手帳
そう――間に合ったのは雛菊真姫、本人だった。
「あら……私に刃を向けるとは、いったいどんな了見かしら?」
不審者の男が突き立てた刀の切っ先を、マキはギリギリの所を竹刀一本で去したのだ。すかさず反撃に移る。その一撃を頭に受け不審者の男は倒れた。当然、サトミは目の前で起こった出来事を理解できずにいた。今までにサトミが手をかけることなく、未来が変わることなどなかったのだから。いったいどの時点で未来が変わったというのだろうか。しかし今のサトミにとってはもうどうでもいい事だった。
「……よかった」。張り詰めていた緊張感が切れると同時に、サトミは再びその場に倒れこむ。
――ここは室内で目の前には天井、周囲にはかつて見覚えがある白い光景が広がっている。いつだったか、夢か現か、ついさっきこの場所にいた気がする。それはサトミの心理。この場所はさっきの保健室だ。また夢を見ていたのだろうかとサトミは思った。
「目を覚ましたようね」
声のする方へ視線を向けると、そこには雛菊マキの姿があった。その身なりは剣道着を着たままの姿で、カーテンの隙間からわずかにこぼれる西日が、彼女を照らしている。読書をしていたのか、本を閉じサトミの方へと視線を変えた。
「あなたは今朝の……」
「ええ、それよりも大丈夫? 急に倒れるんだもん、びっくりしちゃった」
サトミは時計に目を向けた。予知夢の事件時刻は優に超えている。
「少し寝不足が続いて……さっきの男は?」
「気絶したところをお巡りさんが取り押さえた。銃刀法違反及び殺人未遂だってさ」
二人の会話に気がついたのか、ベッドを仕切るカーテンの向こうから保健の先生の声がする。
「雛菊さん、白羽さんは目を覚ましたか?」
「はい」
保健の先生がカーテンを開く。
「サトミさん、ちゃんと雛菊さんにお礼を言って。この子が保健室まで運んできてくれたのよ。それにずっと貴方についていてくれたんだから」
「ずっと? 試合には出なかったの?」と、サトミはマキに問う。
「ええ、でもいいのよ。それに白羽さんには大きな借りがあるしね」
マキのその言葉に、サトミは今朝のミルクティーを思い出す。
「あんなモノあげただけで借りだなんて、大切な試合まで棄権してまで……」
「あんなモノ? ……何か勘違いしてるみたいだけど、私の言う借りはこれ」
そう言うとマキは保健の先生が自分の仕事に戻るのを確認した上で、さっきまで読んでいた本をサトミに差し出した。そしてそれは本ではなく手帳だった。サトミが無くした手帳、予知夢を書き記してきた手帳は、マキの手からサトミへと返された。
「これは……私の手帳」
「ゴメンなさい。今朝あなたが置き忘れたのをそのまま……」
「それでは中を?」
「ええ」
そしてサトミはようやく理解することができた。彼女、雛菊マキ本人が、事件を未然に防ぐ事ができた理由を。続けてマキは口を開く。
「試合には結局出られない未来だった……そうでしょ? だからあなたは何も悪くないの。むしろ私はあなたに救われた」
サトミは、不思議に思っていた。なぜこんな能力をすんなりと信じ、また受け入れられるのかと。そして聴かずにはいられなかった。
「私の力……信じているの?」
「もちろん。だって私は――」
――この夏より彼女たちは、その運命を共にすることになる。
そして時は移り変わり現在。当時の事を思い出しながらサトミはベッドの上に寝転がり、カズヒコの名刺を見ていた。カズヒコがマキに放った最後の一言が気にかかる。そしてその帰り道、ミナギはマキが何かを隠しているとも言い切った。
「マキ……八年前にいったい何があったって言うの?」
サトミとマキが出会ってからの約二年間、彼女達はお互いを唯一の良き理解者として生きてきた。マキの事なら何でも知っているつもりだった。サトミはベッドから起き上がると、机の上にある携帯電話に手をかける。しかし、マキの番号を前にプッシュボタンを押す手が止まった。電話を掛けた所でいったい何を話せばいいのか、その時のサトミにはわからなかった。再び名詞に目を向ける。
「小野村探偵事務所ね……明日学校の帰りに行ってみるかな」