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水彩のフィヨルド  作者: 佐藤産いくら
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16、森の木が聴いてる

 誰もいないロビーのソファーでコーヒーを飲んでいると、タン、タン、タンと規則正しい音が降りてくる。薄暗い階段から現れたのは焦げ茶色のハットを左手でおさえた例の画家で、右手には引きずらないようにキャリーバッグを短く持っていた。彼は腕時計を見てから顔を上げると、そこにいる私の顔を見て心底驚いた顔をした。そして、ふっと優しく微笑んだ。


「正直に言うと夢子は来ないと思ってたよ。」

 レンタカーを運転しながらマイロニーが話す。慣れた手つきで右手をハンドルから離すと、サンドイッチを頬張った。

「なんで?私がノルウェー行きの飛行機に乗った時から、そんな気はしてたんじゃないの?」

「その時はね、してたよ。」

 もちゃもちゃと子供のように音を鳴らしながら喋る。まったく、何が『フランス人は美しさで人が決まる』だ。多分そう言ったことも忘れているんだろうなあ。

「でもホテルについた時、不安になったんだ。僕は勝手に君がノルウェーに行きたくない理由が、ノルウェーにいる誰かのせいなのだと思っていたんだよ。でもそうじゃなくて、自分のせいで行けなくなっているのだとしたらどうしようと思ったんだ。」

「………」

「自分でつけた傷は思ってる以上に深いものだからね。」

 その時、私はマイロニーに違和感を感じた。私に向かって言っているはずなのに、違う人に向けて言っているような気がしたのだ。

 最近自分でも気づいていなかったが、マイロニーに対して敬語を使うのを忘れていた気がする。タメ同士なら、少し踏み込んだ話が出来るのではないか。

 聞いてみようかな。どうしよう。


 それ、誰のことを言ってる?もしかして、自分のことを言ってる?ね、私たち今二人きりなんだからさ、少し後ろめたいことを話しても、私と森の木しか聴いていないよ……。

 その後、私は黙りこくってしまった。聞いていいことと悪いことの判別がつかなかった。その代わりにマイロニーは馬鹿みたいに騒ぎ出した。歌を歌い、口笛を吹いて大笑いしていた。

 ただ一瞬、木々の隙間を飛んでいく黒い鳥と白い鳥の二羽を見た時、マイロニーの目に光が反射していた。


 木々を抜け、森の終わりが見え、光が差し込む場所までたどり着いた。懐かしい。ただ違うのは、霧がかかっていないことだ。ここら辺は霧が多いことで有名なのだが、今日は運がいいらしい。広く弧を描く崖。その向こうからはかすかな潮の香りが漂ってくる。

 まぶしい。あの時とは違う。全てのモノが同じ配置にあるのに、まったく新しい『今』になっていた。

 あの時とは違う。いい加減逃げることを止めなくてはならない。どうにもならない問題なのだから。

 まずは目の前の人に打ち明けてみようか。…そうしたら、この人も話してくれるかもしれない。そう思って、初めての潮風を思いっきり胸に吸い込んだ。

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