少なくとも、彼らにとっては。
ガルド・レインは英雄の息子だ。
それも、ただの英雄ではない。かつて魔王軍を打ち破り、滅亡寸前の王国を救った大英雄、《烈光の剣》アルヴァルト・ギルザンの息子なのである───と、ガルドは物心ついた頃から信じていた。母親がそう言っていたのだから、間違いない。
「あなたのお父様はね、とても強くて、とても立派な方なのよ」
幼いガルドが父親について尋ねると、母はいつもそう答えてくれた。家には父のものだという小さな絵姿もあり、そこには長い金髪を後ろで束ね、頬に傷のある精悍な男が描かれている。母はその絵姿を大切にしていたし、ガルドも寝る前にはよく眺めたものだった。
ただ、父がなぜ自分たちと一緒に暮らさないのか、母は教えてくれなかった。きっと国を守るために忙しいのだろう。英雄というのはそういうものだ。ガルドは勝手に納得していたし、父に会えないことを寂しいと思ったこともあまりない。なんといっても、自分には英雄の血が流れているのだから。
実際、ガルドは幼い頃から腕っ節が強かった。村の年上の少年たちが束になっても敵わず、剣を握れば大人の男でさえ手も足も出ない。誰に教わったわけでもない我流の剣術は、力任せに振り回しているだけと評されることもあったが、それで勝てるのだから問題はない。むしろ、ややこしい技術など覚えずとも相手を叩き潰せるあたり、さすがは英雄の息子というべきだろう。
そんなガルドも、母の死をきっかけに故郷を離れ、冒険者となった。
仲間は三人。豊満な身体つきと華やかな美貌を持つ魔法使いのセリナ、宝石のように赤い瞳をきらめかせる愛らしい弓使いのリッカ、それから剣も魔法もろくに使えない、細かい仕事ばかりが得意な背の高い青年ニルスである。
この四人で結成した冒険者パーティの名前は、アルティメットドラゴンブレイカーズ。名付け親はもちろんガルドだった。
「いいか、お前ら! 俺たちはいずれ世界中の竜をぶっ倒す! なんたって俺は大英雄アルヴァルトの息子だからな! 親父が魔王を倒したんなら、俺は竜王くらい倒さねえと格好がつかねえだろ!」
結成当初、ガルドがそう宣言すると、セリナは腹を抱えて笑い、リッカは何がそんなに面白いのか机を叩いて喜んだ。ニルスに至っては笑いすぎて椅子から落ちたほどだから、よほど気に入ったのだろう。
以来、アルティメットドラゴンブレイカーズは順調に名を上げていった。
ゴブリンの巣を潰し、街道に現れた魔獣を退治し、山賊団を壊滅させる。ガルドが先陣を切れば、たいていの敵はそれだけで片がついた。魔法使いと弓使いもなかなか腕が立ち、冒険者として申し分のない活躍を見せている。
問題はニルスだった。
もともと戦闘が苦手な男ではあったが、敵が強くなるにつれてますます役に立たなくなってきた。剣を持たせれば腰が引け、魔物が突進してくれば真っ先に転ぶ。罠や仕掛けには詳しいものの、それで強敵を倒せるわけでもない。
荷物持ちとしては優秀だが、そんなものは金を払えば誰でも雇える。そしてある日、ついにガルドの堪忍袋の緒が切れた。
「ニルス! お前、今日限りでクビだ! もう俺たちについてくるんじゃねえぞ!」
冒険者ギルドの食堂に響き渡った大声に、周囲の冒険者たちが振り向いた。向かいに座っていたニルスは、ちょうど自分の剣についた刃こぼれを調べているところだった。突然の宣告に目を丸くし、それから困ったように笑う。
「ええと……僕、また何か失敗したかな。今日の依頼なら、荷物も全部持って帰ったし、セリナの杖も直しておいたけど……」
「そういう話じゃねえんだよ! お前は弱すぎるんだ! 俺たちはもうBランクなんだぞ。いつまでもお前みたいな奴に足引っ張られてたまるか!」
ガルドは机を叩いた。酒杯が跳ね、ニルスの手元にあった剣がかたんと音を立てる。
「お前なんか冒険者やめちまえ! その辺でトンカチでもカンカンやってりゃいいんだよ! そっちの方がよっぽど似合ってらあ!」
「ガルドくん、たぶんトンカチじゃなくて手槌って言いたいんだよね……?」
「同じだろうが!」
「いや、結構違うよ。ここから先は話が長くなるけど良い?」
「いやだ!」
ガルドの返事にニルスが苦笑すると、隣で聞いていたセリナが吹き出した。リッカも口元を押さえて肩を震わせている。
仲間から追放を言い渡された男を前にして、ずいぶん薄情な連中だった。性格の悪い女たちめ! と正当に文句をつけると、「顔とスタイルが良いから良いの~」「あんたよりは良いわよ!」と即言い返してきた。まったく、ああ言えばこう言う連中だ。可愛くない。
「ともかく、もう決めたからな! お前の取り分も今日までだ。明日から俺たちだけでやってくんだから、文句があっても聞かねえぞ!」
「……うん。わかったよ、ガルドくん。今までありがとう。僕の荷物は明日までに片付けておくね」
ニルスはそれ以上何も言わなかった。自分の剣を鞘へ戻し、机の上に散らばっていた道具を丁寧に鞄へしまう。その様子を見届けると、ガルドは満足げに鼻を鳴らした。
アルティメットドラゴンブレイカーズはこれからもっと強くなる。弱い奴は置いていく。それが冒険者の世界というものなのだ。弱肉強食ってやつだ。弱い肉であるニルスは強いやつに食われる前に、さっさと巣穴でも作って籠ってしまえばいい。
ところが、どういうわけか、ニルスが抜けてからというもの、パーティはさっぱり上手くいかなくなった。
