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B/A  作者: 秋月章
1
4/17

1-3

 記憶喪失は、広く健忘と呼ばれる記憶障害に分類される。

 健忘とは記憶の中でも宣言的記憶――自らでその内容を宣言可能な記憶、事実と経験を伴ったもの――に、何らかの事情で障害が発生した状態を言い、更にその特徴から様々な名称に分類される。

 頭部に傷を負ったことで発症したものを外傷性健忘、心的外傷など精神的な要素で発症したものを心因性健忘、認知症の症状の一つとして表れるものをそのまま認知症、あるいは俗に痴呆――と言った具合に。

 そしてこの健忘を時間的な見地から――つまり健忘を患う以前の記憶を失うのか、患った以後の記憶を失うのか、と言った観点で――分類した名称も、学術的に存在している。

 前者を逆行性健忘、後者は前向性健忘、という。

 また何らかの事情で――例えば薬物中毒者などが、薬物を濫用している最中の記憶を失っている、と言ったような場合でも、その原因に応じた分類をされる。


 ――ところで。

 記憶喪失という現象は、一個人にとっていったい何を意味するものなのだろうか。

 これは学際的に非常に興味深い問題だ。

 しかし検証の可能な事例は少なく、またその解明への試みの多くは、人道に基づく謗りを決して免れ得ない。

 それは全ての知的可能性にとって悲劇と呼ぶべき事実だ。

 記憶喪失という現象は、逆説的に人間の記憶の持つ意味――ひいては、人間存在をこの世に固定せしめる因子(ファクタ)への接触(アプローチ)へと繋がる、重大極まる研究材料(テーマ)に違いない。月齢の変化を学ぶ際に、月が欠けていく様式(パタン)から学習していくことに、理屈の上では類似している。本来、万人がその合理性を認めて然るべきものだ。

 にもかかわらず、人の脳髄をパンケーキかハンバーグでも割り開くように覗く連中に、電気的刺激の集積であり、あるいはそこに留まらない可能性のある記憶に触れさせたくはないという偏狭な言説が罷り通り、あまつさえ研究への全ての門戸を閉ざすような行いは、断固としてこれを糾弾すべきなのである――。


―――

――


 「――つまり、お話をまとめますと」


 有坂アオイは、言った。

 

 「あなたは自分を記憶障害――逆行性の、部分的な健忘、いわゆる記憶喪失である、と言いたいのですね? 自分が何をしていて、なぜこの街にいたのかを覚えていない、と。もちろん……なぜ自分がこのような状態となったのかも。そうですね、カイルさん」

 「……ああ、その通りだ」


 男は肯定した。

 二人は人気のない道を歩いていた。アオイは雑居ビルから離れたところに止めていた、通学用の原付(スクータ)を押して、男の数歩後ろに続いている。歩道は整備されていないため、アスファルトがひび割れ、道路標示の薄れた車道の真ん中を、二人は堂々と進んでいる。そこは道幅のそこそこある、きちんとした公道――標識によると国道だったけれど、車に出くわすことはない。

 

 ――まるで映画の中のようだ。

 ――荒廃した惑星を、たった二人の生き残りが歩いていくような。


 男は、そんなことを思う。

 男は、カイルと名乗った。

 苗字は星を見ると書いて、星見。

 星見カイル。

 男は自分のことをそう認識していた。


 「恐らく――俺は何かをしにこの街へ来た……それは覚えているんだが、肝心の中身を覚えていない。気がついたらあんなとこにいた。もしかしたら、MIBにでも襲われたのかも知れないな」

 「『お前は多くを知り過ぎた』――と? ストロボを炊かれた記憶は?」

 「……残念ながら。その周辺の記憶はさっぱりでね」


 カイルは肩を竦めた。

 カイルは自分の素性――姓名や家族構成と言ったものは記憶していたし、日本語の文法、自転車の漕ぎ方、電車の乗り方のような社会的な常識も抜け落ちてはいなかった。

 また小学生や中学生のころのような遠い昔のことは――もちろん印象的なことを、うっすらと、程度ではあるが――思い出せたものの、そこから時系列を追って高校時代になると記憶がにわかに滲み始め、大学生活以降のことはまるで思い出すことができない。

