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岡村 以知子は、逃走した。
「ごめん、三矢さん。急にクラブの用事ができちゃって」
だから、今日は双葉と二人でよろしくね、なんて。
よろしくね、のあとに、ご丁寧にハートマークまでつけて。
しかも、このハート。動いてるしっ。
「だから、違うっていうのに!」
昨日の岡村さんの話を聞いて泣いてしまった私に、「あ! 三矢さん、双葉のことが好きなんだ!」やっぱり陥落しちゃったかと、彼女はうひうひしながら言ってきたのだ。
うひうひ。
もう、あれは、うひうひとしか表現しようのない顔だった。
いくら違うと言っても、岡村さんは信じてくれるはずもなく、私は伍代君を恨めしげな顔で見ながら(当然、伍代君からは、なんの助け船もなし)、岡村さんがうひうひするのを黙って聞いていた。
「……それって、国府田君にとって大事なことなの?」
あの日、私は双葉にそう言った。
人は、自分が持っているものに、その価値に気がつかないことが多い。
例えば、ミチカ。
あの子は、あの年にしては背は高いほうで、体もまっすぐで足も綺麗だ。
将来のことを思うと、私はほんの少しブルーになりながらも(どの時点でミチカに背が抜かされるの)、彼女の成長が楽しみでしょうがない。
けれど、背の高い女の子には、苦労も多い。
昔からミチカは、同じ年の男子から、背の事でからかわれている。
そのせいか、ちょっと不安定なところもあり、時折猫背っぽくもなっている。
私から見たら、ミチカはピカピカの綺麗な女の子だ。
でも、それをいくら私が言っても、ミチカには届かない。
あの日、双葉の言葉を信じられなかった、私のように。
他の人が認めてくれている自分の価値を、自分では認められないのだ。
そこまでの自信が、ないのだ。
物語は、好きだ。
でも、物語から好かれているかは、わからない。
「……それって、国府田君にとって大事なことなの?」
大事なこと、だったんだ。
双葉にとっては、とても。
岡村さんの話を聞いた時、図書館での双葉との会話が重なった。
すると突然、目の前に小さな伍代君と、その前で途方に暮れる双葉の姿が浮かんだ。
そうしたら、もう、ダメだった。
涙が出てしまった。
小さな子が物語をねだる姿は、私にとってはいつもの風景だ。
あの子たちが、どんなに物語に貪欲で、そしてそれを楽しむかは、経験として知っている。
だからこそ、悲しかった。
悲しい、虚しい。
過去になんて戻れない。
戻って、小さな二人の前で物語を語ることなんてできない。
―― できないのだ。
自分ができることなんて、本当にちっぽけだ。
部室で、昨日の進行状況を、双葉に話す。
「そっか。作品も決まって、場面もOKってことかぁ」
双葉が、「ご苦労さん」なんて、優しいことを言ってくれた。
ほろり。
昨日は、散々しゃべった挙句、学校から締め出されるギリギリまでの時間を使い、根性でなんとかそこまでは終えたのだ。
そこで、四条ほどにはできないけど、と言いながらも伍代君は、私と岡村さんそして伍代君自身の意見を取り入れ、四条君の場面案に修正をいれたものを、作ってくれた。
気のせいか、伍代君はそういったことに、慣れているようにも思えた。
絵心があるというか。
そうして作った案に対する四条君からの意見もなかったようなので、私と双葉は、再び図書館の再現ということで、台本作りにかかったのだ。
前回のことでコツは掴めたので、作業はスムーズにいった。
ここまでは、きもち悪いほど、順調だ。
まぁ、順調なのはいいことだけど。
「来週から色付けかぁ」
作業を終え、職員室に鍵を返しにいったあとで、双葉がぽつりと言った。
「順調だね」
私の言葉に双葉は、「ほんとうだね」と、しみじみとした声を出した。