最初のうちはよかった。三人とも十分な戦闘能力を持っているし、実際、魔物を倒すこと自体はそれほど難しくない。問題は、何かが起きたときだった。
魔物の群れを追いかければ、いつの間にか帰り道がわからなくなっている。野営しようとすれば薪が足りず、食料を取り出そうとすれば買い忘れている。武器の手入れも面倒になり、ガルドの剣には日に日に細かな刃こぼれが増えていった。
何より腹立たしいのは、セリナとリッカがやたらと口を出すようになったことである。
「だから、合図するまで突っ込まないでって言ってるでしょ? 前衛が先に飛び出すと、こっちが魔法を撃てないじゃない。ウェルダンになるまで焼いてやりましょうか」
「そうだよ! あたしの矢だって当たらなくなるんだからね。せめて敵の数を確認してから動いてよ!」
「うるせえな! 俺が倒せば済む話だろ!」
「倒せてないから言ってるんでしょうが! さっきだって洞窟の奥で別の群れに囲まれたじゃない。ニルスがいた頃は、ああいう場所に入る前にちゃんと確認してたでしょ!」
その名前を出された途端、ガルドはますます不機嫌になった。何かといえばニルス、ニルス。あんな弱虫がいなくなったくらいで騒ぎすぎなのだ。
ましてや自分は英雄の息子。こんなところで立ち止まっている暇などない。
「だったらお前らだけで勝手に作戦でも立ててろ! 俺はもう知らねえからな!」
そう言い捨てて、ガルドはひとりで拠点を飛び出した。後ろからリッカが何か怒鳴っていたが、聞くつもりはなかった。頭の横を何かが過ぎたと思ったら、普通に矢を射られていた。人として何かがおかしいだろこれは。すぐあとに追従するようにセリナの炎が蛇のように地面を駆けてくる。引きとめるノリで即死攻撃をリーダーに放つな。
どいつもこいつも、英雄の息子に対する敬意が足りない。
腹立ち紛れに道端の小石を蹴飛ばしたところで、大通りの向こうがやけに騒がしいことに気づいた。大勢の人間が同じ方向へ駆けていく。商店の主人まで店を飛び出し、何やら興奮した様子で話していた。
「おい、何の騒ぎだ? 魔物でも出たのかよ」
「違うよ! 大英雄アルヴァルト様がいらっしゃったんだ! しかも息子さんもご一緒だってさ! 王都から来た騎士団が、今ちょうど広場に着いたところだよ!」
ガルドは耳を疑った。
父親だ。
ずっと会いたかった、あの父親が、この街に来ている。
おまけに息子も一緒だというではないか。きっと自分のことだろう。いや、違う違う。自分はここにいるのだから、別の息子ということになる。となれば腹違いの兄弟か何かに違いない。
ガルドは胸を高鳴らせながら駆け出した。
母が死んでからも、父に会いたいという気持ちは少しも変わっていない。いつか一人前の冒険者になって、堂々と名乗り出るつもりでいた。まさか向こうからやって来るとは思わなかったが、こうなれば仕方ない。
英雄アルヴァルトの息子、ガルド・レイン。
その名を父に告げる日が、とうとう来たのだ。
広場にはすでに大勢の人が詰めかけていた。ガルドは人混みをかき分け、邪魔な男の背中を押しのけながら前へ進んでいく。やがて騎士団の旗が見え、その下に立つ一人の男が目に入った。
年齢は五十を越えているだろうか。短く切り揃えた黒髪には白いものが混じり、日に焼けた顔には深い皺が刻まれている。背筋の伸びた立派な男だったが、想像していたほど大柄ではなく、腰に差した剣も飾り気のないものだった。
その隣には、ガルドと同じ年頃の青年が立っている。すらりと背が高く、品のよい顔立ちをした青年は、父親とよく似た黒髪と灰色の瞳を持ち、周囲の人々に穏やかな笑みを向けながら、紹介に合わせて丁寧に頭を下げていた。
「皆、よく聞いてくれ! この者が我が息子、セイクロッドだ。まだ若輩ではあるが、先日の北方遠征では立派に役目を果たしてくれた。いずれは私に代わって剣を取ることになるだろう。どうか、これからも見守ってやってほしい!」
歓声が上がった。大英雄の息子、次代の英雄、父親譲りの剣の腕を持つ若き騎士。人々が口々に祝福の言葉を叫ぶなか、ガルドだけはその場に立ち尽くしていた。
似ていない。
隣の青年と自分が、ではなく、父親だと信じてきた男が、母から見せられた絵姿とまるで違っていた。髪の色も顔立ちも、あの特徴的な頬の傷さえない。
英雄とその隣に立つ青年は、笑ったときの目元も、口の端の上がり方も、少し高い鼻筋もよく似ている。親子というものは、ああいうふうに似るらしい。ガルドは思わず自分の顔に触れた。手入れ不足で藁のようになった金髪に青い目。
母親によく似ていると言われたことは何度もあったが、あそこに立っている英雄の面影など、どこにも見当たらなかった。
今まで何も知らなかったわけではない。旅先で英雄アルヴァルトは黒髪だと聞いたことがあるし、頬に大きな傷などないとも言われた。王都には英雄の肖像画が飾られているから、一度見に行ってみればどうかと勧められたことさえある。
けれどガルドは、そんな話を聞くたびに笑い飛ばしてきた。肖像画なんて本人に似ていないこともあるだろう。人の噂なんて当てにならない。そもそも、英雄は変装して母に会いに来たのかもしれないではないか。
母親は嘘をつかない。あの優しい母が大切そうに抱えていた絵姿の男こそ、自分の父親なのだ。そう信じてきたし、これからも信じていたかった。けれど、ガルドももう二十歳を過ぎている。いつまでも子供じみた言い訳で自分をごまかしていられる年齢ではなかった。
