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アオイが階下から外へ出るころには日も傾き、街は紅に沈み始めていた。
この時期は、まだ日の入りが早い。この街は積雪量が多いわけでもなく、晴れた夜が続くため、特に気温低下の幅が急激である。
足元には霧が降りてきていた。夜には濃く立ち込めるだろう。この街は近くに山地があり、しばしば濃い山霧が立ち込める。
寒い。
何か温かいもの――おでんでも買いたいな、とアオイは思う。
しかし一番近いコンビニは先程狙撃したのバス停付近。かつてはこのビルの近くにも一軒あったが、今は潰れてしまい、食品配達サービスの拠点となっていた。
もう少し行くと昔ながらの家屋の立ち並ぶ一画がある。住人の多くは高齢者層だ。食品配達の企業は、そんな老人達が駅まで買い物に行くのは容易なことではないだろうと目算を立て、食品を運んでいる。
アオイの街は、かつて鉄の街と呼ばれていた。
街の近くの山地に良質な石炭を採掘できる炭田があり、この街は鉄道一本でその輸送ができる立地にあったため、鉄工を中心とした重工業が発展した。明治中期から、戦中までの話である。
戦後は産業形態の変化に街が対応できず、工場は相次いで閉鎖。他に目立った産業と言えば林業くらいだったこの街に、人を留めて置く力は元よりなかった。若年層を中心に人口流出が著しく、経済規模は衰亡の一途を辿っている。
もちろん行政はその進行を、指を加えて眺めるわけにもいかない。今日では炭鉱や工場跡などの産業遺産や炭坑節のような独特の文化を用いた町おこしで活況を取り戻そうとしているほか、工場を取り壊した広大な跡地を用いて公共施設や学校を建てるなど、学術研究都市としての方向性も模索しているが、まだ目立った成果は上がっていない。
というのも市の主導で、再開発と整理の計画こそ進んでいるが、古くから――それこそ製鉄の歴史が始まる以前から――この街で権力を有していた地主一族と利害が合致しないため、遅々として先へは進んでいないという事情がある。
元あった建物の取り壊しが完了した土地――工事用のフェンスで囲われた更地は幾つかあるが、そのために新たな建物の目途は立っていない。建築資材に乗り上げるようにして停車している工事用車両が、まるで座礁しているように見える。
この街は、人間で言えば新陳代謝の悪化した状態だ。外部から治療を施したところで自然治癒力に問題がある。
今は、ただの寂れた街だ。
生気の感じられない、枯木と鉄の寄せ細工。
アオイのいる場所もかつては商店街だったが、今やそのほとんどにシャッターが下りている。下りていない店は営業しているのか、それとも下ろす者すらいないのか――。
少なくとも、人の気配はない。車の通りも疎らなものだ。
先程の件で来たのだろう、パトカーや救急車のサイレンが遠くに聞こえた。この辺りには、まだ来ていないようだ。
故にアオイは注意もおろそかに帰路に着こうとする。
そこへ。
「……ちょっといいかい、お嬢さん」
声がかけられた。
低い声。
男の声。
アオイはびくりと肩を震わせた。心臓が早鐘を打ち始める。
――まさか。
――まさかこんなところに、人がいるなんて。
ギターケースを落としそうになる。
ちょうど死角だ。身構える。
動揺を押し殺して応えた。
「……何、でしょうか」
「ん。あぁ、すまないな。驚かすつもりはなかったんだ――」
ほらこの通り、と言いながら男は姿を表した。
「見れば分かるだろう、怪しいもんじゃない」
アオイは男をじっ、と見つめた。常の癖だ。
……いや。
より正確には、見上げた――と言ったほうが適当だっただろう。
背の高い男だった。
女子としては――女子高生としてはアオイも身長が高かったものの、それよりもはっきりと大きい。数値で言えば、およそ十センチ程度の差。目測で身長百八十をゆうに越えている計算だ。
加えて異様なことに、男の髪はくすんだ金色をしていた。
金色の、癖のある、波打った髪を伸ばしていて、後ろで無理矢理一つにまとめている。染めているわけではないだろう。地毛だ。だがあまり衛生的には見えない。
