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第五幕 迷

 女はカッと目を見開いた。

 女は布団の上にいた。

 食事を終えると、食事の配膳をしてくれた少女が今度は一人でやって来て、配膳した時と同じくテキパキと食器を片し、最後に綺麗な布巾で卓を拭いて部屋を去っていった。

 しかし部屋を去る間際、少女は戸口でピタと立ち止まり、沢山の使い終えた食器を乗せた盆を持ったまま、振り返って言ったのだ。

「……お客さん、明日は大松明のお祭りの日なんです。この辺りでは唯一の大きな行事です。折角ですから参加してみてはいかがでしょう? きっと良い思い出になると思いますよ」

 ――と

 言い終えると少女はすぐに部屋を出て行った。

 少女が去ると今度は女将が寝具一式を持って部屋へやって来た。

 そしてささっと手際良く布団を敷き、ついでにとお茶を入れながらまるで世間話のようにこう語ったのだ。

「お客さん、お初ちゃんから聞いたでしょうけど、明日の夜は大松明のお祭りなんですよ。この辺りでは唯一のお祭りでしてねぇ、川辺でね、大きな松明を燃やすんです。燃やしたら今度は笹船や木船を川へ浮かべて流すんです。いわゆるあれですよ、ほら、えっと、ああ、そうそう、厄払いですよ、厄払い。一年の厄をすべてこの日に祓っちゃうんですよ。感謝と祈りを奉げてねぇ。祓った厄は川の向こう、彼岸へと流れていくんです。厄は決して溜めてはいけないんです。役は全て流してしまわないと。そうしないと可哀相なんですよ。厄自身がね。厄は帰りたがってるんです。彼岸へね」

 急須から湯飲みへと茶を注ぎ、女将は湯飲みをそっと女へと差し出す。

「……」

 女はじっと差し出された湯飲みを見た。

 湯飲みの中の茶は殊更濃く見えた。そして茶とは思えぬほどそれはドロリと淀んで見えた。

「お客さん、やっぱり顔色が宜しくないみたいですねぇ。もうお休みになっては如何です? ちょっと早いですけど、ここは何もないところですからねぇ、遅くまで起きてたって何もないんですよ。寝ちまった方が得ってもんですよ」

 カラカラと笑いながら女将は女を敷いたばかりの布団へ促す。

 女は特には逆らわず、そのまま布団へと移動し……そのまま寝た。

 女は自身が思っている以上に疲れていたらしかった。

 面倒だったので促されるまま布団へ入ると、まるで吸い込まれるかのようにそのまますっと入眠してしまったのだ。女将の退室すら見届けることもなく、ほぼ一瞬で女の意識は落ちた。

