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B/A  作者: 秋月章
1
6/17

1-5

 後頭部がじんじんと痛む。きっと夢ではない。

 でも。

 夢じゃないなら――

 夢じゃないのなら――目の前の光景を、いったいどう説明すればいい?

 カイルは自問する。

 

 ――机上に、少女が腰かけている。

 さっきまで、パソコンのあった位置に。

 独りの、美しい少女が。

 唐突に、表れた。

 茫漠な光を放ちながら。

 まるで、白昼夢のように――。

 

 白く、霞むような視界の中。

 飾りの多く施された、少女趣味(ロリィタ)(ドレス)を着て。机に着くほど長い髪を垂らし、少女は机の上、パソコンのあった位置にぺたんと座り込んで、カイルをきょとんと見ている。

 重力の介在を感じさせない、浮世離れした雰囲気を湛えながら。

 拭い去れない違和感――非現実感を、全身に纏いながら。

 手元にはボロボロの、分厚い本が一冊。

 カイルは反射的に、記憶を手繰る。

 

 ――この本。

 ――見たことあるような、ないような……。

 

 それは、あまり市況に出回るような本じゃない。

 稀覯本とまでは言わないが、本国でもあまり有名とは言えない、なぜ翻訳されたのかも分からない、マイナーな海外作家の著作。

 

 ――タイトルは。

 ――タイトルは、確か。

 

 カイルは、そこまで思い出し――。


 ――……アレ。そう言えば、俺は、どうしてそんなことを知っているんだ。

 ――こんな本、タイトルにだって、覚えはないはずなのに。どうして記憶に存在するんだ……?

 ――どうして……。

 

 疑問と共に、何かを覚える。

 頭の奥底から、血潮が湧き上がるような感覚。そこに、もう一つの拍動するものがあるかのような。

 熱い。

 頭が割れるように痛い。

 押し出されるように込み上がる嘔吐感。

 口が乾いていくのを感じながら、カイルは問う。


 「アンタ……何だ?」


 少女は、答えない。

 聞こえていないのか。

 それとも聞いていないのか?

 いずれにせよ答えない。無言。没交渉。

 少女はどこか茫然と――夢見心地のまま、カイルへとろりとした視線を投げる。

 その輪郭(シルエット)は朧に揺らぎ、視線で追うたびに形を失う。

 ――と。

 

 「――――。――」

 「ん。あ、な、何だ……?」


 不意に、少女が口を開いた。

 美しい顔を歪め――どうやら何かを言っているようだ。

 

 「――――? ――……」

 「何だ、もっと大きな声で言ってくれ」


 熱を持ったような頭痛をこらえ、カイルは耳をそばだてる。

 二人の距離は決して遠くない。むしろ近い。何せ少女はパソコンのあった位置にいるのだ――普通に話す分には支障はない。

 そのはずだ。

 が、どれほどカイルが耳を傾けても、その声は聞こえない。

 確かに少女は声を発している――空気を震わせているにも関わらず、それを感じ取れるほどの距離で、その意味内容を知ることができない。何も、聞こえない。

 その現象は、もはや少女の発する声が小さいから、という理屈で説明できるものではない。

 そう。もっと単純な話だ。

 少女の声が遮断されている。外部から――何を以て内外を分かつのかは不明だが――客観的、かつ選択的な、人の理を超えた事象によって、少女の声だけが、かき消されている。

 例えるならば、編集の過程で消音(ミュート)をかけた映像のように。

 

 ――映像……。


 そこでカイルはもう一つのことに気が付いた。

 それは少女の纏う、非現実感にまつわること。

 少女は、陶磁器人形(ビスクドール)のように整った――秀麗な顔立ちをしていたが、どこか見る人を不安にさせるような、累卵の危うさを漂わせていた。

 だが本来、美しいものとは、合理的なものだ。

 合理的なものは、どんなに繊細優美であっても、危うさを感じさせないはずだ。素材などの、副次的情報を添えられない限り。

 なのにどうして――どこからそんな主観(イメージ)を抱くのだろう? 

