灰色の子ども
今回は少々長めです。
馴染みの情報屋に師匠の情報を聞いたが、この街では名前すら届いていない。次の傭兵や用心棒等の仕事も、やはり女など雇いたくないと門前払い。しょうがないと諦めてギルドの外へ出れば、もうすでに日は暮れていて、早春の肌寒い風が吹いていた。外套の胸元を寄せ、先程すでにとっていた宿に戻ろうと、足早に暗く狭い路地裏を歩いていた。だがその時、あるものが倒れているのが目に入り、思わず眉根を寄せてしまった。それはぐったりとうつ伏せで横になる、十代にも満たない子どもだった。あまり厄介事には巻き込まれたくはないスティラだったが、ただの孤児には見えないその格好を不審に思い駆け寄った。
「大丈夫か?!」
仰向けにして上半身を抱き起こし、呼びかけ強めに揺すると、固く閉じられていた瞼が微かに動き、弱々しくゆっくりと開かれた。嵐の前触れの空を覆い尽くす雲のような、何とも珍しい濃い灰色の瞳がスティラを映し、子どもは警戒するかのように目を鋭くする。
「…誰だ…あいつの手の者か…?」
掠れ気味の随分子どもらしくない低めの声質に口調だが、そんな細かいことを気にしている場合ではない。顔色は悪いが額に手を当ててみると熱は無く、妙に大きいが上質な寝巻きのような薄着を着ているところを見ると、拐われたか何かされた貴族の子どもかもしれない。ギルドではそういう話を聞かなかったが、保護して自警団あたりに届ければ、少なくとも謝礼ぐらいは貰えるはずだ。スティラはそう冷静に打算し、己の外套を脱ぎ子供を横抱きに抱き上げた。
「何をする!俺が誰か分かって…!!」
驚いて目を丸くし、嫌がって暴れる子供に外套を巻くように着せた。
「私はスティラ、ただの傭兵。心配しないでも何もしない」
怖がらせないように落ち着いて話すスティラ。子供は疲れたのか暴れるのを止めた代わりに、じっと観察するかのようにスティラを見つめ、そして何かに気が付いたようにハッと表情を変えた。
「お前…」
子供が何か言いかけたその時だった。近くから数多くの怒号と悲鳴が響き渡った。ギルドへと引き返す足を止めて、スティラは確認すべく、すぐ近くの大通りへと出た。そこで待っていたのは。
「あれは…そんな…!」
真っ赤に燃え上がる建物をバックに、禍々しく映える真っ黒の巨大な蛇。逃げ惑う人々を喰らい建物を破壊し、警備兵たちが対抗するも、さながら蛇の前の蛙。あんぐりと開かれた凶悪な口に何人も飲み込まれていく。
「バジリスク!!」
千年前に光の神によって葬られたと伝えられていた、闇の神の下僕『バジリスク』。本の中でしか見たことない、伝説の魔物がなぜこんなところにいるのか皆目見当がつかなかったが、鍛え抜かれた屈強な兵たちが赤子のごとく歯が立たないとなれば、傭兵稼業をしてるといえど女のスティラが敵うはずなどありえない。ぼさっと立っている訳もいかず、逃げようと身を翻したその時。
「…あの野郎…人の駒まで使いやがって…」
子供がぎりっと歯を噛み締め憎々しげに不可解なことを小さく呟いたと思ったら、どこにそんな力が残っていたのか突然暴れだし、隙を付かれたスティラの腕から逃げ出した。そして信じられないことに、バジリスクに向かって走り出したのだ。スティラは一瞬愕然とし、少し遅れたが反射的駆け出した。しかし、逃げ惑う人々の波に押され思うように進めない。子供はもうバジリスクの牙が届く範囲までたどり着いてしまっている。
「止めろバジリスク!俺の言うことが聞けないのか?!」
まるで友人の悪行を止めさせるかのように悲痛に叫ぶ子供に、バジリスクの動きがぴたりと止まった。子供の声を聞いているかのようだ。しかし、すぐに正気に戻ったかのように身をくねらせ、大の大人一人でも丸飲みに出来る大きな口を開き、目を見開く子供に襲いかかった。人の波が開け、スティラが剣を抜き全力で駆け出したと同時に。