 そして今に至る。

 寝て、無上の恍惚のようなひどい悪夢のような、何とも形容しがたい感触の眠りを味わい、そして目覚めるとすぐに女は異常なまでの悪寒と不安に襲われた。

 女は上半身を起こし、頭を抱える。

 今が夜なのかそれとも朝なのか……今日か明日かもわからないが部屋はひどく暗い。

 夢の中もひどく暗かった。そして何より冷たかった。

 身体中が冷えて身体中がひどく鈍って、そして――あのおぞましい感触。

 まるで侵食されるような感覚。まるで――生きながらに喰われていくような――あの何とも言い難い恐怖――

「……」

 女は恐怖を振り払うかのようにすっくと立ち上がった。

 部屋は相変わらず暗かったが、目を凝らせば薄ぼんやりと物の輪郭は見えた。そして戸口の輪郭も捉えることが出来た。

 女は戸口に向かって歩いた。

「……」

 女は戸口の戸を引いた。

 女がこの戸を開くのは初めてであり、またこの戸をくぐるのはたったの二度目であった。

 女は戸を開き、戸をくぐった。

 廊下は部屋と同じく、暗かった。

 手で探ると、左手がひんやりとした平らなものに触れる。恐らく壁であろう。どうやら女の部屋は廊下の突き当たりにあるらしい。

 女は首を右へ向けた。

 暗闇の中、廊下は真っ直ぐ伸びていた。

 細いそれは僅かな光を反射してか、仄かに輝いてすら見えた。

 女はその真っ直ぐな廊下を歩いた。

 廊下に人気はまったくなく、しんと静まり返っている。

 女が歩くたびにたつ、廊下の軋むギシギシという小さな音が異常なまでに大きく聞こえるほど――そこは静寂で満ちていた。

 ギシギシギシギシ……

 音は途切れることなく、そして良く響いた。

「……」

 一体どれほど歩いたのか……

 もういい加減尽きても良いだろうに、廊下は未だ真っ直ぐと伸び続けている。

 さほど広い旅館には感じなかったが、歩いても歩いても、廊下はただ真っ直ぐに伸びている。

 曲がることも、分岐することも、まして突き当たることもなく……ひたすらに廊下は真っ直ぐなまま……

「……」

 女は気味悪くなり、薄ら寒いものを感じて、堪えきれなくなって――その場に蹲った。

「……」

 女は自分の手の先がひどく冷たくなっていることに気がついた。

 そして同時につい先ほど見た夢を思い出した。

 暗い道を歩く夢。

 ここは夢ほど闇は濃くないけれど、それでもあの夢を髣髴とさせるほど――共通点は多かった。

 道に闇に、そして何より冷ややかさ――

 何でもない重なりではあったが、あの恐ろしい夢を見た直後ではそんな些細なことですら、女の心を挫くには十分であった。

 女は弱り、ひどく精神を乱した。

 そしてその乱れは女の手足すらも弱くした。

 女はもう立てなかった。

 手足に力が入らない。

 心がひどく掻き乱れて、身体にまで気が回らない。

 女は進むも退くも出来ずに、ただその場で蹲っている。

 視界に朱色の金魚が翻った。

「……お客さん」

 側で声がした。

 女は顔を上げた。

 少女だった。

 女将にお初ちゃんと呼ばれ、女の食事の配膳とその食器の片づけをしてくれた少女が女のすぐ目の前に立っていた。

 足音はおろか気配すら感じさせずに少女は女のすぐ側にいた。

 単に女が自身の心の乱れによって少女が立てた足音を聞き逃しただけかもしれないが、女からしてみればまるで忽然と少女がその場に現れ出たかのような感覚であった。

 女は薄気味悪いものをみるかのような眼差しで少女を見上げる。

 少女は感情のまるで見えない目で女を見下ろしている。

 そして静かに少女は言った。

「お客さん、勝手に部屋を出てはいけませんよ」

 ――と。

「……」

 どうして部屋を出てはいけなのだとか、そんなことを言われる筋合いはないだとか、女はそんなことを思ったが、しかしそれらの言葉は女の口からは出なかった。

 女はどうしてか、少女の言葉にぞっとした。

 ぞっとして、恐怖で口も頭も凍りついた。

「お客さん、顔色が悪いです。まだ少しだけ時間はあります。ですからそれまで休んでいてはどうですか? 部屋まで私が付き添いますから」

 少女は優しげにそう言った。

 そして気遣わしげに女に手を差し伸べる。

「……」

 女はありありと恐怖を顔の表に浮かべていた。

 気づいているのかいないのか、少女は女を助け起こそうと、女の肩に触れた。

「……」

 するとどういうわけか、女は自ら立ち上がった。つい先ほどまでの虚脱感がまるで嘘のように……

「お初ちゃん――」

 背後から声がした。

 振り向くと、そこにはやはり女将が立っていた。

「もういいわ。もう準備は出来たみたいだから」

 淡々と女将が言った。

「そうですか」

 女将の言葉に少女はどこか無感情に頷いている。

「……」

 二人の様子を見ながら、女は心が波立つようなそわそわとした不安に囚われ始めていた。 何か不吉な……大きな何かがうねりを帯びながら自らを押し流さんと襲い掛かってこようとしているかのような……まるで木の葉にでもなったかのような頼りなさ……

 女は縋る何かを見出そうとするかのように視線をさ迷わせた。

「お客さん、ずっと歩き詰めで疲れたでしょう? もうあと少しで休めますよ。もうちょっと我慢すればいいんです。もう祭りが始まりましたからね。さぁ――」

 女将がいざなう様にそう言った途端、辺りが光に包まれた。

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