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カレノキモチ

 なんだろう、この状況。

 これはいったい、どういう――



「あ、おかえり! バイトお疲れさまー!! さぁさぁ、ご飯にする? お風呂にする? そ・れ・と・もー……」


 返す言葉に困り、俺は呆然と部屋を見渡す。

 見慣れたはずの我が家は今、異様な空間と化していた。


 とりあえず、ひとことで言えば薄暗い。

 照明が落ちているのだから当然だ。

 だが、周りが見えないかと言えばそんなこともなかった。

 だって、そこかしこにあるのは、



「これ、キャンドル……だよな?」

「ふっふっふー。ただのキャンドルじゃないよ! アロマキャンドル!! さっき作ったんだー。どう? 即席だけど、けっこう雰囲気出てるでしょ?」


「あ、ああ……」

「これがイランイランでー、あっちのがジャスミン。で、向こうにあるのパチュリーでしょ? あとはねー、そっちに置いてるのがサンダル――」


 楽しそうというより、若干興奮気味に解説してくれるハナ。

 その周囲では、たくさんの陽炎がゆらゆらと揺れている。

 確かにムードはあるけど、でもこれって焚きすぎじゃ……。


「どしたのユキ? そんなところで突っ立ってないで、早くこっちにおいでよ!」

「いや、っていうかさ」

「なにー? あ、心配しないで! ご飯ならご覧の通り、もう準備できてるから!」

「そうじゃなくて……」

「んー??」


 不思議そうに首を傾げるハナに、俺はどう言っていいか分からず、数秒間ただぼーっとしていた。


「あ! もしかして、もう食べてきちゃってた?」

「いや……」

「じゃあなに? 言ってくれないと分かんないよ」

「そ、そうだよな。えっと、その……」


 仕方がない。

 覚悟を決め、俺は手持ちの袋に手を入れる。

 そして、先刻買ったばかりのソレを彼女によく見えるように取り出した。


「実は俺も買ってたんだ、アロマキャンドル……。これはクラリセージだけど」

「ユキ……!」

「でも! とりあえず一種類だけにしよう。ここ、香りが混ざりすぎてなんだかくらくらす……る……から……」

「ゆ、ユキー!!」

 


 それから俺が意識を取り戻し、キャンドルのいくつかを片づけて消臭スプレーをかけるまで、たっぷり一時間はかかったのだった。


 