たぶん、母は騙されたのだろう。田舎の村からほとんど出たこともない、世間知らずの女だった。美人というほどではないが、笑うと可愛らしくて、料理が上手で、あまり頭はよくなかった。
そんな田舎娘を、英雄の名を騙ったどこかのクソ野郎が言葉巧みに弄んだ。子供ができれば面倒になって捨て、「いつか必ず迎えに来る」と約束して、二度と戻らなかった。
きっと、それだけの話なのだ。ずっと前からわかっていた。わかっていたのに、どうしても認めたくなかった。
「……くそっ」
ガルドは人混みから離れた。背後ではまだ歓声が続いており、アルヴァルトが息子の肩を抱き、照れたように笑うセイクロッドへ何か話しかけている。父と息子。英雄と、その後を継ぐ若き英雄。ガルドは一度も振り返らず、足早に広場を後にした。
何も考えたくなかった。母が死んだときでさえ、こんなに惨めな気持ちにはならなかったのに。
あのときはまだ、自分には父がいると思っていた。いつか会える相手がいて、自分には特別な血が流れていると信じていられた。
実際のガルド・レインは、どこの馬の骨とも知れない男の息子だった。こんなことなら、何も知らないままでいたかった。
拠点へ戻る気にもなれず、ガルドは街の裏路地をあてもなく歩いた。セリナとリッカにはひどいことを言ってしまったし、あの二人がまだ自分を待っているかどうかもわからない。いや、ひどいことを言った瞬間にひどいことをされたので俺はあんまり悪くない気もする。
ニルスは追い出してしまった。パーティだって、このまま解散になるかもしれなかった。英雄の息子でもないくせに、何をあんなに偉そうにしていたのだろう。そう考えると、今まで口にしてきた言葉のひとつひとつが恥ずかしくなってくる。
アルティメットドラゴンブレイカーズ。
格好良すぎる名前だ。今の自分には、少し重い。
そんなことを考えながら歩いていると、路地の奥から男の怒鳴り声が聞こえてきた。
「おい、さっさと出せって言ってんだろ! てめえ、金持ってんのはわかってんだぞ!」
「だから、そのお金は僕のじゃなくて……困るよ。師匠に頼まれて預かってるんだから、持っていかれると本当に困るんだってば」
「知るかよ! だったら師匠とやらにまた貰ってこい!」
ガルドは顔をしかめた。どうやら恐喝らしい。
いい年をして弱そうな奴から金を巻き上げようなんて、ずいぶん情けない連中だ。今は他人のことなど構っていられないし、わざわざ面倒事に首を突っ込む必要もない。放っておこう。そう思いながらも、足は声のする方へ向かっていた。
曲がり角の向こうでは、柄の悪い男が二人、若い青年を壁際へ追い詰めていた。一人が胸ぐらを掴み、もう一人が鞄を奪おうとしている。ガルドは腰の剣に手をかけたが、路地の狭さを見て思い直した。こんなところで振り回せば、壁に当たって刃が欠けかねない。仕方がないので、殴ることにした。
「おい、てめえら」
「ああ? 何だ、お前……」
振り向いた男の鼻っ面に拳を叩き込むと、情けない悲鳴を上げて吹っ飛び、積み上げられていた空樽へ頭から突っ込んだ。
もう一人が慌てて短剣を抜こうとしたので、その腕を掴んで壁に叩きつける。短剣を取り落とした男は、そのままずるずると崩れ落ちた。二人まとめて片付けるのに、たいした手間もかからなかった。
「ったく、弱い奴を二人がかりで囲んでんじゃねえよ。恥ずかしくねえのか、お前ら」
ガルドは倒れた男を軽く蹴り、恐喝されていた青年へ目を向けた。そして、眉をひそめる。
「……おい」
「あっ、ガルドくん!」
青年がぱっと顔を輝かせた。ニルスだった。ほんの少し前にパーティから追い出したばかりの男が、どういうわけか満面の笑みでこちらを見ている。
よく見れば、服装もすっかり変わっていた。使い込まれた革の前掛けに、ところどころ煤で汚れた作業着。おまけに身体に不釣り合いなほど大きな鞄を抱えているものだから、どう見ても親方に買い物を言いつけられた下っ端にしか見えない。
こんな格好で人気のない裏路地を歩いていれば、金を持った使い走りだと思われるに決まっている。こいつは弱いくせに、どうしてそういうことに気が回らないのか。前は自分たちがいたからよかったものの、今は一人で頑張っているのだろう。だったら少しは危機感を持ちやがれと、ガルドは無性に腹が立ってきた。
「お前、またいじめられてんのかよ……いや、強盗か? 何でお前はそういう目にばっかり遭うんだ。もう裏路地通るなお前は。大通り歩け、大通りを」
「いやあ、近道になると思ったんだけどね。ほら、鍛冶場の裏からこっちを通ると酒場まで早いでしょ。そしたら知らない人に声をかけられて、道でも聞かれるのかなって立ち止まったら、いきなり鞄を掴まれちゃってさ」
「お前ほんっと馬鹿だな! どういう育ち方したら、こんなところにいる男二人組を道に迷った観光客だと思えるんだよ!」
「ガルドくんも今ここにいるじゃない。……あ、もちろん、助けてくれてありがとう。昔からこういうときは必ず来てくれるよね」
ニルスは嬉しそうに目を細めた。その顔を見ているうちに、ガルドはますます腹が立ってきた。
こいつはどうして、いつまで経ってもこうなのか。少しは人を疑え。もう冒険者ではないのだから、危ない場所には近づくな。お前なんて、剣を抜く暇もなく殺されちまうぞ。そもそも俺はもう助けてやらねえんだからな! 今日助かったのは偶然だ! たまたま俺が通りかかって、たまたま優しい気分だったから助かっただけなんだからな!
