが入らないという風だ。
では自分の覚えていることは、いったい何だ。
夢、なのか? この頭痛すら? それとも頭を打ったから、とでも言うのか?
いや。しかし――。
――夢、にしては。
――生々しい、というか……そう。鮮明に過ぎる。
夢であるならば、ここまで覚えてはいないだろう。そこで何があったのかという――映像のみならず、自分の感じたものまでもを、色鮮やかに覚えていることなんて。
だったらそれは本当にあったことなのだ。そうするに足ることだ。
「顔色が優れないようですが。カイル」
「え。あ、いや……かもしれないな。だいぶ、身体が冷えたかも知れない。こんなところでノビてたなんて」
「シャワーを浴びてはどうです? 悪いですが、湯船につかるのは明日以降にしていただければと思いますが。今日のところは、シャワーで我慢していただいて」
「いや。構わないさ。風呂がいいのかなんて、そんなことは覚えてないし」
それは確かな事実だった。
今のカイルには、そう言った、こだわりのようなものがほぼなくなっていた。
「私は夕食の支度に入るので。何かあれば大きい声を出してくださいね」
「心得た」
そう言って、カイルは冷たく、硬く強張った身体をほぐし、着替えと共に浴室へ向かった。アオイも後続して客用の寝室を後にする。
……だから、誰にも気づかれなかったが――机の下。
そこには。
「また、会えるか?」
そう、乱雑な文字で書き殴られたレポート用紙が、確かに。
確かに、存在していたのだった――。