***





「うーん、食べた食べた。我ながら今日もおいしかったね! ユキには適わないけど、それでも上手になったでしょ?」

「そんなことないって。俺はハナの手料理の方がずっと好きだし。ごちそうさま」

「もう、そんなこと言ってー。おだてたってなんも出ないよ!」


 部屋を包むアロマ(ジャスミン)の香りのおかげだろうか。

 なんだかいつもより気分がリラックスしている気がする。

 会話も弾んで、なんだか同棲し始めたあの頃に戻ったみたいだ。


「いつもありがとう。お皿片づけとく」

「置いといていいよ? あたし洗うし」

「大丈夫だって。準備してくれただろ。それくらいは俺がやるからさ」


 そう言って食卓を立とうとした、その時、


「いいじゃん。そんなの後でさ。今は、ねぇ……」


 制止するようにのばされた手。

 振り向くと、すぐそばにあったのは、


「ハナ……?」

「ね、ユキ。……しよう?」


 灯りのせいだろうか。

 涙をたたえているかのように錯覚するほど潤んだ瞳で、ハナが俺を見つめていた。

 頬は紅潮し、肌にはうっすらと汗が浮かんでいる。

 突然の言葉に、反応に困った俺をよそに、


「ユキだってそのつもりだったんでしょ? だからアロマなんて買ってきてくれたんだよね。……嬉しかったな。あたしたち、やっぱ似てるんだって」

「確かにそうかも知れないけど……」

「あたしもうガマンできないよ。ほら、触って?」


 言いながら、ハナは俺の手をとると、自身の豊かな胸へと寄せた。

 指先に伝わる感触。

 ほのかな体温と共に感じたのは、


「……っ、ぁ……ん。ほら、もう固くなってるでしょ。コレのせいかな? なんだかとってもヘンな感じ」

「お前……」

「ユキはどう? なんともない? あたしだけかな……。こんなに、Hな気分なの」


 あまりに扇情的なハナの視線に、俺はすっかりと引き込まれてしまっていた。

 目を逸らせない。

 いつもか朗らかで、男勝りとさえ思える彼女。

 今までベッドの中でさえそうだったハナが、でも今日ばかりは艶やかな女性の表情で俺を見ている。

 そう思うと、心の中、ふつふつと沸き上がるものが――



「!? ……ん、……ちゅ」


 気付けば彼女に口づけていた。

 口内に伝わる他者の熱。

 それをむさぼるように感じながら、しかし俺もまた彼女を求めようと舌を動かしかけた、まさにその瞬間、




「……よし! かかった!! 今こそ押し倒す好機!!」

「は!? お前、何を――」

「黙らっしゃい!! その気になればこっちのもんだよ! 今日のあたしはひと味もふた味も違うんだ!! 学ぶべきコトはすべて学んだ! 習得すべきワザはすべて身につけた!! あとは実践あるのみ!!」

「ちょっと待て……っ! 話を――」

「大丈夫! ユキの悩みは全部まるっとこのあたしが解決してみせるから! 任せてよ! あたしのテクにかかったら愚息も昇天まったなし!!」

「は!? 悩み!?」


 何を言ってるんだ?

 意味がまるで分からない。

 いきなりのことに混乱する思考。

 分からない、分からないがひとつだけ分かった。


 ハナはハナなりに悩み、考え、勉強し、この環境を作ったんだ。

 ……俺と同じように。

 

 でも、じゃあなんでこんなことになるんだよ。

 あのままの雰囲気でいけてたら、そのまま自然にHできたじゃないか。

 リラックスした気分で心も体も穏やかに、心地よく始められたのに。

 そう学んだから、アロマまで買って感情を高めようと思ったんじゃないのか?

 少なくとも俺はそうだった。

 今日一日、合間合間にスマホで勉強して、不安を抱きながらも「よし、今日こそは」って決意して。


 なのに、どうしてこんな強引なことを、彼女は……。



「ずっと悩んでたんだよね! 苦しかったんだよね! 気付いてあげられなくてゴメン! でも、もう大丈夫だよ。あたし、全部分かってるから」

「いや、だから話を……」

「心配しないで!! 今日のあたしはSEXマスター! ユキの遅漏は、あたしが克服してみせる!!」





 ……はい?


 今、なんて――



「足ピンオナニーに慣れちゃってるんだよね! それでイケないんでしょ? あたしのユルユルでガバガバなんだよね……っ! ……っく、うえ……っ。……ぐすっ。……だからっ、イケないんだよね……っ!! でも、もう大丈夫だから! そんなあたし達でもイケる体位、一生懸命勉強したから!! だから一緒に乗り越えよう! さあ、まずはなにからする? 笹舟本手? 筏崩し? 本茶臼でもいいし、敷き小股でもいいよ! なんだったら仏壇返しくらいやって――」

「だからちょっと待てって! なんだよ、遅漏って!!」

「認めたくないのは分かるよ! ユキだって男の子だもん! 気にしてるんだよね! でも、遅いのは悪いことじゃないんだ! 早すぎてすぐにイっちゃうよりいいじゃない!」

「そういうことを言ってるんじゃないんだって! なんで俺が……」

「だってユキ、そうなんでしょ!? イこうとしてもイケないんだよね! イキたくならないんだよね!? それってつまり、遅漏ってことでしょ!?」

「だから!! なんで、俺がイキたくならないだなんて思うんだ!!」




 思わず張り上げた声。

 それは心の中に浮かんだ、ありのままの叫び。

 別に怒ったわけじゃない。

 苛立ったわけでもない。

 ただただ意味が分からなかったのだ。

 どうして彼女がそう思っているのか。


「俺、気持ちよくなくてイケないだなんて言ったこと、一回でもあった?」

「それは……」

「ないよな。そうだろ?」


 さっきまでの威勢はどこへやら。

 呆然とした表情でハナは静かに、ゆっくりと首を縦に振った。

 俺が何を言っているのか、耳には入っても理解が追いつかない、そんな風にも見える。

 それを裏付けるかのように、


「……でも、だって。ユキは事実イケないじゃない。それって、あたしの中が気持ちよくないってコトでしょ?」


 半分涙声になりながら、彼女はそう返してきた。

 気の強い彼女らしからぬその姿がなんともいじらしく、思わず抱きしめたくなったが、しかし今は話をすることが何より大切だという気がして、俺は唇を噛みながらハナの言葉を聞いていた。