そう怒鳴りつけてやりたかったが、ニルスの抱えた鞄から金槌の柄が覗いているのに気づき、ガルドは口を閉じた。
「……鍛冶屋、やってんのか」
「うん。前にお世話になった親方のところへ行ってみたんだ。そしたらちょうど人手が欲しかったらしくて、見習いとして雇ってもらえたよ。まだ雑用ばっかりだけど、少しずつ大きな仕事も任せてもらえるようになったんだ」
「へえ。そりゃよかったな。お前、剣を振るのは下手くそだったけど、武器をいじくり回すのは昔から好きだったもんな」
「へへ。親方にも、手先は悪くないって褒めてもらったよ。まあ、力が足りないからもっと鍛えろって言われてるけど……あ、そうだ。ガルドくんに渡したいものがあるんだった」
ニルスが鞄を探り始めるのを眺めながら、ガルドは壁にもたれかかった。何だか調子が狂う。自分はこいつをパーティから追い出したのだ。散々ひどいことを言い、冒険者なんかやめちまえと怒鳴りつけた。普通なら顔も見たくないだろうし、助けられたところで礼を言うのも癪に障るはずだ。
それなのにニルスときたら、何事もなかったように笑っている。少しくらい怒ってもいいだろうに、まったく、昔から何を考えているのかわからない奴だった。
「……なあ、ニルス」
「うん? 何かな。あ、ごめん、ちょっと待ってね。確かこの辺に……」
「俺さ、英雄の息子じゃなかった」
鞄を探っていたニルスの手が止まり、ゆっくりと顔を上げた。ガルドはその顔を見ることができず、足元の石畳に視線を落としたまま言葉を続けた。
「さっき、アルヴァルトが街に来てたんだよ。息子も連れてさ。見てきた。全然似てなかった。母ちゃんが見せてくれた絵姿とも、俺ともな。……俺、ずっと嘘ついてたみてえだ」
ニルスはしばらく黙っていた。何と言えばいいのかわからないのだろう。無理もない。幼い頃からの付き合いで、ガルドは事あるごとに英雄の息子だと自慢してきたのだ。
ニルスだって、まさかそれが全部間違いだったとは思っていなかったはずである。そう考えていたところで、ニルスがぽつりと口を開いた。
「それは……うん……知ってた……」
言いにくいことを打ち明けるような声音ではなかった。どちらかといえば、えっ、今さら? とでも言いたげな、ひどく間の抜けた返事だった。
「知ってたのかよ!?」
「いや、だって……ガルドくん、全然似てないし。あの絵の人、そもそもアルヴァルト様じゃないって、村を出たときには僕も聞いてたから……」
「言!え!よ! お前、何年俺と一緒にいたと思ってんだ!?」
「でも、そういうの大切じゃんか。ほら、心の支え? 的なものだし。ガルドくん、お父さんの話するといつもすごく嬉しそうだったから、言ったら可哀想かなって……」
「可哀想か俺は!?」
「少なくとも今は傷ついてて可哀想」
ニルスは悪びれもせず、そんなことを言った。ガルドは何か言い返そうと口を開いたものの、結局何も出てこなかった。そうか。こいつは知っていたのか。自分が英雄の息子でも何でもないことを、ずっと前から知っていて、あの馬鹿みたいな自慢話を聞いていたのか。
「……セリナとリッカも知ってんのか」
「うん、まあ。あの二人も、たぶん知ってると思うよ。リッカなんて前に酒場で英雄様の肖像画を見たとき、「適当に初代国王とか書いとこ、バレないバレない」ってタイトル書き換えてたし」
「店のものを勝手に触るなよ……」
ガルドは両手で顔を覆った。死にたい。恥ずかしくて死にそうだった。あいつらは全部知っていたのだ。自分が英雄の息子でも何でもないと知りながら、あの偉そうな自慢話を聞いていた。
俺は英雄の息子だ、親父が魔王を倒したんだから俺だって竜くらい倒せる、世界一の冒険者になっていつか親父に認めてもらうんだ。
思い返せば、そんなことを何度口にしたかわからない。そのたびにセリナもリッカもニルスも、いつだって楽しそうに笑っていた。こいつらは全部「違うんだけどなあ」と思いながら聞いていたのか。ガルドはとうとう耐えきれず、その場にしゃがみ込んだ。
「……お前ら、俺のこと馬鹿だと思ってたんだろ」
「えっ? うん、まあ、それは……」
「肯定するところが可笑しいだろうが!」
「だってガルドくん、自分でも勉強は苦手だって言ってるじゃない。別に悪いことじゃないよ。剣は強いし、力仕事も得意だし、僕が困ってるときはいつも助けてくれるし。得意なことが違うだけでしょ」
「……俺ばっか無駄に偉そうにしてたじゃねえか」
最後の方はすっかり声が小さくなっていた。ニルスはそんなガルドを見て困ったように眉を下げると、自分も隣にしゃがみ込んだ。
「でも、ガルドくんは僕たちの英雄だったよ」
「……あ?」
「ほら、村にいた頃のこと。ガルドくんがいなかったら、僕たち、たぶん今でもあそこにいたと思うんだ」
ニルスは鞄を抱え直し、懐かしそうに笑った。