キーン!金属同士がぶつかり合う音が響き渡った。スティラは咄嗟に子供を突き飛ばし、剣を横に掲げバジリスクの上顎の牙を押さえたのだ。それはとんでもなく物凄い力だった。よく剣や己の腕が折れなかったものだ。ぐしゃりと潰されてしまいそうな勢いで、ぶわっと汗が滲み出る。こんなもの長く持たない。考える間も無くスティラは牙を弾き、そのまま斜め下から上へと切り上げた。その鋭い剣先はバジリスクの左目を捉え、切り裂いたのだ。途端に耳をつんざくような悲鳴が上がり、仰け反ってのたうち回る。しかし、その瞬間ぐらりと目眩を覚え思わずスティラは膝をつく。何故と視線を腕に向けると、何か鋭い尖ったものでひっかいたような傷が走り、はっと牙が掠めたのかと思い立った。バジリスクの牙にはこの世でもっとも強力な猛毒があるという。掠めただけでもとんでもないものなのだろう。どんどん痺れていく体に、不覚だったとスティラは思わず舌打ちをした。その時、側で呆けていた子供が我に返り、スティラに駆け寄った。
「何で俺を助けた!俺はあんたと関係無いの赤の他人だ!」
ヒステリックに怒る子供の言うことはもっともだ。子供といえさっき会ったばかりの他人にここまで命をかけるのは、どう考えてもおかしい。
「…しょうがないだろう…体が勝手に動いたんだから」
スティラ自身も驚きを隠せなかった。人を何人も斬ったことがあるし、助けを求める人を見捨てたことも何度もある。『戦場では他人に情をかけるな』師匠に耳にたこが出来そうなほど言われた言葉。例え子どもでも、それが当たり前なのだから。それなのに、この子どもは助けなければいけないと、本能で身体が動いてしまった。金がもらえるかもしれないと言っても、かもしれないでバジリスクに命を張るなど狂気の沙汰だ。何故なのだろうか。しかし、今更自問自答しても後の祭り。スティラは痺れる片手で子供の頭を撫でた。
「何でもいいからお前は逃げろ…これは私が何とかするから」
バジリスクはのたうち回るのを止め、ゆらりと鎌首をもたげ、真っ赤な片目でギロリとスティラを根目つけた。体には力が入らず、万事休すかと絶望を感じたスティラに、しばし唖然と彼女を見つめていた子供はふぅと息を吐いた。
「…偶然か必然か…まぁ、いい。賭けてみよう」
そして強引にぐいと顔を横に向かされた途端、待ち構えていたのは何か覚悟を決めたような子供の、造形品のように整った顔のアップ。
「汝スティラ、混沌と夜と月を司る我に永遠の忠誠を誓い、いつ如何なる時も我を護る闇の守護騎士となれ」
そしてスティラが口を開く間も無く、唇に柔らかな感触が伝わった。それは紛れもない、唇の感触。そして、気が付けば、目と鼻の先にいた子供は。
「へぇ、賭けは大当たりか」
闇夜色に輝く切れ長の瞳。絶世という言葉しか当てはまらないほどの美しい青年が、ニヤリと不敵な笑みを浮かべていた。彼はゆっくりと立ち上がり、激昂して迫り来るバジリスクに向かって片手を付き出した。
「…悪いな…だが俺はここで消えるわけにはいかねぇんだ」
突如辺り一体の炎が消え去り、刹那、バジリスクを全てを灰に帰す業火が包み込んだ。この世とは思えないほどの長く長く響き渡る絶叫。それが途切れ残っていたのは、大量の灰の山。
静寂。何が起こったのか理解が出来ずにただただ唖然としていたスティラを、青年が突然横抱きに抱き上げた。
「何を…!」
「うっさい。取り合えず逃げるから黙ってろ」
一陣の突風が吹き渡った。人々が顔を上げる頃には、二人の姿はそこには無かった。