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三月十日

作者: 弥生 祐

 三月十日。

 ようやく帰れたと思った途端、視界に入ったカレンダーに動きが止まる。

 ああそうか。もうそんな季節なのか。道理で気分は乗らないわけだ。誰に言うでもない呟きが漏れる。

 部屋の窓から流れ込む柔らかな夜の風は、もうじき日付けが変わるというのに春が近づいていることを教えてくれている。

 けれど、どうにも気分は晴れない。幼い頃に刻み込まれた記憶というものが、未だ憂鬱にさせているのだろうか。


 三月十日。

 それは私の生まれた日。本来であれば誰からも祝って貰える日。

 学友の誕生日など、いわゆる誕生会に出席した折の賑やかな雰囲気や、恥ずかしそうに照れる学友の笑顔が眩しい日。

 けれど私の生まれた日は違った。誰のせいでもない。環境が、私が育った土地が祝うことを禁じさせていたからだ。


 昭和二十年、三月十日。

 私が生まれた日のずっと以前、この日の午前零時八分から始まった空襲により、私が育つことになる土地は朱く染められた。

 この日だけで死者十万人以上を超えたとされる、世界史で教えられたドレスデン空襲(死者約四万)、ゲルニカ爆撃(死者約二千人)などと比較しても、他に類を見ない大虐殺が行われた日だ。いわゆる東京大空襲の日。

 地元の小中高を出た私にとって、三月十日という日は朝から決まって黙祷を捧げられる日だった。

 朝の朝礼は元より校長先生の長い訓示や、果ては決まって社会見学とばかり戦災資料館に行く。そして失われた命に敬意を払い、皆で祈るのだ。慰めるのだ。私が生まれた日だからといって、祝える空気など芽生えるはずもない。


 正直なところ面白くなかった。戦争で被害に遭い亡くなった方には悪いけれど、親でさえ戦後の生まれである私に、祈らなくてはいけないという実感がなかった。夏休み中に迎える終戦の日だけでいいじゃない。それより学友たちに祝って欲しかった。一年に一回しかないのだ。誕生日会のように大げさじゃなくてもいい、ただ笑いたかった。

 ある時、仏頂面だったのだろう私に、一番仲の良かった学友の祐子が声をかけてくれた。

『じゃあ、みんなに内緒であたしが弥生ちゃんを祝ってあげるね』

 その言葉に当時、どれだけ救われ、嬉しかったことか。


 成長していくにつれ、誕生日というのは特別な日ではなくなっていく。一つ年齢を重ねることに一喜一憂するのは十代まで。

 二十代、そして三十代を間近に迎えた現在となっては、なるべく遅い訪れを期待したい日になってくる。

 二十五才を迎えた時、「ああ、四捨五入したらもう三十代だなんて、嫌だなあ」なんて冗談まじりに祐子に言ったら、

「あはは、じゃあ三十になっても独身だったら、あたしが貰ってあげよっか」なんて返された。

 いつも決まってこの時期に気分が落ち込む悪い癖の私を、長い間励ましてくれた祐子。


 大人になった現在、あの頃より少しは祈りの意味を捉えることが出来るようになったと思う。相変わらず空襲で亡くなった方への実感はない。ないけれど、近しい人の訃報と置き換えて気持ちを伴えるようになったからだ。


 もうじき、三月十日という今日が終わってしまう。思い出したように上着をハンガーへと戻し、寝室に小さく設けた仏壇へと向かった。

 そして遠い昔の顔も知らぬ方々の霊を鎮めるように祈りを捧げる。

 ――どうか、安らかに。

 仕事疲れで痛む体に上乗せするように、心にも痛みが走る。でも、本物の痛みはこんなものではない。

 本当に近しい人が亡くなった時、直後の心は麻痺する。麻痺が解けた後も一年間、祈りなど捧げられなかった。信じられなかったからだ。去年、初めて鎮魂の祈りを捧げた時、溢れる思い出に押し出されて、涙が途方もなくこぼれた。


 日が変わり、三月十一日。

 息を一つ吐き、思いを東北へと飛ばし、新たな祈りを捧げる。

 ――祐子、どうか安らかに。

 今度は思い出に溺れないようにしながら、私はしばらくの間、今は亡き親友へと思いを馳せた。

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