「あの村、嫌なところだったじゃない。古い決まり事ばっかりで、よそ者とか、ちょっと変わった人間にはすぐ意地悪するし。僕なんか、弱いからって毎日のようにいじめられてたんだよ。覚えてる? ガルドくんが初めて助けてくれたとき、僕、村長の息子たちに川へ落とされてたんだ」
覚えている。あれはガルドがまだ小さかった頃のことだ。村の外れを歩いていると、年上の少年たちが川辺で騒いでいた。何をしているのかと覗いてみれば、痩せっぽちの男の子が泥だらけになって泣いている。どう見ても理不尽な扱いを受けているのに、ひとつも抵抗しようとせず、黙って石を投げられていた。腹が立ったので、ガルドは近くにいた少年を殴った。他の連中も殴った。
ついでに村長の息子を川へ突き落とし、浮かんでくるたびに棒で叩いて沈めた。ようやく抵抗しなくなったところで引き上げ、「二度とこの俺さまに逆らうなよ」と指切りして仲直りをした。英雄の息子は不当な暴力を許さない。より大きな暴力で全てを制するのだ。そういう気持ちだった。
今となっては理屈がめちゃくちゃだが、所詮は子供のやることなので、おおらかな気持ちで受け入れられたい。それからしばらく村長の家を出入り禁止になったような気もするが、まあ、昔の話だ。
「あのとき、君、僕に何て言ったか覚えてる?」
「忘れた。何だよ」
「お前は俺の仲間になれ、って言ったんだよ。俺は将来英雄になるんだから、俺についてくれば誰にもいじめられねえぞ、って。……あれ、嬉しかったなあ。母さんに話したら、すごく喜んでくれてさ」
ガルドにはそんなことを言った記憶がない。ただ、あれ以来、何かとニルスが後ろをついてくるようになったことは覚えている。年上のくせに頼りない奴で、道具の扱いには詳しいのに、喧嘩となるとからきし駄目だった。
それでもニルスがいると何かと便利で、木で剣を作ってくれたり、壊れた玩具を直してくれたり、村の外で拾ってきた変な石を見せてくれたりした。ガルドが森へ遊びに行けば、帰り道を教えてくれるのもいつもニルスだった。年上なんだからそれくらい当然だと思っていたし、今でもちょっとそう思っている。
「セリナのことも覚えてるでしょ。あの子のお母さん、綺麗な人だったから、村の男たちにずいぶん嫌な目に遭わされてたじゃない。旦那さんが亡くなって、頼れる人もいなかったし……」
「……ああ」
あれも、ずいぶん昔のことだ。村の祭りの晩、セリナとその母親が納屋の裏で男たちに囲まれていた。
酒に酔った連中が笑いながら二人の腕を引っ張り、嫌がる母親を無理やり物置へ連れ込もうとしていたのである。ガルドには何が起きているのかよくわからなかった。ただ、いつも気が強くて口喧嘩では誰にも負けないセリナが、母親にしがみついて泣いていた。そしてガルドの姿を見つけるなり、「たすけて」と叫んだのだ。
腹が立ったので、近くに落ちていた鍬を拾った。英雄の息子は助けを求める声には必ず応えるものだ。嫌がる女に襲いかかるような輩は、人間かゴブリンかでいえば確実にゴブリンに分類される。ならば討伐しても構わない。正当な戦闘なのだから、今でも特に後悔はしていない。
相手は大人の男たちだったが、そんなことは関係なかった。何人か殴り倒しているうちに騒ぎを聞きつけた大人たちが集まり、最後には村長まで飛び出してきた。ずいぶん叱られたような気もするが、あまり覚えていない。
その晩、セリナの母親には泣きながら抱きしめられた。ガルドは大人の女に抱きつかれたのが恥ずかしくて、ろくに返事もできなかったのを覚えている。
後日、セリナが自分のところへやって来て、仲間に入れろと言い出した。魔法が使えるから役に立つのだという。確かに魔法使いがいれば便利そうなので、ガルドは二つ返事で了承した。そうして仲間は三人になった。
「リッカはさ、最初は僕らのことも怖がってたよね。赤い目をしてるから不吉だって、村の人たちにずっと嫌われてたし。あの子の家に石を投げ込む人までいたんだよ」
「あいつは目つきが悪いからな。昔から睨んでるみてえな顔してたし」
「ガルドくんが初めて会ったとき、綺麗な目だなって言ったからでしょ。睨んでるんじゃなくて見つめているんだよ」
リッカは村の中でも特に嫌われている子供だった。赤い瞳は災いを呼ぶのだと、村の老人たちが口を揃えて言っていた。家畜が死ねばリッカのせい、作物が枯れればリッカのせい、誰かが病気になってもリッカのせい。随分と便利な目をしているものだとガルドは思ったが、当のリッカはひどく気弱で、いつも俯いてばかりいた。
そんなリッカが村の子供たちに追い回されているのを見かけたときも、ガルドは腹を立てた。何だ、こいつら。目ん玉が赤いくらいで何が悪い。リンゴだって赤いだろうが。俺の好きな果物だぞ、文句あるのか。こんな綺麗な目をした奴を、よってたかっていじめやがって。英雄の息子はあらゆる差別を許さない。というわけで、追い回していた連中を全員殴った。