 カイルが思い至ったのは、そんな問いへの、一つの答えだ。


 ――そうか、映像……。


 目の前の少女は、映像だ。

 一見しただけでは分からない、巧妙精緻な立体映像(ホログラム)

 現代の技術(テクノロジー)で製作が可能なのか――また作れたとしてどれくらいの手間と費用を要するのか。あまつさえ星見カイル、たった一人を欺くことが、果たして割に合うのかは、カイルの記憶にある習慣的知識の集積、いわゆる常識(コモンセンス)では判断はできなかったけれど――。

 実際、少女は映像だ。

 ……いや、映像であるかは、この際さほど問題ではない。

 と言うより、気が付いたカイルにも分からない。

 映像と言う表現がその本質――最も着目すべき点を、端的に評するのに適しているだけだ。幽霊だとか幻影、幻覚と言った、世に膾炙した様々な表現もまた同様に、この少女には当てはまるだろう。別にそれが――少女が何なのかは、その本質さえ誤らなければ、どちらだっていいことだ。あらゆる問題と同じく、解釈の違いに過ぎない。

 少女は非実在にも関わらず、今ここに存在している。

 重要な事実とは――カイルの気が付いたこととは、要約してしまえば、たったそれだけのこと。

 非実在の存在。

 矛盾しているようだが、そうではない。あるいは矛盾しているのかも知れないが、同時に成立もし得るのかもしれない。

 現にこうして、今、少女は存在しているのだから。

 存在と、実在。ひどく似た孤々(フタ)つの言葉。

 その間に、いったいどれほどの差があるというのだろう?

 

 ――そして。

 ではなぜ、カイルはそのことに気が付けたのか。

 それこそが少女の――映像の少女の持つ危うさを醸し出す、最大の原因だった。

 少女は、鏡に映る像のように、左右が反転していた。

 服の分け目――ボタンの位置が、左右反対。細い革のベルトの、バックル部分の金具も、位置関係が逆。

 それはほんの些細な差だが、ひとたび気付けば瞭然だ。

 字義通り、一目瞭然。

 普段、人間は網膜という鏡に映すことでものを見る。当然そのままでは左右が反転してしまうため、視神経で光の刺激を伝達する過程(プロセス)で更にそれを反転――結果として、正位置に戻し、認識することになる。

 つまり人間は、厳密にそのもの自体を見ているわけではない。常に幾重の過程(プロセス)を重ねた世界を見ている。

 それが故に、ときに人の視界は容易く偽られ、同時に、その欺きを看破する。真実なんてどこにもないがため、偽りに厳しい戒めをかける。

 決して――その存在を許容しない。


 翻って、カイルは。

 何とかして、少女への接触を試みる。


 「聞こえているんだろう、お嬢さん。声を出せないなら……そうだ。聞こえているなら。首を縦に振ってくれれば」


 何とかして対話の糸口を掴もうとする。

 相手が話せないなら、こちらが話す。

 聞くこともできないのなら、身体言語(ボディ・ランゲージ)、身振り手振りだ。

 伝えるための、意志の経路(パス)はいくらでもある。

 少女は依然、ぼんやりとカイルを眺めながら、淡々と、淡々と、口を開く。何かを言っている。大切なことかも知れないし、今日見たバラエティにいた、顔のいい芸能人に関する話――呼吸のついでのような、些事かも知れない。

 空調も点けていない部屋は、凍えるように寒い。せっかく温めた身体も、再び熱を奪われる。現在の気温は氷点下。屋内で、しかも造りのしっかりとした――寒冷地用の、断熱材の分厚い壁越しだから幾分和らいではいたし、時折吹く、骨身を切り裂くような鋭利な風も感じられない。

 だが、この不毛な時間――二人の伝達経路の不一致(ディスコミュニケーション)は、その内外の差を感じさせなかった。少女の漂わせる白霧は――これだって恐らくは映像だと、カイルは確信していたのに――偽りの冷気を錯覚させるには充分だったし、現実問題として、カイルの伝達手段は無限ではない。限界はある。物質的なあれこれではないのだ。払底するのに、さほどの時間は要さない。


 ――くそ……。

 ――どうすれば。どうすればいい……?


