第三幕 苦
「……」
知らぬ間に意識を失っていたようだった。
女はいつの間にか閉じていた目を開き、何気なく辺りを見回す。
部屋は暗かった。
真っ暗で何も見えない。手の先すらも見えないほどの真暗闇だった。
どうやら随分と時間が経過したらしい。
女はじりじりと身じろぎし、何とか光源を探そうと目を凝らす。
しかしこの部屋には窓というものが存在しておらず、月影や星明りなどといった外界からの光明は望むべきもなく、そうなると後はこの部屋に存在しているであろう照明器具を探し当てるしかないことになる。
女は手探りで何とか立ち上がる。
よろよろと片手で壁を探りながら、女は目を闇に慣らそうとじっと虚空を見続ける。
「……」
しかし何時まで経とうとも目は闇に慣れようとはぜず、壁に沿って歩いているにもかかわらず、電灯のスイッチを探り当てることも出来ない。
「……」
女は困惑して立ち止まった。
どれほど時間が経ったか正確には分からないが、女にはもう随分な時を経た感覚がある。
女は奇妙な倦怠感で満たされた。
女はその場でへたり込んだ。
女は自分の身体が重く、そして五体の感覚がひどく鈍っているように感じた。
「……」
ひどく息苦しかった。
肺がじわじわと押しつぶされているような、気道が圧迫されているような、重苦しい苦痛が女を襲う。
「……あ…あ……ぁ……」
口を開いても、女の口からは喘ぎのようにか細い、言葉とも呼べぬ吐息のように意味のない声が漏れるだけ。
「…は……あ……ぁ…あ…あ……」
女は今度は意志を持って、助けを呼ぼうと口を開くが、やはり言葉とも呼べぬ荒い吐息が喉の奥からせり上がってくるだけだ。
「あ…ぅう……ぐ…ぁぐ…うぅ……ぅ…」
その内苦痛から口は自ずと閉じがたくなり、ひらいたままの口からは喉奥からひずみのように縒れた声が滲み始める。
「……ぁ……ぁ……ぅぅ……ぁ……」
女は苦痛のあまり胸を強く押さえ、激しく喉を掻き毟る。
―苦しい、苦しい、苦しい、苦しいっ!! 救けてっ!!―
女は声にならぬ肉体に代わり、精神中で必死に救いを求めた。
救いを求める声が暴風雨のように心中に膨らみ、荒れ狂う。
女は狂おしいまでに救いを求めた。そして――
「っ!!」
突如視界に光が満ちた。
同時に器官に空気が満ちる。
「お客さん、お食事お持ち致しましたよ……あら? お客さん、大丈夫ですか? お顔の色が優れませんねぇ……お部屋も真っ暗でしたし……」
戸口に女将が立っていた。
壁に添えられた片手がこの部屋の電灯のスイッチに触れていた。
「お客さん? 大丈夫ですか? お身体の調子がお悪いんでしたら、もうお休みになられます? すぐにお布団引きますよ? それともお粥か重湯でも用意しましょうか? お薬もよければ用意しますけど……」
女将は心配そうに女の様子を見ている。
どうやらよほどひどい顔色らしいと女は思う。
しかし先ほどとは違い、女の中で荒れ狂っていた苦痛は不思議なほどに今はすっと引いていた。
「……いえ、大丈夫です。食事はいただきます」
額に浮いていた脂汗を拭いながら、ひどく冷静に女は答えた。
「そうですか? ならすぐに支度しますね。お初ちゃん」
女将の呼びかけに答えて、大きな盆を持った少女が部屋に入ってきた。
年のころは十二、三歳程度であろうか……高々と結い上げた長い黒髪につりあがった涼しげな目が印層的な少女である。
白地に紺の朝顔と朱の金魚の描かれた浴衣の裾を揺らしながら、少女は楚々と盆を運び、手際良く座卓の上に配膳を整えていく。
白い茶碗に黒塗りの椀、朱色の小皿に盛った漬物数種に青磁の小鉢に入った和え物、岩のような質感の長皿の上には焼き魚、そしてぐつぐつと煮立って隙間から湯気を吐く小さな土鍋……
それを少女はたった一人で、それもテキパキと卓に並べていく。
盆から卓へとすべて移し終えると少女は女へ向き直り、人形のように完璧で綺麗なお辞儀を一つすると、すっと立ち上がって部屋を出て行った。
「どうぞゆっくりお召し上がり下さい。お食事が終わった頃、食器を下げに参りますので」
女将はにこやかに微笑んで、部屋を出て行った。
「……」
女は改めて卓の上を見た。
小さな卓袱台の上に細々とした食器がひしめいている。
しかし卓が小さくとも、いや小さいからこそ少女の配膳の完璧さが際立った。
女は卓袱台へとにじり寄り、卓の中央を陣取る鍋の蓋へ手を伸ばした。