最後の一人が泣いて逃げていくと、ガルドはリッカへ手を伸ばし、自分たちの仲間になれと言った。俺たちと一緒にいれば、もう誰にもいじめられねえぞ、と。リッカはそのとき初めて笑った。あのリンゴみたいな赤い瞳がきらきらと輝く様子は、今でも何となく覚えている。
「……あいつ、そんなに嬉しかったのか?」
「うん。嬉しかったと思うよ。今でもたまに話すもの。ガルドくんが村の悪ガキを全員やっつけてくれたって」
「悪ガキって、俺も悪ガキだったけどな」
「それは、うん、そう」
「少しくらい否定しろよ」
あの村には、ろくな思い出がない。
村長や長老の言うことは絶対で、どれほど理不尽な扱いを受けようと、逆らった方が悪いことにされる。村のため、昔からの決まりだから、お前の家を思って言っているのだ。
大人たちはそんな言葉を並べ立て、気に入らない家には余分な仕事を押しつけ、断れば畑の水や仕事の世話をちらつかせた。子供同士のいじめも同じで、殴られたと訴えれば我慢しろと言われ、殴り返せば親が呼び出される。弱い者は弱いまま、黙って搾り取られているのが村の平和というものらしかった。
もちろん、親たちの立場を考えれば、大人しくしている方がよかったのだろう。ガルドが喧嘩をすれば母親が謝りに行かされ、ニルスが村長の息子に逆らえば家族まで嫌味を言われた。セリナの母親など、娘が余計なことを言わないように躾けろと、あの祭りの一件でも散々責められていた。
だが、だからといって親に迷惑をかけないよう一生小さくなって生きていろというのも、勝手な話ではないか。そもそも大人しくしていたところで、あの連中が親切にしてくれるわけでもない。殴られても文句を言わない奴は、次の日も殴られる。荷物を押しつけられて黙って運んでいれば、今度はもっと重いものを持ってこられる。ガルドに言わせれば、そんなものは殴り返さない方が悪い。
おかげで四人は、村でも指折りの手のつけられない不良共として知られるようになった。村長の息子だろうが長老の孫だろうが、喧嘩を売ってくれば容赦なく叩きのめす。
大人が説教を始めればセリナが言い返し、リッカは「呪うぞ! はいあんたは明日死にますピッピロリ~~!」と目を強調して煽り倒した。ニルスだけは相変わらず争い事が苦手だったが、誰かが怪我をすれば手当てをし、壊れた道具を直し、ガルドが勢い余って壊したものまでこっそり修理してくれた。
村の大人たちは四人を見かけると眉をひそめ、自分の子供には近づかないよう言い聞かせていたらしい。願ったり叶ったりだった。向こうから寄ってこないのなら、わざわざ殴りに行く必要もない。
そんなわけで村中から嫌われていたが、四人でいるのは楽しかった。山へ登り、川で魚を捕り、村長の家の果樹園からリンゴを失敬して、見つかれば全員で逃げた。ニルスが転ぶのでたいてい途中で引き返す羽目になったし、セリナは逃げながら悪口を叫ぶし、リッカは笑いすぎてまともに走れなくなる。
あの村で過ごした日々を懐かしいとは思わないが、仲間と一緒にいた時間だけは、今でも悪くなかったと思っている。
だから、母が死んで村を出ることにしたとき、真っ先に一緒に行くと言い出したのがセリナだったことも、リッカが絶対についていくと譲らなかったことも、ガルドにはそれほど意外ではなかった。
ニルスに至っては、すでに旅の準備を始めていた。誰か一人が抜ければ残された連中が余計に目をつけられるし、何より、あんな村に好き好んで残る理由などなかったのだ。
そうして四人で冒険者になった。村の連中が何と言おうと知ったことではない。自分たちは英雄の息子の仲間なのだから、きっと世界一の冒険者になれる。誰にも頭を下げず、好きなところへ行き、好きなように生きてやるのだと、ガルドは本気で信じていた。
けれど。
「……俺、英雄の息子じゃねえんだ……」
「うん」
「ホントの親父が誰なのかもわかんねえし、そんな奴についてきたって、いいことなんかねえだろ」
「そうかなあ。僕はずいぶんいいことあったけど」
ニルスは不思議そうに首を傾げた。本当に、ガルドが何を気にしているのかわからないらしい。
「ガルドくんがいなかったら、僕は今でもあの村でいじめられてたと思うし、セリナもリッカも、きっと村を出られなかったよ。僕ら、あそこじゃ行き場所のない子供ばっかりだったじゃない。でも、ガルドくんがボスになってくれたから、四人で冒険者になれたんだ」
そこでニルスは少し笑った。昔を懐かしむような、何とも嬉しそうな顔だった。
「英雄の子じゃなくても、僕たちはガルドくんが好きだからさ。あの陰険で、嫌な因習ばっかりの村で、僕たちを助けてくれたガルドくんは、ちゃんと英雄だったよ」
