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有坂アオイの部屋は、地図上で言えば、雑居ビルのある通りからこの街で一番大きな駅を通る線路を挟んで、ほぼ点対称の位置にあった。
廃工場の近い区域とは違い、駅を越える前後からは商店が、それから住宅が少しずつ増えていく。人の往来もよく見られるようになった。
アオイは努めて人の少ない道を選んだが、それでも原付を押して歩く女子高生と不思議な格好の成人男性という組み合わせは、些か衆人の視線を集めた。
さほどアオイはこれを気にしなかったが、学校に報告が来なければいいな、とは思う。原付での登下校は、禁止されていた。
二人は、大して会話もせずに歩いた。
途中、コンビニがあったので温かい珈琲を買い、それを飲み飲み歩き――四十分ほど。
「――着きました、ここです」
――と、アオイが言った。
「ほぉ……」
カイルは見上げる。白い息が夜霧に混ざる。
住宅街の外れに、そのマンションは立っていた。
背の高いマンション。
高層マンションだ。
濃度を高める霧に、疎らな街灯が霞む。マンションは浮かび上がるように屹立している。
十階は下らないだろう。この周辺で最も大きく、設備も豪華に見える。周りから浮いてすらいる。この辺りにある住居と言えば、公営住宅や大きな団地がほとんどだった。
「立派なもんだ……」
カイルは白い息を漏らす。
都心では――もしくは三大都市圏でも、これほどの建物となれば、家賃は十万単位に迫るだろう。交通の便がよければなおさらだ。もっとも、規模の大きいとは言えないこの街ではどうだろうか。
「そうですか?」
いつの間に、原付を駐輪場を停めて、アオイが戻ってきていた。狙撃銃の入ったギターケースと通学用のカバンを、片方の肩でまとめて持っている。珈琲の入っていた缶は、その手にはない。どこかで捨てたのだろう。
「生まれた頃から住んでいるので、私にはよく分かりませんが」
「お嬢さん家は、リッチなんだな」
「そうかもしれませんね」
「――そこは否定しないんだな。ま、いいや。それより早いじゃないか。停めてくるの」
「駐輪場が近くにあるもので」
「それらしいものは見えなかったが」
「地下にあるんですよ。近いには近いのですが、やや行き方が面倒で……ああ、もちろん後で案内しますよ。ひとまず上がりましょう。流石に冷える」
「……そうだな」
二人はマンションへ入った。
エントランスからエレベータを使って上る。
当然のように最上階へ。
ごとん……ごとん……。
古いエレベータが、時折咳払いでもするように振動しながら、浮遊感を与えつつ、ゆっくりと上昇する。
回数表示が、一つ一つ、上階を指して光る。
地上階が十。地階が二。
加えてエレベータで行けない階層――屋上と、主に電源室などのある地下三階もある。相当な高層マンションだ。
――と。
ちん、と電子音が鳴り、エレベータが開いた。
目的の階。すぐに扉。ここにはアオイの部屋と、上下に繋がる階段しかない。
途中で誰かが乗ってくることはなかった。帰宅の時間にしてはやや遅かったからかもしれない。
カイルは廊下の端と端を視界で繋げるように見渡す。
廊下には、薄墨を零したような暗闇が蟠っている。一方、玄関だけは人感センサで灯りが光り、明るい。
がちゃりと、無造作にアオイは部屋を開けた。
そしてそのまま――半開きにしたまま、姿勢を維持した。
それが、玄関の錠がオートロックである、ということを意味すると理解するのに、カイルには十秒ほどの時間が必要だった。
「ああ、すまん。見慣れないからよ、こんな光景――っと」
カイルが半身を滑らせるように部屋へ入ると、アオイは扉から手を離し、移動。
正面の部屋へ入ると、壁面のパネルをパチパチと操作する。
部屋の明かりがすべて灯る。
――そこは、広大な空間だった。
入ってすぐにあるのはダイニング。ソファが硝子のテーブルを囲んでいる。
左手にはキッチン。黒を基調とした、逆L字型のカウンターキッチンが白木のフローリングと白の壁紙を基調とした空間を、シックに引き立てている。
