プロローグ
有坂蒼がその病院を訪れたのは、記憶にある限り、二度目のことだった。
一度目は、中学三年生になる、雪の残った春のころ。
健康診断に連れられ、内科を受診した。朝から何も食べないよう言いつけられ、血液を抜き取られ、服を脱いでレントゲンを撮った。
結果は健康。
ただ血圧が低く、体重も軽いから、これからはもっと食べるようにしたほうがいいという指導を、蒼は聞いた覚えがある。
……実践は、していなかったけれど。
「――ちょうど、二年になるかしらね」
蒼にわずかに先行して廊下を歩く女性――村田瑞月が、天井に吊った案内板を見ながら、言う。
「……わたしも」
「あら?」
まさか返答が来るとは思っていなかった――と言うより、端から独り言、あるいは軽い場繋ぎのつもりで言ったのだろう――瑞月は引っ張られるように振り返る。
「わたしもそれを思い返していました。ちょうど」
「あら――そうなの?」
蒼はうなずく。
「瑞月さんの言う通りです。以前、ここを訪れて、二年になります」
「ここを、って、……あぁ。そういうことか」
「何か?」
「あ、うぅん。何でもない。――ねぇ、蒼。院内図って、この辺りにない? 相変わらず、ココの作りは複雑で」
「それでしたら……」
蒼は辺りを見回す。
県内でも屈指の敷地面積を誇るこの総合病院は、数多くの診療科を設けている。天井に各診療科への行き方を示してはいるが、構造が複雑ということに変わりはない。
「踊り場にあるみたいですよ」
「お? ホントだ。でかしたぞ、蒼」
「……いえ」
ようやく目当ての診療科への経路を見つけた瑞月が揚々と歩き出す。速い。大股でずんずん進んでいく。時折点滴台を引く人や車椅子で移動する人、その介添人などがいて、目を離したらすぐにはぐれてしまいそうだ。
「待ってください、瑞月さん」
ぼうっと、院内の掲示物――健康ニュースなどを眺めていた蒼は、慌ててその足取りを速めた。
二人が行こうとしている診療科は、病院の外れにあった。
どんどん正面玄関から離れていき、すれ違う人の数も減る。スピーカの類もあまり設置されていないのか、喧噪の中でも聞こえた院内放送もほとんど聞こえなくなっていく。
静かになる中を、二人は歩いている。
案内板に従って。
案内板に従って。
案内板に従って――――
そう。
そのはずだ。
けれど。
――まるで、昔見た、物語の中みたい……。
蒼は、先導する瑞月の背中を見ながら、ふと、そんなことを思う。
――それは、何の変哲もない少女が、こことは違う世界を旅する物語。
冒頭、ある雨上がりの日、家の裏にある畑の様子を見に行った少女は、洞窟を見つける。
麓の村で一番小柄な少女が、ようやく通ることのできるほど狭いその道は先が見えないほど続いていて、進めども進めども、少女はその先へたどり着けない。
振り返れば自分の来た方向も暗闇に閉ざされてしまっていて、先に進むことしかできなくなってしまっていた。
入ったときの期待と好奇心は既にどこかへ消え。
不安と恐怖が巣食い、少女を駆り立てる。
先へ、先へ。ひたすら先へ。
少女は進む。からくりのように規則的に。
どうかこの曲がりくねった隘路が、悪夢でありますようにと願いながら。
自分だけがこの世界にいるのだと錯覚を抱きながら――。
――そして、気がついたとき。
少女は景色が変わっていることに気が付いた。
小鳥のさえずりが遠くに聞こえる。
少女は丘の上に立っていて、見渡す限りに大草原が広がっている。自分もその一部、延長線上に立っている。振り返っても、元来た洞窟は、影も形もそこにはない。
どこまでも駆けまわれそうで、世界が広いのだと実感ができる。
山と、その麓で世界の完結していた少女にとって、それは未知の世界だった。
理想の世界だった。
空想した世界だった。
夢のような世界だった。
悪い魔女や財宝を隠し持つ竜、民衆をこき使う女王を倒すべく、冒険をしなくてはいけなかったけれど、気のいい仲間や、素敵な魔法……自分をお姫様のように扱ってくれる王子様が、少女の周りには続々と現れた。
そして同じくらい、別れもあった。
そんな、苦難と栄光に満ちた、冒険の果て。
永い永い、旅路の終わり。