 カイルには、自分が社会人であるという認識があった。しかし、故に、もちろん自分がどうやって活計(たずき)を立てていたのかは分からない。

 ……そもそも、きちんと働いていたのかどうかすら定かではないが。


 「そうですか。……しかし、だとすると、かなり珍しい――と言うより不自然な記憶障害ですね」

 「不自然?」


 カイルはアオイの言葉尻を捕らえた。 


 「ええ。普通、忘れるとしたらより古い記憶からになるのが自然です。認知症に伴う健忘の症状であればその限りではありませんが、話す限りその兆候も見られない。また記憶の喪失している範囲、内容も限定的だ。単純な外部要因でなったとは考えにくい。MIBではありませんが、確かに何らかの、技術を持った相手によって記憶操作を施された――そう解釈したほうがよほど理には適う」

 「……冗談だろう?」

 「あいにく冗談は苦手でして。ただ、物証はありますよ」


 ――物証。

 カイルは考える。

 それは何を指す? 何のことだ。

 ……いや、逆に。


 「それは――俺が、何も持っていないことか?」

 「ええ」


 アオイは頷いた。

 カイルは何も持っていない。これは何の誇張でもない。

 仮にも――まさしく仮定であるが――社会人であるならば、出かける際に何はなくとも財布と携帯電話くらいは持っているものだろう。

 身分と連絡手段の確保は現代人にとって必要不可欠だ。

 あるいは逆説的に、自らの身分を社会的に証明する文書――学生で言えば学生証、社会人で言えば社員証のような――と、自らと社会の連繋(コネクション)を可視化する道具(ツール)――携帯電話やノートパソコンのような――を所持することこそがヒトを現代人、ひいては都市型の現代人にするための通過儀礼(イニシエーション)であると言ってもいいかもしれない。

 だがいずれにせよ、今現在、着ている衣服と下着以外の一切を、カイルは所有していなかった。

 何が不自然か考えるのであれば、記憶障害もそうだが、この身軽さもまた相当に不自然であると言えるだろう。


 「推論に推論を重ねた結果ではありますが、カイルさんが何かを知ったために、それを不都合と考える個人、ないし集団が、その有していた技術、手段を以て、その何かにまつわる記憶のみを消却した――」


 アオイは、ギターケースを肩にかけ直した。

 通学用のカバンは、前かごに無造作に放ってある。

 これは、原付(スクータ)ごと停車位置に放置していたものだ。


 「――そう考えたほうが、まだしも現状にそぐう。私としては、いち早く警察へ駆け込むことをお勧めします。ここからは少しかかりますが」

 「どれくらいかかるんだ?」

 「歩いて四十分から一時間くらいでしょうか。私も場所しか知らないのではっきりとは言えませんが……」

 「一時間……」

 

 カイルは天を仰いだ。

 星が綺麗だ、と思った。空は広い、とも。


 「……頼みがある」

 「嫌です」

 

 即答だった。


 「まだ言ってないだろう」

 「聞かなくても推測は立ちます。そして聞く必要も義理もない」

 「それ、貸してくれないか、お嬢さん」


 言って、カイルはアオイの原付(スクータ)を指した。

 じとり、とアオイがカイルを見た。

 ニット帽の上からかけ、今は額に引っ掛けているゴーグルも光を反射した。

 まるで、合計四つの目がカイルを苛んでいるようだ。


 「――人の話、聞いてましたか?」

 「お嬢さんは若いのに、逐一言い方が長ったらしいんだよ」

 「語るべきものがないよりはよほどマシでしょう」

 「辛い皮肉だ」

 

 アオイは溜息を吐いた。


 「……無免許の人に貸せるわけないでしょう?」

 「そもそも、何とかしてくれる流れじゃないのかよ? 話まで聞いてさ。情の一つでも湧いたりは?」

 「……」

 「世知辛いぜ、最近の女子高生は……。この季節は寒いし、警察の御厄介になるしかないかもしれないな?」


 アオイは身構えた。

 原付(スクータ)が倒れかかる。


 「……脅しですか。まさか、記憶障害というのも口実で――」

 「いやいや、違う違う。ほら、寒いだろう、この街? こんな格好で一夜を過ごしたら、凍死体として回収されるかもしれない、ってことさ」


 カイルは努めて軽い口調で言った。

 確かにこの街は寒い。

 雪こそ降っていないが、夜にかけた気温は氷点下を割り込むだろう。


 「記憶喪失だと言えば保護されるでしょう」

 「確証はない。君曰く、俺は記憶障害としては不自然だそうだし――想像力をたくましくすれば、俺の記憶を奪う程の連中が警察にまで手を回していないとは考えにくい。なぜなら――」