「あたしの締まりがよくないから……っ、ユキを気持ちよくしてあげられないから……っ、だから、ユキは……。……っく」




 そうか。


 そうだったんだ。




 初めて聞いたハナの悩み。

 それが鼓膜を震わせると同時、俺の心もまた震えていた。

 ひとつの疑問が解けたことへの安堵と、そして目の前、俺のことを想って健気に動いてくれていた彼女への愛おしさに。


 ……バカか、俺は。

 どうして気付いてやれなかったんだろう、ハナの抱えていた不安に。

 どうして今まで黙っていたんだ。

 もっと早く自分のことを伝えていたら、あるいは彼女は……。

 


 いや、今からでも遅くない。

 話さないと。

 俺のこと。

 そして聞かないと。

 彼女のことを。


 そうしないと、これから先も俺たちはずっとこんなこと続けてしまう。

 ずっとすれ違ったまま、最悪の結末へと進んでしまうかも知れない。

 だから――




「ごめん、ハナ。そうじゃないんだ」

「……へ?」

「俺がイケなかったのは、その……。君に不満があったわけじゃない。むしろ反対だよ。……俺のせいなんだ」

「どういうこと……?」

「……我慢してたんだ。ずっと。快感の中、イキそうになるのを我慢して、俺はずっと君を抱いてた」


 俺の言葉が信じられないというように目を丸めるハナ。

 ただ、不思議とその表情は幾分やわらいだような気がする。

 それを認めた瞬間、俺は自分の中で凝り固まっていたある種の想いを、抑えることができなくしまっていた。


「……自分が情けなくて、惨めで、今までずっと言い出せなかった。いや、話そうという気さえ持ってなかった。それを言ってしまえば、なんだか君に愛想つかされそうな気がして。……でも、今日ははっきり言うよ。……俺、イキたくなかったんだ」

「イキたくなかった……?」

「自分が……、いや、自分だけが先にイクっていうのが、どうしようもなく嫌だった」


 ハナは何も言わない。

 ただじっと、俺の話に耳を傾けてくれている。


「男ってさ、一度出しちゃうと、もうそこで萎えちゃうことが多いんだよ。体だけじゃない、気分も……さ。だから、なんて言うか……。俺は嫌だったんだ。君を置いてひとりでそうなってしまうのが。君が満足できてないのに俺だけが先にイって、その後ひとりで冷めちゃって、君に最後までしてあげられなくなっちゃうんじゃないか、って」

「ユキ……」

「せっかくなら一緒に気持ちよくなりたい。君を最後まで導いてあげたい。それが果たせず自分だけなんて、そんなのは絶対嫌だ。……ずっとそう思ってた。そう思いながらHしてた」

「……うん」

「ただ、やっぱり体力のせいなのか、集中力のせいなのか……。自分でもよく分からないけど、とにかくそんな気持ちに捕らわれたまま時間だけが経過して、だんだん気持ちいいとかそんなことも感じなくなって……。それで結局……」

「自分もイケなくなった」


 ぽつりこぼれたハナの言葉に、俺は弱弱しく首を縦に振った。

 目頭に熱のようなものを感じ、それに抗うように唇をかみ締めながら。

 その原因は、きっと――



「……でもさ、今思うとそれだけじゃなかったのかもしれない。……怖かったんだ」

「怖かった?」

「ああ、怖かった。もし自分だけイッて後が続かなかったら、君は俺のことをどう思うだろう。自分だけ気持ちよければいい。彼女のことなんて全然考えてくれない。そんな風に思われてしまうのが、どうしようもなく怖かった。……最低だよな、俺。こんな時にも、自分がどう思われたいか、そんなことを気にして。本当に、自分に嫌気が――」


 こみ上げてくる自己嫌悪。

 まったく、本当に俺という男はどこまでも……。


 だが、その先を声に出してしまうより先。




「……ハナ?」


 ふと頬にふれた優しい掌の感触に、俺は思わず言葉を切った。

 どうしたんだろう、急に。

 そのまま何も言えない俺に代わって、


「ありがと、ユキ。話してくれてさ。そうだね、うん。そうだったんだ」


 ハナが独り言のように呟く。

 その顔は伏せっていて表情まで伺い知れない。

 だが、その声はなんとなく想像していたものとは異なっていた。

 呆れている……とはいう感じではないし、軽蔑しているとも違う。



 反対だ。



 むしろ嬉しそうというか、なんとなく安堵しているようにも――


「ね、ユキ。あたし、なんだか拍子抜けしちゃった」

「拍子抜け?」

「そうだよ、拍子抜け! だってさ……」



 一転、顔を上げたハナは、まるで春の太陽のように暖かく、そして穏やかな笑みを浮かべていたのだった。

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