48
双葉は、私に気がつかず、熱心に絵本を読んでいた。
私は、双葉の隣の席に座った。
ふっと双葉がこっちを見たので、やぁと右手を上げて挨拶をすると、双葉が目をまん丸くした。
驚いている。
驚きたいのは、こっち。
「国府田君に、驚かれる筋合いはないよ。ここ、うちの近所の図書館だし」と、小声で言う。
「三矢さんは、遅い時間には来ないって言ってたから」
あのとき、雑談のなかで、そんなことも言ったかもしれない。
「うん。こんな時間に来たのは初めてだよ」
若者臭い青い匂いがするよ、と顔をしかめたら、一番青いのは三矢さんだろ、なんて言われた。
青くて悪かったな。
「……元気、なの?」
私は親戚のおばさんか、と思いながら聞くと、「三矢さんこそ」なんて生意気な返しが来た。
「国府田君は、アホだなぁ」
岡村さんの「アホ」が、私の言葉となり出てきた。
ほんと、アホ。
アホ、アホ。
そして私は、双葉が読んでいた本を取りあげた。
本は、アンデルセンの「雪の女王」だ。
雪の女王に攫われた、幼なじみのカイ少年を助けるために旅をする、少女ゲルダの物語だ。
「これ、読んだなぁと思って」
「暗記したの?」と聞くと、双葉は笑った。
なんだか、涙が出そうだ。
「戻っておいでよ」
あの時、引きとめられなかった後悔が、ずっとあった。
自分にはそんな資格はないとか思わずに、「抜けるなんて、アホな事を言わないの」と言えば良かったと。
双葉は椅子の上で体を少しずらすと、「そうもいかないでしょ」と言った。
この、カッコつけが。
「なんでよ」
「三矢さん、わかってて聞くところがよろしくないね」
「わからんわいっ!」
わかっているかもしれないけど、多分、なんとなく、わかるけど。
でも、ここで頷いたら、せっかく会えた意味がない。
「……明日さ。私、岡村さんの家に行くんだよねぇ」
当日のプログラムを決めるんだぁ、と言って双葉の顔を見る。
「あぁ、以知子の家ね。入りくんだ道を行くから、迷子にならないようにね」
「え、そうなの?」
それは困った。
「明日、暇な人いないかなぁ」
「どっかには、いるんじゃない?」
「ええと、駅からどうやって行けば」
「地図を書いてあげるよ」
双葉が何か書くものを出してと言ったので、私は日本史のノートを出した。
「……どのページに、書けと」
「そうね、じゃあ、最後のページで」
やれやれと言いながら、双葉が地図を書く。
書きながら「ここの角を曲がって」とか、「このタバコ屋の斜めの道を行って」とか、双葉が説明をする。
確かにこれは聞かないと、行けそうにない家だった。
「あぁ、助かった。ありがとう」
じゃあ明日、頑張ってね、と双葉が席を立ったので、思わず服を掴んでしまった。
「……明日、行かないよ」
双葉に見下ろされる。
「わ、わかった。だったら、ほら、国府田君お勧めの絵本とか、あったらそれを教えてよ」
とにかく少しでも双葉を引きとめて、そしてなんとかサークルに戻るように説得しなくちゃ。
双葉は絵本と聞くと、少し気持ちが動いたようで、スタスタと本棚に向い歩き出した。
急いであとをついていく。
「朗読できない本もあるけど」
そう言いながら、双葉は本棚をぐるりと回り、三冊の本を取って私に渡した。
「あ、『にじいろの さかな』、好き好き。 おお!『やこうれっしゃ』に、『三びきのやぎのがらがらどん』!」
どれもこれも、読んだことがある本ばかりだ。
はたと気がつく。
そういえば、この双葉は、伍代君のために絵本を暗記した男。
今更ながらに気がつく事実。
……もしかして、双葉とは、すごく趣味が合うかも。
いや、いや。
双葉は、絵本が好きで、読んでいたわけじゃなかったっけ。
全ては、伍代君のため。
そう考えると、岡村さんが伍代君に言っていた、「双葉もいい迷惑よね」という言葉が実感できた。
ふと思った。
双葉は、伍代君のお見舞に行ったり、夢に出たからと私を誘いに来たり、そんなお世話ばかりをしている。
私だって、双葉にお世話になった。
双葉は、世話焼き体質なんだ。
でも、この世話焼き体質の世話は、誰がしてくれるのだろう。
こんな風に、一人で図書館にいる双葉を見ていると、まるでミチカが涙の筋をつけて眠っていたことと同じレベルで、守ってあげたいと思ってしまう。
「……そっか。国府田君、弟になりなよ」
私がそう言うと双葉は「へ? ぼくが? 誰の?」と、素っ頓狂な声を出した。
しーっ、と、人差し指を唇にあてる。
「私の弟に決まっているでしょ。私ね、いとこもたくさんいるし、その中に男の子だってたくさんいるから、全然平気」と、自信を持って言うと、「全然平気じゃない」と双葉は、覇気のない声でぼそりと言った。
「元気ないなぁ。これからは、国府田君の面倒は私が見るから。困ったことがあったら、もう、絶対すぐに助けに行くから」
頼りにして、と胸をはる。
双葉はじろっと私を見た後、「別に困ってもないし、助けなんかいらないけど、こういった場合は、逆らわないほうがいいんだろうなぁ」と言うので、「よくわかってるじゃない」と背中をたたいた。
明日は、この三冊を持って岡村さんの家に行こうなんて思っていたら。
「じゃあ」と、双葉に逃げられてしまった。