自分の、元いた世界での名前すら、時間の朧に霞んでしまう少女――いや、かつて少女だった美しい姫君、今や名高き光の勇者は、戴冠式の夜。喧噪に酔い、静かなバルコニーで独り、涼風に当たる。元の世界ではシャンパンに相当する発泡性の、だがもう炭酸の抜けた果実酒のグラスを片手にしながら。幾度となく考えた疑問を、再び反芻する。
――果たして。
果たして、この光景は、本当に現実なのだろうか。
どこかで寝入ってしまった自分の見る夢なのではないだろうか。
目が覚めたら、また山の中。自分の名前すらうろ覚えの自分を、おじいちゃんが寝ぼけていると、叱りつけてくれたりするのかもしれない。
でも逆に、そんな自分の現実と信じる世界こそが、実は儚き夢なのかもしれない。
このまま、このほどよい熱気に酔いに任せて眠れば、またあの世界の夢を見られるのかもしれない。満点の星空を眺めながら瞳を閉じた、あの旅の日のように。
それとも。
夢と現実。
一見して、二律背反なこの二つ。
もしかしたら、そんなものに差異など存在しないのではないだろうか――。
この物語は、母親からの誕生日プレゼントだった。
厳格で、学者肌だった父親の方針で、空想、物語の類は昔からほとんど与えられず、学術書や論文集ばかり読んでいた――もちろんそれらも大いに知的好奇心を満たすものではあったけれど――蒼にとって、このたった一冊の本はただの知的消費財として蕩尽されるもの以上の価値を有していた。
幼い蒼は、ページが擦り切れるほど、この物語を読み返していた。
蒼の中で、この物語は完全にデータベースと化していた。
実際にしたことはないけれど、文章から台詞から、その一字一句すべてをそらんじることもできただろう。
そして蒼は、この物語を読みながらしばしば主人公――少女に思いを馳せていた。
考えることは、決まって冒頭部分、少女が異なる世界へ繋がる洞窟を歩いているときのことだ。
洞窟を歩く少女は、長い道行の果て、半ば夢見心地のまま、異なる世界へとたどり着く。このとき、洞窟を少女の住む現実と同一のものであると仮定した場合、それが異なる世界へ繋がるはずはない。
……と、するならば。
この洞窟はどこかの段階で異なる世界へと物理的に接続し、異なる世界のものとなっているか――
あるいは洞窟、異なる世界そのものが形而上の存在――すなわち少女の夢の産物であり、現実の少女がそれを現実と誤認しているか、そのどちらか、ということになる。
この物語は、巧妙なことに、どちらの解釈をしても読めるようになっていて、異なった読後感を少女へ与えた。
それが作者の意図した構成かは、蒼には理解が出来なかった。
――こつ、こつ、こつ……。
廊下に、規則的な足音が響く。
蒼は足を止め、窓硝子から外を見る。この病院は小高い丘にあって、麓がよく見える。常緑の並木が連なる道路を、トラックやバス、自動車が時折往来する。
陽光を透す硝子は、同時に鏡の役割も果たし、蒼自身の顔を映しこんでいる。どこかそれがぼんやりとしているのは、決してその像が薄いからだけではない。
蒼は、窓の虚像へ手を伸ばそうとして――。
「……!」
慌てて、それを引っ込めた。
今、何か。
何か――変化、したような。
瞬間起こった変化を、蒼は驚愕を伴わせながら思い出す。
触れようとした瞬間、虚像はその口角を不均衡に歪めて――
そう。
笑った。
確かに、笑った。
「……まさか」
小さく囁き、窓を凝視する。
もう一度確かめようとしたけれど、虚像は既に霧消していた。
……ありえない。
それは、蒼の知る物理法則では成立し得ない現象だった。
もっとも知識なんて――まして法則という形で体系化されたものなんて、覆されるために存在しているようなものだが。
そこへ。
「ちょっと、蒼。何してるの」
瑞月が立ち止まり、振り返って言った。
「あ、の――」
蒼は、今見たモノを説明した。
たどたどしい説明だったけれど、恐らく、文意は伝わったと思う。
しかし瑞月は渋面を作る。
「……見間違いなんじゃないの」
「でも」
「あり得ないわ、そんなこと。ほら、行くわよ」
瑞月は一蹴し、足早に進む。
蒼は付いていこうとして、首だけ振り返り、未練がましく窓を見た。
――けれど、見間違いだという言葉を否定するに足るものが、そこに映ることは、ついになかった。