第一印象としては、軟派。
そして。
「……言いにくいですが、あなたはどう見ても不審者です」
「なんだと?」
男はきょろきょろと見渡した。何かを探しているようだった。
「どうして?」
「この街に外国の方がいるのは珍しいので」
背の高い、金髪の男。アオイはその特徴から、外国人を連想した。
会ったことは、数えるほどしか――英語教育の一環くらいでしかなかったけれど。
そもそもこの街では、目の前の男くらいの年齢層に位置する人は、同じ国籍ですらほとんど見られない。
「外国? いや。俺は日本人だよ。純粋な」
「え」
アオイは驚愕に声を漏らした。
「まさか」
「いやいや。本当さ。おふくろがアメリカとのハーフでね。だから……クォーターってことになるのか? 一応簡単な英語は話せるが、国籍の上では紛うことなき日本人さ、俺は」
証明はできないがね、と男は言った。自嘲気味に。
未だに驚愕は冷めやらぬが、多分、それは嘘ではないだろう、とアオイは考えた。
男の日本語はこの街の方言とはやや異なる――アクセント、俗に言うところのイントネーションから考えて、西のほうのものだと思われた――けれど、淀みのない、流暢なものだ。
仮に男が外国人だとするならば、ここまで滑らかにはならないだろう。どこまで習熟を深めたとしても、外国人の日本語はあくまでも中間言語――1に極めて近い、小数点以下9を繰り返す、割り切れない数字のようなものになるからだ。
「それは、失礼なことを」
「いいさ。慣れてる。多分な。嬢ちゃんは……学校の帰りか。部活?」
「……似たようなものです」
アオイは言葉を濁す。
まさか人殺しをしてきました、とも言えない。
「軽音楽か。ん、にしちゃあ、ケースが大きい気もするが……」
男は目敏くアオイの背中のケースを見て、首を捻る。
あるいはとぼけているようだった。アオイに判断はできない。
「……そうですか? 私にはよく分かりませんが――。ああ、それと。あんなところに潜んでいる人は、例え日本人だろうと、不審だと思います」
アオイはむべもなくそう言った。
男はアオイのいた雑居ビルとその隣――洋食屋らしいが、こんな時間でも看板のネオンは灯っておらず、営業しているか定かではない――の間にある細い路地から出てきたように、アオイには見えた。
そこは袋小路だ。奥には洋食屋の出す生ゴミが不透明のゴミ袋に満載されて幾つも幾つも打ち棄てられている。今はまだそうでもないが暑い日、雨上がりなどは異臭がひどい。
そんな場所、溝鼠でもあるまいし、好き好んで立ち入る者がいるとは考え辛い。どこかに行くのに迷った挙句に辿り着く場所でもない。男が洋食屋の関係者であれば別だが――アオイもこの隣のビルを使って長いが、男とは正真正銘、初対面だ。
そして。
――その上、男の身なりも奇妙だった。。
白い薔薇のでかでかと刺繍された、ワインレッドのボタンダウンシャツ。
ズボンは白のスラックス。
男には似合っていたが、この国のほとんどの職業には相応しくないだろう。例外と言えばホストかヤクザものくらいだ。そしてもちろんそんなもの、この近隣には存在しない。
「あんなとこって……割合口さがねぇんだな、お嬢さん。あんなでも住めば都――意外と居心地は悪くないかもしれない」
「はぁ……」
アオイは曖昧に相槌を打つ。
「良識はともあれ、確かにそうかもしれません。で、実際はどうなんですか」
「何が?」
「居心地ですよ」
「あぁ。そんなの決まってる。最悪さ」
「……でしょうね」
ハ――、と男は笑う。
「ま、そもそも別に俺だっていたくていたわけじゃないんだが」
「そうなんですか、ではどうして?」
「どうしてって、そりゃあ――色々あると思うがな。ただ」
「ただ?」
男は若干言いにくそうに躊躇った後。
「――そりゃあ、俺が聞きたいくらいさ。どうして、俺はこんなとこにいる? というか、ここはどこだ?」
そう言って壁に片肘を突いた。
「俺は……いったい何者なんだ?」
「――はい?」
「お嬢さん、俺はね。信じちゃもらえないかもしれないが……多分、記憶喪失なんだ」
「……え?」
支離滅裂だったが、それは、演技とはとても思えなかった。