 歯の根の合わない寒さの中。

 カイルは考える。考える。考える――。

 日本語でダメなら、拙い英語も試した。

 目の前の少女はどう見ても日本人だったが――黒髪黒目、かなりの色白ではあるが、黄色の肌、少なくともアジア系には見えた――こと話者人口を考えたとき、英語のそれは日本語を遥かに凌駕する。――そんなこと、カイルは頭の片隅にも置いていなかったけれど。ただ。

 英語は国際的な言語だ。

 だから、と一縷の望みを託したが、結局は不通に終わってしまう。

 焦燥感が一層募るだけとなる。

 更に、初めは輪郭だけだった少女の揺らぎが、徐々に、徐々に、内側へと広がっていく。蝕んでいく。

 少女は消えようとしていた。


 「言葉はダメ。ジェスチャーもダメ――なら。なら……」


 カイルは、机の引き出しを開ける。

 中には、レポート用紙や万年筆が雑多に押し込まれている。

 この部屋を前に使っていた者――アリサカフミノリとやらは、どうやら整理整頓が得意ではなかったらしい。適当に紙束と万年筆を引っ掴み、慌ててカイルは文面を書き殴る。

 それを。


 「どうだ……!?」


 少女へと、示した。

 少女は、ぴくり、とわずかに身じろいだ。反応を、した。

 それからその視線を初めて揺らし、文章に目を通し――

 やがてゆっくりと、頷いた。

 頷いた。つまりは、イエス、だ。

 今や少女は完全に消えかかっていた。もう、いつ霞となってもおかしくない。しかしこの期に及び、ようやく二人は意思の疎通に成功した。

 尋ねたこと――文面は単純だった。


 「星見カイルを知っているか?」


 というものだ。

 熟考の時間は既になかったが、悪くはない問いかけだった。この少女を追うことが、自身の記憶――星見カイルという存在を求める、埋め合わせることに繋がるということへの傍証程度にはなる。

 それはたった一歩。否、半歩程度の歩みではあるが――。

 何もないところからは、大きな進歩と言えよう。

 束の間、震えるほどの寒さも忘れる。

 しかし、もう訊けたとして、あと一つくらい。それも、急がねばならない――考える時間はほんのわずかだ。最後の質問。カイルは思考を切り替える。

 

 ――何を訊く?

 ――何を訊けばいい?


 何となく、直感ではあるが、この少女が現象を直接引き起こしているわけではない、とカイルは思う。核心に迫る質問は有効ではないだろう。

 だからと言って、そう、あまり自分のことなんて聞いても仕方がない。そもそも現段階では情報が不足しているのだから、有効な質問をする素地もないのだ。

 だったら――考えるだけ無駄かもしれない。

 カイルは、さらさらと文を書いて、示した。


 「また、会えるか?」


 少女は、逡巡した。

 まるで口説いてるみたいだ、とカイルは自嘲する。もしかしたら記憶を失う以前の自分は、とんだプレイボーイだったのかもしれない。ちょうど、服装も気取っていたし。などと思う。

 少女は、やがて、自信なさげに小さく頷いた。

 イエス、なのだろう。確度が心もとないか、あるいは本当はできないが、本心ではまた会いたいと思ってくれているか。いずれにせよカイルにとって悪いものではない。

 そして、時間切れとなった。

 最後に、少女はにこりと、カイルへ微笑んだ。雪花のような笑みだった。魅力的に思う間もなく、少女はほどけるように、ついにこの空間から消失した。

 

 ――あとには、清冽な冷気だけが残り――


 「……ここにいましたか」


 平坦な声で、カイルは我に返る。

 そこには上下逆さまになったアオイの姿。なんだか妙に肌色が多い。

 いや。いいや。

 天地が逆転しているのは自分(カイル)のほうだ。天井が見える。明かりが見える。視界の端にはチェアの脚に付いていた車輪(キャスタ)も映る。見事にひっくり返っている。

 ただ。アオイの肌色面積が広いのは、見間違いでは決してない。


 「や。ずいぶん挑発的なカッコだね。案外、夜は元気だったりするのかい?」

 「こんなに間の抜けた夜へのお誘いは、ついぞ経験がない」


 アオイは呆れ、それから屈んでカイルへ手を伸ばした。


 「ありがとう」


 ずきずきと、後頭部に痛みを覚えながら、カイルは手を取って立ち上がる。

 湯上がりのアオイは、上気した色白の肌を惜しげもなく晒す格好だった。上半身は裸に、外でも着ていた分厚い外套(コート)。下半身は下着に、スリッパを突っかけているだけ。