 カイルの言葉を、アオイが引き継いだ。


 「――記憶を操作した人間に放縦を許す利点とは、手を下さずとも勝手に追い詰められることだから。記憶を失ったことで、その人自身が既に社会的生命を絶たれてしまったが最後、狂人以上の扱いは回避し得ない……」

 「狂人の真似とて大路を走らば、即ち狂人なり」

 「悪人の真似とて人を殺さば、悪人なり……ですか」


 カイルは苦笑いを浮かべた。


 「悪人になるつもりは、今のところないけどな。ただ狂人扱いされるうちに、どうにもならなくなるということは充分に考えられる。とにかく、何らかの手段で記憶を奪われたなら、自分で探す必要がある、ってことだ」

 「警察にも頼らず、ですか」

 「ああ。ただ、言ったように、独力では厳しい。だから、これも縁だと思って協力を願いたいんだが……」

 「協力、ですか――」

 「もちろん、お嬢さん、君に必要以上の迷惑をかけるつもりはない。俺に同行することも。ただその原付(アシ)さえ貸してもらえれば、それでいい」

 「手の込んだ泥棒じゃ」

 「もし二日――いや。一日帰らなければ、警察へ連絡してくれて構わない。俺のことだって、全部話してくれてもいい。だから――」

 「――分かりました」

 「え。……そ、それじゃあ」


 カイルは身を乗り出した。

 アオイはギターケースを突き出すようにして身構え、後退した。今度こそ原付(スクータ)が音を立て、倒れた。アオイはそれを起こしながら言う。


 「……大の大人が、女子高生相手にそんなに顔を輝かせないでください。誤解されますから。……そうですね、協力するかは、私としてはどちらでもいいことですが。ひとまず、私の部屋へ向かいましょう。細かいところを詰めなければならないですから」

 「細かいところ?」

 「あなたはあてもなく人の原付を乗り回すつもりなのですか?」 


 アオイはシートの埃を払う。


 「燃料代も払えないのに?」

 「む。それは――」

 「その辺りも含め、私の部屋で話し合いましょう、と言っているのです」

 「え。君の――あ、いや。ああ。それは――」


 急にしどろもどろになりだすカイル。

 アオイは訝しむ。


 「……何ですか。煮え切らない」

 「いや。俺としては、その。原付(アシ)さえあればいいわけで――。家に上がると言うのは、ご家族の方が心配しないか? その、君は年頃の娘で、俺は男なわけで――」


 アオイは、そこで初めて表情らしいものを動かした。

 形のいい、扁桃型の双眸を驚愕に丸めた。


 「……ああ。そういう配慮は、忘れていなかったんですね。カイル」

 「そりゃあね」

 「童貞臭い……」

 「何だと!?」


 ぼそり、とアオイが呟いた言葉を、カイルは聞き逃さなかった。

 

 ――案外、言うじゃないか……。


 カイルは思う。

 多分、自分には女性経験の一つや二つくらいあるだろう、とカイルは考える。

 何せ、恐らく平常な男だ。

 目の前の女子にだって、表情が硬質で、話し方が――その内容も含め――理知的で冗長に過ぎるきらいがあることを除けば、相当に魅力的に感じられる。

 性的に。

 もっとも記憶が個人の性癖、性向にどこまでの影響を及ぼし得るかは不明だ。だが記憶を遡るに自分が先天的に、あるいは後天的にそうなるきっかけとなるような物事があったという事項が想起できない以上、少なくとも現段階において自分は特殊性癖の持ち主ではないだろう――。

 と、カイルはそう結論付ける。

 じゃあ言い返してやろうか、とも思ったが……処女(ヴァージン)なのか、と聞けば、社会的によろしくないことになるのは明確。ただでさえ、現状では社会的な保障はゼロに等しいのだ。


 ――しかし。ここは目の前のお嬢さん(マドモアゼル)の言葉も、甘んじて受けねばなるまい。

 ――何はともあれ、狼狽したことは事実なのだから……。


 それに大人の余裕というものもある。

 言い返したら余計にみっともないと言うほうが正しい気もしたけれど。

 その辺りは、都合よく物忘れをしていることにした。


 「別に、その辺りは気にしないでくれて構いませんよ」

 「何だと?」


 先導するように、歩みを速めて歩き始めたアオイが、抜き去った辺りで振り向いて言った。


 「――心配してくれるような家族は、今、私の部屋にはいませんから」


 と。

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