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水彩のフィヨルド  作者: 佐藤産いくら
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38、レモンの香り

 ふぅ、とマイロニーがため息をつく。教室を出て行ったかと思うと、三つのボードを抱えて戻ってきた。それを一枚ずつ私と中里に手渡す。真っ白で、何も描かれていない水彩画用のボードだ。

「そんなに才能が気になるなら、実際に描けばわかる話じゃないか。」

 は……?私と中里は同時にマイロニーを見上げる。マイロニーは先ほどの鋭い目つきが嘘だったかのようににこやかだ。

 そして私と中里の腕をガシッと掴むと、教室から無理やり引きずり出した。

「ちょっと!まだ話は……」

「話は一旦休憩だ。そんなことより、今から君たちは僕と課外授業を受けるんだ。祐也、喜びなよ!」


 まただ。また何を考えている?私たちを連れ回して、何をしようとしている?

 言われるがままに車に乗せられ、たどり着いた先は人気ひとけのない小さな丘。何も無い野原の中央には、唯一レモンの木が実をゆったりと実らせて佇んでいた。

 マイロニーは車の荷台からやけに大きなバッグを取り出してさっさと歩き始める。私たちも慌てて車から降り、マイロニーの後を付いていく。

「よし、ここら辺にしよう。」

 そう言うとマイロニーは荷物をどさりと地面に置いた。そして、ボードを設置し始めた。

「………?」

「よぉし、描くぞお〜!」

 そう言ってマイロニーが取り出したのは、水彩画用の絵の具だった。筆も油絵のものではなく、市販で売られているナイロンの筆だ。戸惑う私と中里をよそに、マイロニーは迷いなく絵の具を筆にとるボードに塗りたくり始めた。

 少し空が赤くなり始めた頃、マイロニーのキャンバスには芸術が完成していた。一目見ると誰もが「なんだこれは」と言うと思う。盛り上がった根っこや、いろんな色が重なり合いにじみ、何色とも言えない葉。

「やっぱり僕に水彩画はダメだね。どうしても納得のいく作品が描けないや。」

 そう言ってマイロニーがボードから離れた瞬間、傾きかけた太陽が絵を照らし出した。


 乾ききっていない絵の具が、キラキラと光を反射する。斜め下からのアングルで描かれたため、力強さがある。不自然に盛り上がった木の根は地面を覆わんと動き出しそうだ。色の重なり合った葉は透明感が増し、何色ものセロファンを重ね合わせたようだ。ザワザワと騒ぎ、お互いの色を褒め合うように揺れる。いくつものレモンの実は太陽光を爛々と反射し、甘酸っぱい果汁の香りがしそうだ。

 なぜ、ただの木からこれほどまでの感動を生み出せる?写実とは程遠い、独特すぎるタッチなのに、目の前にあるレモンの木がそれだと言うことを確実に物語っている。太陽をさんさんと浴びるレモンの木は、もっと素敵に描いてと言わんばかりにその枝を風になびかせた。

「口論なんてナンセンス。君たちも絵描きなら、絵で言いたいことを僕にぶつけてきなよ。」

 マイロニーの声。レモンの香りとともに風に消えていく、爽やかな声。

 絵が人の心を動かすということを、改めて知った気がする。さっきまでギスギスした雰囲気だったのに、こんな状況で尚、私はマイロニーの絵を見てこんな絵を描きたいと思ってしまった。

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