 大事なところは辛うじて隠れてはいたけれど――寒くはないのだろうかと、カイルはやや不思議に思う。女子高生は摩訶不思議だ。

 

 「しかし、いったい何をしていたんですか? そんな間の抜けた風体を晒した」

 「二回も言うことか?」

 

 間の抜けた、なんて。

 いっそ間抜けと言え。ストレートに。


 「何をですか?」

 「何でもない、何でもない。完全にこちらの問題だから」


 カイルは慌ててごまかす。


 「……しかし。何をしていたかって……」


 何が起きたのかは、記憶のうちにある。

 しかし言ったところで、信じてもらえる保証はどこにもない。自分なら信じないだろうし、とカイルは考える。もっと穿つなら、それをアオイに言ったことで不利益が生じる可能性だって、まだ否定はできないのだ――。


 「少し、調べものをな」

 「調べもの? ……ああ」


 アオイはパソコンへ歩み寄る。

 当然だが、古い筐体はそこにどかりと居座っている。


 「これを、触っていたんですか?」

 「ああ。それでまあ……不慮の事故、と言うか……」


 何とか弁明に努めるカイル。

 だがアオイはそれとはまったく無関係に、あちゃー、と片手で顔を覆う。


 「……どうした」

 「――いえ。すみません。これは先に言うべきでした……」

 「何をだ?」

 「実はこれ、動かないんですよ。今はただの箱です」

 「――えっ?」


 ほら、とアオイは何かをカイルに見せた。

 それはケーブル。半ばで断線し、被覆された内側の金属部分が露わになっている。それはもう片方の端がパソコンへと繋がっている。それが何をするために伸びていたものかは分からないが、結構な太さがあって、大切そうなものに見えた。

 

 「昔、この部屋を掃除する際に、この机を動かそうとしたことがあって――その時に間違って線を千切ってしまったんです。何か大切なものだったらしく、それ以来、動かなくなってしまったのですが、私にはパソコンを使う趣味もありませんし、別に生活に支障は出なかったので、そのまま放置してしまっていたのです。ですが、カイル。あなたが使う可能性は、まったく考慮に入れていませんでした。動かなくて、さぞや不思議に思ったかと存じます――」

 「な――ッ!?」


 カイルは絶句する。

 自分の記憶の中では、パソコン自体はきちんと起動した。その後の検索ができなかっただけだ。しかしアオイの説明では、電源そのものが入らないという風だ。

 では自分の覚えていることは、いったい何だ。

 夢、なのか? この頭痛すら? それとも頭を打ったから、とでも言うのか?

 いや。しかし――。

 

 ――夢、にしては。

 ――生々しい、というか……そう。鮮明に過ぎる。

 

 夢であるならば、ここまで覚えてはいないだろう。そこで何があったのかという――映像(ヴィジョン)のみならず、自分の感じたものまでもを、色鮮やかに覚えていることなんて。

 だったらそれは本当にあったことなのだ。そうするに足ることだ。


 「顔色が優れないようですが。カイル」

 「え。あ、いや……かもしれないな。だいぶ、身体が冷えたかも知れない。こんなところでノビてたなんて」

 「シャワーを浴びてはどうです? 悪いですが、湯船につかるのは明日以降にしていただければと思いますが。今日のところは、シャワーで我慢していただいて」

 「いや。構わないさ。風呂がいいのかなんて、そんなことは覚えてないし」


 それは確かな事実だった。

 今のカイルには、そう言った、こだわりのようなものがほぼなくなっていた。


 「私は夕食の支度に入るので。何かあれば大きい声を出してくださいね」

 「心得た」


 そう言って、カイルは冷たく、硬く強張った身体をほぐし、着替えと共に浴室へ向かった。アオイも後続して客用の寝室を後にする。

 

 ……だから、誰にも気づかれなかったが――机の下。

 そこには。


 「また、会えるか?」


 そう、乱雑な文字で書き殴られたレポート用紙が、確かに。

 確かに、存在していたのだった――。

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