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狙撃手は夢を見ない。
ひとたび照準器を覗けば、必要なのは計算だ。
弾道の計算。風向による調整。光学と弾道間に生じるズレの調整――。
神業とも言えるそれは、多くの計算式によって裏付けられている。
加えて、弾丸の有効射程距離――目標に対し効果的な集弾性の認められる距離――の上限に近い距離からの狙撃においてはその日の気温や湿度、更には地球が自転することで発生する力――コリオリの力による、弾道の微小な歪みまでも算出しなければ、効力射を得ることは困難だ。英雄主義、ある種の狂気は何の役にも立ちはしない。
故に当たるように祈る、希うようでは二流。
真に一流の狙撃手、射手であるならば、自らを用いて当てる――それほどの精神性が求められるだろう。
少女――有坂アオイは、腹這いの姿勢から深呼吸をした。
吸って、吐く。
鼻腔から空気を腹部へ送り、腹筋を緩めて滞留。三つ数えた後、緩やかに吐き出す。それを三度繰り返すことで、全身のこわばりが解れ、緊張が取れる。
そして二脚に据えた銃を取り、再びその照準器を覗いた。
十字の中心にはバス停。簡単な停留所になっていて、女性が独り、ベンチに座っている。アオイは銃を動かし、その後頭部に照準を合わせた。
彼我の距離はおよそ八百メートル。
少女の狙撃銃――ボルトアクション式、使用弾頭は.308ウィンチェスター弾――では有効射程の限界に近い。
位置関係としては雑居ビルの屋上から撃ち下ろす形。単純な直線距離と比較し若干の猶予はある――高校数学、ピュタゴラスの定理を考えれば明確に分かる――が、それとてこの距離を鑑みれば誤差に近い。
長距離狙撃。
専用の訓練を受けた兵士でも、一朝一夕にはこなせない。容易ならざる行為だ。
曲芸にも近い。
有坂アオイは眉根一つ顰めずに、この難行に挑もうとしていた。
――私は部品だ。
――独つの部品。引鉄を引くための、蛋白質でできた……。
アオイは、頭の中で計算式を幾つも巡らせながら、そんなことを考える。
部品。
それは比喩だ。
無論、アオイは自分を人間であると捉えている。
要は心持ちの問題だ。少しでも自分の中の変数を抑えようと、自分自身に言い聞かせているのだ。
部品であれば、壊れさえしない限り、一定の仕事を果たす。それ以上の変数はない。完結している。数分前に行った深呼吸もそうあろうとしたうちの一部だ。肉体の、ほんの少しの揺れ、震えによる照準のズレをなくすために行っていた。
今日の天気は晴れ。雲は多い。
新しい年を迎え、依然寒さの厳しい日が続いていた。吐息は白く濁って、すぐに消える。風向きは東。珍しく穏やかだ。
照準器の向こうでは女性が、籐のカバンから文庫本を取り出し、読書をしている。このバス停は二つの路線で停留所として用いられる。この時間であれば一時間に三本――およそニ十分に一本の間隔で発車するものが、近くの大型スーパーを通る路線。
女性はこの日、安売りをしている豚肉を買いつつ、夕食は肉味噌炒め、適当に惣菜を見繕って帰ろうと思っていた。
……もちろん、今自分が狙撃銃で狙われているなどとは、知る由もない。
アオイの他は、神のみぞ知る。
アオイは引鉄に指をかける。
照準は揺るがない。一切。
もうじきバスの来る時間だ。
数人、乗客がやってくる。女性もカバンへ本をしまい、立ち上がる素振りを見せる――
――アオイは、添えた指に力を込め。
――ついに引鉄を引いた。
瞬間。
あっけなくも聞こえる破裂音。
照準器の向こうで女性が、突き飛ばされたように倒れた。飛翔体の運動エネルギーに押された形。咄嗟に足に力を入れれば、姿勢を保持することも叶ったかもしれない。が、望むらくもないことだ。