いつものように馬鹿野郎と悪態をつくことも、照れ隠しにニルスの頭を小突くこともできず、ただ黙ってその顔を見つめていた。当のニルスはそんな様子を気にするでもなく、何かを思い出したように鞄の留め具を外し始める。まったく、こっちはそれどころじゃないというのに、昔からこういうところだけは呑気な男だった。
「あ、そうだ。さっき渡そうと思ってたんだけど、これ。ようやく完成したんだよ。ガルドくんのために作ったんだ」
ニルスが鞄から取り出したのは、一振りの短剣だった。真新しい鞘に収められ、柄には革が丁寧に巻かれている。ニルスはそれを両手で持ち、どこか誇らしげにガルドの前へ差し出した。
「ほら、ショートソードが打てるようになったんだ。親方に何度も見てもらって、ようやく一振り仕上げられたんだよ。あげる」
「……俺に?」
「うん。ガルドくん、予備の剣を投げたきり補充してないでしょ。どうせなら僕が作ってみようと思ってさ」
ガルドは差し出された剣を受け取り、ゆっくりと鞘から引き抜いた。夕陽を映した刀身には、鋼の厚みや刃の角度にわずかな不揃いが見える。
名工の作品と呼ぶにはまだ程遠いのだろうが、少なくとも今まで使ってきた安物の剣よりは、ずっと丁寧に作られていた。試しに何度か握り直してみると、これが驚くほど手に馴染む。まるで自分の手の大きさを測って作ったかのような具合のよさに、ガルドは思わずニルスの顔を見た。
「……なまくら」
「うるさっ!」
ニルスが笑いながら抗議するので、ガルドもつられて吹き出した。さっきまであれほど落ち込んでいたというのに、こいつと話していると何だか馬鹿馬鹿しくなってくる。もらったばかりの剣を何度か振って具合を確かめ、それからふと思いついて尋ねた。
「……お前、俺に追い出されたこと、恨んでねえのかよ」
「えっ、どうして? Bランクになってからの依頼は、僕じゃもう危なかったし、ガルドくんも戦ってる最中に僕を庇ってばかりだったじゃない」
ニルスは何でもないことのように答えた。ガルドが呆気に取られていると、少し考えてから付け加える。
「でも、もう少し普通に言ってくれてもよかったと思うなあ。トンカチカンカンで『鍛冶の適性があるから戦闘職を辞めて鍛冶屋になれ』って分かるのは僕たちだからだよ」
「うるせえ! お前がわかってんならそれでいいだろ!」
「一瞬『えっ裏方仕事全てこなしていた僕がクビですか!?』って娯楽小説がはじまるかと思ったからね。あ、そうだ。これからは剣の修理もちゃんとお金をもらいます。今までみたいに無料で直してあげたりしないよ」
「どんな本読んでんだよ。こっちだって職人になったお前にタダ働きさせるほどケチじゃねえぞ。金ならいくらでも払ってやるから、さっさと一人前になれ!」
「はいはい、頑張ります。だからガルドくんも、今度は剣を投げっぱなしにしないでね。刃こぼれしたらちゃんと持ってきてよ」
ガルドは新しい剣を鞘へ戻すと、改めて柄のあたりを眺めた。少し不格好なところもあるが、握り心地は悪くない。何より、初めて打ったまともな剣を自分にくれたというのが、ちょっと嬉しかった。
「……ありがとな、ニルス。大事に使ってやるよ」
「うん。どういたしまして。ガルドくんに使ってもらえたら、僕も嬉しいよ」
広場の方からは、まだ英雄たちを祝福する歓声が聞こえていた。今頃は親子揃って、街の偉い連中から挨拶でも受けているのだろう。ガルドは少しだけそちらへ目を向けたが、もう一度見に行こうとは思わなかった。英雄アルヴァルトには立派な息子がいる。それでいい。
自分はガルド・レインで、母親はマリア。父親が誰なのかはわからないが、今さら確かめるあてもないし、会いたいとも思わなかった。
「……よし。帰るか」
「うん。セリナとリッカが待ってるよ」
「怒ってんだよなあ、めんどくせえ」
「怒らせた方が悪いんじゃない? ごめんなさい出来る?」
「おまえ俺の事何歳だと思ってんだ!?」
「たまに10歳くらいに見えてる」
「てめえ!!」
ギャンギャン喚いているガルドに、ニルスは立ち上がって手を差し出した。ガルドは一瞬ぽかんとした顔になり、それから鼻を鳴らしてその手を掴んだ。引っ張り起こされるなり、勢いよく歩き出す。
「まあいいか、俺は寛大だから許してやる! 今日は俺が奢ってやるよ。ニルスの鍛冶屋就職祝いもまだだったしな!」
「えっ、本当に? それは嬉しいなあ。じゃあ僕、前から食べてみたかった肉料理を頼んでもいい? ちょっと高いんだけど」
「常識の範囲内で好きなだけ食え!」
「突然常識を持ち出してくるなんて卑怯だ」
ガルドは威勢よくニルスの肩を叩くと、自信満々に通りを歩き始めた。その後ろ姿を追いながら、ニルスはまったく相変わらずだなあと思う。
ガルドは昔から誰よりも喧嘩が強く、相手が大人だろうと魔物だろうと少しも怯まない。口は悪いし、すぐ怒るし、思いついたことはろくに考えず実行するので、ニルスもずいぶん苦労させられたものだ。それでも、いざというときには必ず助けに来てくれるのだから、どうにも憎めない。
