1.まったく笑えない!
「ただいまー」
今日も、部活の追い込みでくたくたに疲れた体を引きずり、家に帰ってきた。
「おかえりなさい」おかあさんの声が聞こえる。
私は、靴を脱ぎ捨て、バッグを投げ出すと、ふらふらとお風呂場へ向かう。
もう、ご飯とお風呂以外のことは考えたくない。今日は、謎の追い込みのせいで足がプルプルしている。立っているだけでもしんどい。汗臭い。お腹すいた。
ああ、今日はお風呂に入ってさっぱりして、ご飯を食べたら、早く寝るんだ。そうだ、それがいい。もう、他のことなんてしたくない。と余計なことを考えないまま歩いていると、横をスタスタと妹が通り過ぎていった。
嫌な予感がした。
「ちょっと!」思わず声が出る。
妹が洗面所兼脱衣室へ入り、目の前で閉じられる扉。に、まさか! と、冷や汗が流れる。
鍵が閉まる音。立ち尽くす私。そこへおかあさんが現れた。
「あら、今、夏美ならお風呂に入ったところよ」
やられた。小賢しいぞ、我が妹よ。私は、その場で、膝から崩れるように、座り込んだ。最悪のタイミングだ。……私の妹は、家族の中で一番長風呂なのだ。
朝、日は昇り始める。まぶしい日の光は、山を川を街を包み、私の家を優しく照らす。日は昇る。真上に投げたボールのように。日はしばらくの間、その場に留まっているように思えば、地面を目指して進み始めた。沈む、沈む、地平線へと。そして消え行く日の光に一日の終わりを感じるのだ。それを何度も繰り返すうちに、薄桃色に染まっていた桜の木々から優しい黄緑の若葉へと変わる。木漏れ日の通りは、日が何度も透かすにつれ夏の気配を潜ませた。風鈴の音。蚊取り線香の匂い。夏の影は青く染まる。浴衣。夏祭り。見上げれば、満開の花火が満点の星空の中へと消えていく。出会い、そして別れ。天の川の織姫と彦星に想いを馳せ、お面で顔を隠す。賑やかな通りに、すれ違った好きな人。よぎる笑顔。苦しくなった胸の奥。お祭りは終わりに近づく、消えていく照明。吊るされた提灯。誰にも顔を見られないように、一生懸命うつむき歩いた帰り道。いっせいに飛び立った蛍が、気がつけば赤トンボへと変わっていた。聞こえ始めた鈴虫の声に髪を書き上げ、私は約束する。小指に止まっていたトンボが向かった先に落ち葉が舞う。赤、黄、茶色と色とりどりな風が吹くなか、気がつけば白が混ざり始めた。
息は染まり、手はかじかむ。しきりに降り積もる音のない静かな世界は、夜寝るときに感じる心もとなさに似ている。不安、心配の中、自分の心と向き合う。私は、本当は何を思っているのか、と。そして、長い冬は、何度も繰り返される朝の中に終わりを告げた。
とたとたと妹が風呂から上がった音がした。私はすくっと立ち上がる。そして、風呂場へとは直行せず、妹のもとへと向かう。私は待った。ご飯を食べながら待って、漫画を見て泣きながら待って、テレビを見て笑いながら待ち続けたのだ。それは、私がお風呂に入るためという目的から、妹をいじめるという目的へと変えるのに十分こと足りる時間があった。もし、私の頭の中を覗くことができる人がいたら、私の気持ちを分かってくれるはずだ。なぜ私は、こんなにも長い時間を待っているのだ? そうか、これは妹をいじめるための待ち時間なのだ! といった具合に。
「あ、お姉ちゃん、どうしたの?」
私を見つけた無防備な妹に、ゆらゆらと近づく。
「ん?」
妹は、あとずさる。そして、私の滲み出るほどの笑顔を見た途端、叫んだ。
「わっ! ユキゴンだ!」
「……」私は、何も言わずに、しっかりと妹を捕まえる。
「えっ、私なにもしてないのに!お母さん、助けて!」
人生の迷子になっている親を見てきた私から言わせれば、私たち姉妹には決定的な違いが存在する。
「美雪、またちょっかい出してるの!ちょっと待ってなさい!」
妹は甘やかされて育ったのだ。私は、母が来るまでの数分、その不公平さをぶつけるかのように妹をねちねちねちねちといじめ続けた。清純派? へん、なにそれ? 清純派になれば、このイライラは無くなるの? 冗談だとしても、全く笑えない! と、私はむしろ風呂に入る前の良い運動くらいの気持ちで、適度に心地の良い汗をかく爽やかないじめをしていたのだった。