後頭部に空いた穴の近くから、おびただしい量の血液と頭部の内容物が流れ出し、道路を染める。
貫通したかな、とアオイは思う。
もしそうであれば着弾部位は頸椎付近である公算が高い。
頭部に着弾していたとしたら、この距離では頭蓋を貫くには運動エネルギーが不足している可能性がある。その場合、銃弾は飛び込んだ勢いのまま頭蓋の中で軌道を変え、頭部の内側――脳を破壊して回る。
それよりも下部――頸部に命中したとしたら、銃弾が呼吸などの生命維持を司る部位を直撃していることになる。この場合、このように、銃弾は貫通する。
頭部と頸部。
いずれにせよ生存は絶望的だが、アオイの狙いは前者だった。
集まっていた乗客は、何が起きたのか即座に理解できなかった。女性の骸を囲んで立ち尽くし、ようやく現実に追い付くと、初めて三者三様の反応を見せた。概ね周章狼狽と言ってよかったが、中にはまったく動揺した様子を見せず、ぼうっとバスを待つ者もいた。
アオイは一部始終をじっ、と眺める。
女性の死亡は確認した。名前も知らない、面識もない――ただアオイの眼鏡に適ったとしか表現のできない、不幸な女性の亡骸は、今や単なる障害物だ。
だがそれはそれだけで、その存在だけで恐慌――精神的動揺を喚起する作用を有していた。同類の亡骸を、動物は嫌厭する。人間もまた例外ではない。
狙撃には相手集団――敵対勢力に、どこから撃たれるか分からない、という強い精神的圧力をもたらす作用がある。アオイもそれは承知していた。一人よりも複数殺したほうが、その作用がより強まることも、また同様に。
この位置から第二第三の骸を作ることは容易だったし、自分を一人の狙撃手であると考えたとき、それをすることはとても合理的で、むしろしないほうが不自然ですらあった。
けれど、アオイはそれをしなかった。
代わりに。
「少し、躊躇し過ぎたかな」
短く自戒の言葉を吐く。
あと少し――ほんの数瞬、引鉄を早く引けたなら、思い通りに頭部を撃ち抜くことが叶っただろう。結果は変わらないけれど、結果にしかこだわらないようであれば進歩はない。
アオイはその後、見上げても視界に銃口の入らないよう、狙撃銃を退けた。発射薬が炸裂することで、瞬間的に加熱された銃口は、未だに白煙を燻らせていた。それから二脚を片付け、狙撃銃をパーツ単位に手早く分解。傍らのギターケースへまとめる。
欲をかくことはしない。
今日はこれにて店仕舞いだ。
――殺すのは、一日に一人。
それはアオイの固く守る誓いだ。
アオイは獣ではない。人間だ。自戒はヒトを人間にする。
また狙撃銃の薬室には、元より一発の銃弾しか収めていなかった。予備は腰のポーチにあったが、不測の事態に備えるためのもの。
狙撃手としてその様式は不可思議ではあった。敢えて合理的な理由を付けるならば、この狙撃地点――雑居ビルの存在を秘匿するということが挙げられる。類似の拠点はいくつかあったものの、ここを知られることで芋蔓式に他の拠点が露見する危険性は排除せねばならない。
何せ毎日の習慣だ。一日で人数を稼ぐよりも、明日確実に仕留められる環境作りを整備したほうが、巨視的に見た場合、有益となる。
アオイは銃を片付け、屋上に敷いたシルバーの断熱シートを畳み、同じくケースへ入れる。それから姿勢を低くしたまま――万が一にも現場からこちらを見られないように、ざっと様子を見渡すと、階下へと降りた。
――家に帰ってからは、何をしようか。
――ひとまずは食事と、課題だろうか。
アオイは、そんなことを思う。ごく当たり前のように。
いや、実際にこれは当たり前のことだった。
これこそが、女子高生・有坂アオイの日常であった。