そんな頼もしい男が、こと道案内となるとからきし駄目なのだから困ったものだった。子供の頃から森へ遊びに行けば帰り道を間違え、知らない街では地図を持っていても迷子になる。本人は決して認めようとしないが、ニルスがいなければ今頃どこかの山奥で暮らしていたかもしれない。きっと野生のガルドとして、それはそれで強く生き抜いた事だろう。その代わり、自分たちもガルドを探して山奥に入り、行き倒れて人生が終わる。
だから昔から、こういうときはニルスの出番だった。あちこちへ走っていく彼を追いかけては袖を引いて連れ戻していた。喧嘩では助けられてばかりだったけれど、道案内くらいは年上の自分に任せてほしい。そう思っているのに、ガルドときたら今でも一人でどんどん先へ行ってしまうのだから。
「おい、ニルス! 何笑ってんだよ! さっさと来ねえと置いてくぞ!」
「何でもないよ。ほら、前を見て歩いて。迷子になるよ」
「誰が迷子になるかってんだ! 道ぐらい知ってんだよ、こっちだろ!」
「すごい、真っ直ぐ馬小屋に突っ込んでいく……」
案の定、ガルドは当然のような顔で馬小屋へ入ろうとしたので、ニルスは慌ててその袖を引っ張った。本人は不服そうに何やら文句を言っていたが、どうせ聞いたところで言い訳に決まっている。ニルスは笑いながらガルドを引っ張り、ようやく二人で拠点まで帰ってきた。
扉を開けると、賑やかな話し声が出迎えてくれた。奥の席では見慣れた二人がこちらに気づき、手を振っている。豊かな胸の下で腕を組んだセリナは、待ちくたびれたと言わんばかりに頬を膨らませていたが、隣のリッカはガルドよりもニルスの姿を見つけたことが嬉しかったらしい。宝石のような赤い瞳を輝かせ、勢いよく立ち上がった。
「おそぉい。ガルド、どこまで行ってたのよ? こっちはずっと待ってたのよ」
「あっ、ニルス! 久しぶり! ねえねえ、鍛冶屋さんの仕事はどう? もう弓矢とか作れる? あたしの矢を千本くらい作ってほしいんだけど、今度の依頼でいっぱい使っちゃったんだよね!」
「有料依頼なら窓口でどうぞー。僕だってもう職人見習いなんだから、前みたいに何でも無料で作ってあげたりしないよ」
「ええーっ! ニルスのくせに生意気! 昔はあたしが頼んだら何でも作ってくれたじゃん! ほら、木彫りの熊とか!」
「そうそう、あれね。矢を作ってほしいって言うから引き受けたのに、途中で熊を彫ってくれって言い出したんだよね」
「だって可愛かったんだもん! あ、そうだ。今度は猫を作ってよ。酒場の看板に乗ってるみたいな、尻尾の長いやつ!」
「お前、弓矢はどうしたんだよ!」
ガルドが呆れて口を挟むと、セリナが吹き出した。ニルスがいた頃にはよく見られた光景だが、久しぶりに四人が揃うと、どうにも話があちこちへ飛んでしまう。もっとも、セリナも人のことを笑っていられるほど大人しい性格ではなかった。
「帰ってきた瞬間から騒がしい男ねえ。ガルドが拗ねてプンプンしながら出ていっちゃったから、私たちまだ食事もとってないのよ? 心配で喉も通らず、涙もポロリ。ああ、可哀想な私たち!」
「うるせえうるせえ! 悪かったな! 今日は俺が奢ってやるから、どっかいい店に飯食いに行こうぜ! ニルスもいるし、久しぶりに四人で飲もうじゃねえか。好きなだけ食えよ!」
「まあ素敵! さすがは私たちのガルドね。ねえ、ここら辺で一番高いお店ってどこだったかしら?」
「高級店は予約が必要だから、そういうのは事前に言ってよ! あ、でも今からでも入れるところがあるかもしれないし、とりあえず行ってみる?」
「いくら奢らせる気だよ。常識の範囲内でものを言え」
つい先ほどまで自称:水も喉を通らないほど心配していたはずの二人は、すっかり元気を取り戻していた。もっとも、最初からそうだったのかもしれない。
セリナはちゃっかり一番高い店を探し始め、リッカはもう外套を羽織っている。ガルドも負けじと大声で何やら言い返していたが、結局は二人に押し切られそうになっていた。
そんな三人が賑やかに出かける準備をしているのを眺めながら、ニルスはやれやれと腰に手を当てた。本当に、何度見ても飽きない連中だ。手のかかる弟分と妹分たちが大きくなって、立派な冒険者になって、それでもこうして顔を合わせれば昔とちっとも変わらない。
ガルドが道を間違えれば教えてやり、セリナが無茶を言い出せば宥めて、リッカに頼まれれば仕方ないなあと木彫りの熊を作ってやる。冒険者という枠から外れても、きっとこれからも、そんな調子なのだろう。
ニルスにとっては、成人した今になっても可愛い弟分と妹分たちなのだから。
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