そして収納や、他の部屋は右手にまとめられている。部屋の動線を妨げることはない。
見事なリビングダイニングキッチンだ。
設計者はシンプルな美しさに理解が深かったのだろう。
部屋も、使用に際して、モデルルームかと錯覚するほどに綺麗に掃除されている。
――否。そもそも、ものが少ない、と言うべきか。
見る限り、生活に必要最低限のものを一揃え程度にしか揃えていないのではないか、とカイルは思ってしまう。
意外と、この部屋に驚愕を覚えていない自分を、頭の隅で感じながら。
――もしかしたら、記憶を失う以前の俺は、こういう部屋で生活をしていたのか。
――あるいは、そうだとしてもおかしくのない生活水準で暮らしていたのかもしれないな……。
「とりあえず。好きにくつろいでください。冷蔵庫の中などは、勝手に使って構いません」
家主・アオイは、荷物を片付け、言った。
なかなかの歓待だった。セルフサービスとも言う。
「……何となくそんな気はしてたよ」
カイルはそう返すと、ソファへ腰かけた。柔らかな革張りに身を沈み込ませ、なけなしの暖を取る。
今は、寒さを和らげるのが、何よりも先決だった。カイルは、薄着過ぎた。
幸いにもアオイは電灯を点けるついでに――恐らくは一体型のパネルだったのだろうが――空調も作動させていたらしく、震えるような駆動音と共に、暖かな空気が部屋へ滞留し始める。
少しずつ――それこそ氷の融けるが如く、身体のこわばりが、緊張が、末端から解れていく。久方ぶりの安住。柔らかな感触。もちろんそれが具体的にいつ以来かは記憶から欠落してしまっているが――。
「私は少し、することがありますので、席を外します。それであの、幾つか、注意しておきたいことがあるのですが。よろしいですか?」
「……なんだい」
「まず一つ。先程で分かったと思うのですが、この部屋はオートロックで、合鍵の類もありませんので。外出の際は気をつけてください」
「さっきはうっかりしてただけさ――。ま、心得た。一声かけてからにするよ」
「そうですね。それが賢明かと。……それから、もう一つ。私の寝室には、決して入らないでください」
「寝室に?」
「はい。カイルさんには、来客用の寝室を用意してありますので」
あそこです、とアオイは示す。
そこにはドアが二つある。
一つには、『AOI』と書かれたプレートがかけられている。白地に黒のブロック体。部屋の雰囲気には合うが、あまり女の子らしくはない。病室を連想させた。
恐らく、そこがお嬢さんの寝室だろう、とカイルは思う。
すると、消去法で――。
「あの、何もないほうの部屋か?」
「はい。元から来客用の部屋ですので。あまり手はいれてませんが……最低限、掃除はしているつもりです。もしご不満なら、掃除道具は押入れの中にありますので」
「――どうして君の部屋に入っちゃいけない?」
「人の秘密を詳らかにするのは、あまりいい趣味とは言えないと思いますが」
「そうかもしれないが、誰にだってあるもんだろう。好奇心というやつは」
「好奇心は猫を殺す」
アオイは眉を顰めた。そして。
「……無暗な詮索は、あの可愛らしい猫ですら、生命を落とすきっかけになる」
「猫、好きなのか?」
「――愛玩動物としては猫派とだけ。もっともこのマンションで飼育を許されるのは、人間だけですが」
咎めるように視線を送る。
カイルはおどけて両手を挙げる。
「あーあー、分かった分かった。気を付けるよ」
「人に躾をする趣味はありません。契約を遵守することが、お互いにとって最良でしょう」
せいぜい留意しておいてください、と言うと、アオイは踵を返し、キッチンのほうへと歩む。
「そう言えば、お嬢さん……君はこれから何をするんだ? 席を外すって……」
「別に。大したことではないですよ」
アオイはキッチンの近くにある、硝子の張られたドアの前に立つ。
そして。
「シャワーを浴びてくるだけです。少し、汗をかいたので」
そう何でもないように言って、ドアの向こうへと消えていった。
―――
――
―
くぐもった水音が聞こえる。
