失態
案内の仕事を終えたサトミは先生の車からダンボールを抱え、職員室へと向かっていた。
「そういえばサトミさん、お友達の笹熊さんの試合はいつ?」
「ああ、スズエの試合ですか?午後からの個人戦だと聞いてますけど」
笹熊鈴江。彼女はサトミのクラスの友人で、甘倉中学校女子剣道部主将。この地区ではツキノワグマの名で知られる優勝候補の一人として挙がる人物である。小学生の頃から父親の指導の下、剣道を続け、中学二年でありながらスズエの優勝は揺ぎ無いものだと思われていた。しかし去年、突如現れた桜夜中二年の雛菊に優勝の座を奪われ、今年中学最後の引退試合となる夏季大会に向けて猛特訓をしていた。
「スズエ、この大会を目標にいつも遅くまでがんばってましたよ」
「確か去年、惜しくも優勝を逃したのよね……桜夜中の雛菊だっけ? 今年こそ彼女に勝つために――」
『……? 桜夜中の雛菊? ――雛菊雛菊……ヒナギク!?』
夢で殺された少女の名と同じだ。そして彼女は今朝の少女と同一人物である。雛菊真姫に勝つ事こそが笹熊鈴江の目標だった。夢の中では意識していなかった会話の一つ一つが現実では気にかかる。
「そういえばスズエが言ってました。桜夜中の雛菊だけには負けられないと」
「今年こそ優勝できるわよ、彼女なら」
「……」
「どうかしたの?」
「いえ……なんでもないです」
サトミは夢の出来事と現実である今とを照らし合わせていた。本来知り得ないはずの未来を今は知っている事。その精神状態で夢の通りに動く事はそう容易いものではない。しばらく歩くと、職員室の前までたどり着いた。先生は足を器用に使ってドアを開くと、荷物を席の後ろへ置く。サトミの午前中の仕事はこれで終わりだ。午後からは笹熊スズエの応援の予定だが、しかしその前にサトミにはやらなければならない事がある。それは言うまでもなく予知夢の事件阻止。より具体的に言うならば、『不審者による雛菊真姫の殺害を阻止する事』である。
『確か、事件時刻は一時二十五分だったかな?』――サトミは鞄の中に手を入れ、予知夢の内容を書き記した手帳を探りだした――しかし。
『あれ!? ない!……手帳がない!!』
焦りを見せるサトミ。予知の内容を記した手帳が見あたらない。いくら探しても鞄の中にないのだ。
『家に忘れた? でも確かに鞄に入れたはず。どこかで落とした? でもどこで……』
サトミにとって手帳を落とすという事は、予知の詳細が分からないのも問題ではあるが、それだけではない。仮に誰かがサトミの手帳を拾い、中を覗いたりしたものならば過去数十件もの事件、事故を阻止してきた予知夢の内容が世間に知れ渡る事になりかねない。そして今回の事件の時間軸に大きなズレを生じさせる事にもなる最悪のケースだ。
『くっ……さすがに予知手帳を失くす未来までは予知できなかった。そもそも予知夢ではこの手帳自体が存在しえない』
サトミは朝起きてから今までの行動の全てを思い返すことにした。朝寝不足のまま目覚ましに起こされ、枕元にある手帳をそのまま鞄に入れた所までは、仮に寝ぼけていたとしても覚えている。その後自転車のカゴに鞄を入れ、そのまま学校の駐輪場へと向かった。そこから朝の大会案内。そしてマキと出会い――
サトミは思い出した。今朝、案内の時に先生からミルクティーを貰った後、一度手帳を開いた事を。
「そうだ、あの時に置き忘れたかもしれない……」
サトミは今朝の大会案内場所へと戻るがしかし――ここにもない。
『どこに落としたのよ私!』
頭を抱え途方に暮れるサトミ。懐中時計で現時刻を確認しようとしたが、それさえも手帳と一緒に失くしたことに初めて気づく。寝不足が招いた結果だ。やがて頭がボーッとしてくると、サトミは崩れるようにその場へと倒れ込んだ。
「……目を覚ましましたか? 白羽先輩、門の前で倒れてたのを僕が保健室まで運んだんですよ」
サトミが目を覚ましたあその時、目の前には副会長のヒロアキがいた。
「……私」
「働きすぎです。断る事も覚えたらどうですか?」
サトミは朦朧とする頭を抑えると、ベッドから体を起こし、やがて事件予知の事を思い出した。
「ヒロアキ君! 私どれくらい寝てた!?」
「えっとここについてからまだ……一時間くらいですよ。今一時二十分です」
『――残り五分!』
サトミは保健室から飛び出した。予知夢の通りなら、あと五分以内で雛菊マキは不審者の手によって殺害される。そしてその未来を阻止できるのは、未来を知っているサトミだけだ。この時ばかりは自分の愚かさを祟った。教室の前の廊下を駆け抜け、そこからあの場所へと息が切れるほどに走る。
『間に合って!!』
グラウンドへと繋がる階段を駆け下りる途中、サトミは足を踏みはずし転落した。右足を痛めながらも体を起こし、その視線の先にマキの姿をとらえる。その姿はまるで夢と同じで、これから起こる事件、予知夢のあのシーンを連想させた。転落した時の痛みか、または不安によるものなのか、サトミの視界は涙でぼやけていた。
「マキさん!」
しかしその声は届かない。まもなくマキの背後へと現れる不審者。あの時の男だ。
『もう……間に合わない』
――ついにサトミは間に合わなかった。