アオイがシャワーを浴びている。
カイルは部屋を見渡している。
――何かが。
――何かがおかしい。
カイルの理性は、違和感を告げていた。
それが何なのかは分からない。何かがあれば、こんな、もののない部屋だ、すぐに気が付くはず。だがきっと視野に入っているはずのそれを、カイルは捉えることができないでいる。
あるいは神経が参っているのかもしれない。記憶がないというのは思ったよりも負担が大きい。浮遊感にも似たような感覚が常に付きまとう。
落ち着かなくて、カイルはソファから身を起こし、部屋をそぞろに歩き回る。大きな窓からは、霧に煙る街を一望できた。沈んだ自分の顔も透けて見える。
指を這わすと、硝子に付いた結露で濡れた。
「そう言えば……」
カイルは、自分に部屋をあてがわれたことを思い出す。
アオイの寝室も気になるが――。
「――好奇心は猫を殺すなら、仕方ない」
見捨てられるのは、誇張でなく生命に関わる。
今日のところは素直に家主の言葉に従うことにして、カイルは自分の寝室のドアノブを回した。
「思った通りだな……」
そこは寝室として最低限の部屋だった。
粗末なベッドとチェスト、机。
カイルはきょろきょろと見回す。
アオイの言っていたように、清掃は行き届いているようだった。
思ったことは。
――ビジネスホテル。
――我ながら的を射ていると言うか、そう、悪くない表現じゃないか……?
まさに寝室、と言うべき部屋だった。
寝るための部屋。
寝るために最適化された――逆説的に言えば、寝ること以外の難しい部屋。
住んでいた、寝泊まりしていたはずの人間の顔が、まるで感じられない部屋。
変わったところと言えば、机の上のパソコンくらいのもの。
大きな表示装置と箱のような形の本体、周辺機器からなるデスクトップ型。元は白色のモデルだったのだろうが、月日の経過が、それを象牙色にしてしまっている。
パソコンに詳しくない――
いや、それとも、単にその知識を失っているだけかもしれないカイルでも分かる。
それは、ずいぶんな年代ものだ。
「……動くのか?」
す、とチェアへ座り、パソコンへ向かう。やや逡巡した後、カイルはパソコンの電源を点けた。
……ひゅおーん。
間の抜けた音と共に、パソコンが立ち上がった。
――ま、何となく分かってはいたが……。
――まさか今日日、こんな骨董品を見ることになるとはな……。
カイルの知る限り、何世代も前のOSだ。
パスワードは設定されていないようで、すんなりとホーム画面へ入る。
ユーザアカウントは――。
――彼女の、アオイの、父親……だろうか?
――アリサカ、フミノリ。
どんな人物だったのだろうか――。
それを示すようなファイルは、一切見つからない。
パソコンの中には、最低限のソフトがあるだけだ。
だが、回線が生きていた。
しめしめ。カイルは舌なめずりをする。
「お嬢さん。調べるのは、ルール違反ではないよな――?」
ボール式のマウスに苦心しつつ、カイルはそう呟いて、ブラウザを立ち上げた。
検索用の小窓に、文字列を打ち込む。
アリサカフミノリ。
検索。
……しかし。
「……アレ? おかしいな――」
動かない。うんともすんとも。
「やっぱ勝手が違うのか? うーん……」
カイルはめくらめっぽうに、ガチャガチャとキーボードを操作する。自分の名前でも、そしてアオイの名前でも検索をしてみたが、動かない。
……どうやらパソコンそのものは正常に動いているようなのだが。
多分、記憶を失う以前の星見カイルは、パソコンはさほど得意ではなかった。
「あぁ。ダメだな……動かない」
結局、幾ら弄りまわしても、ブラウザはホームから動こうとしなかった。
ふと時間表示を見ると、そろそろいい按排だった。アオイがシャワーを浴び終わってもおかしくない頃合。諦めてシャットアウトをしようとする。
「うお――!?」
その時、急に画面が光り出した。
咄嗟のことに、カイルは防衛反応が間に合わない。眩い光が視界を覆った。バランスを崩し、チェアごと後ろへ転倒する。
意識が白く反転する――。
――刹那。
カイルは机上にあり得ならざるものを見た。