真っ白なノイズの海で、君の鼓動だけが鮮やかに響いていた。
どこまでも、白かった。
壁も、床も、天井も。
継ぎ目の一切存在しない、無機質な立方体。
部屋の中央には、乳白色の硬質素材で作られた円卓と三脚の椅子が、床面に狂いなく溶接されていた。
室内に満ちているのは、人間の恐怖心や攻撃性を無意識下で麻痺させる微弱な低周波ノイズ。
壁面を照らすアイボリーの照明は、脳波をアルファ波へと誘導するよう照度と波長が完璧に調整されている。
凶器になり得る角もなければ、手首を切るための突起すらない。
すべては、被験者の心拍と脳波から不純なノイズを排除するために設計された、無菌の実験室だった。
「――被験者の三名、意識の覚醒を確認しました」
天井の不可視スピーカーから、平坦な合成音声が降ってきた。
反響音すら計算し尽くされた、温かみの欠片もないトーン。
「これより、第十三回特別選別試行を開始します。クリア条件は一つ。円卓外縁に刻まれた二重らせんの進行度をご覧ください。これは互いの"愛情値"を示しています。この数値がシンクロした御二方のみが、この部屋から生還できます。シンクロは一組のみ有効です。成立した時点で、残る一名は室内にて、苦痛を伴うことなく処分されます」
唐突で、冷酷な死刑宣告。
合成音声の途絶と同時、円卓の天板が微かに明滅した。
中央に、細く鋭利な白金の光が走る。
音もなく描かれたのは、光の円環だった。
時計回りにごくわずかずつ、自身の尾を食むように削り取られ始めていた。
光が一周を食い尽くし、円環が消滅した時が――この部屋のタイムリミットを示している。
そして、三人が手を置く円卓の外縁に、かすかな溝が浮かび上がった。
三人を結ぶ円周のライン。
相手への愛情が高まるにつれ、二重らせんを模した光の糸が編み込まれ、縁を伝って相手の席へと這っていく。
互いとの間を十等分するかのようにガラスの棘が埋め込まれていた。
それは、精密な測量機の目盛りのようで、棘は、愛情値の一割ごとのチェックポイント。
互いのらせん絡み合い、一対の二重らせんとなったとき――、シンクロは成立する。
「きゃっ……!?」
短い悲鳴を上げて身を縮めたのは、少女だった。
夜の底のように深い黒髪に、抜けるように白い肌。
彼女は華奢な両腕で自身の肩をかき抱くように、怯えて、瞳を潤ませていた。
「な、なんですか、これ……っ!? わたし、普通の学生です……! 誰かに恨まれるようなことなんて、何もしていません……! お願いです、出してください……っ!」
震える唇、青ざめた肌、涙を溜めた瞳。
突然、不条理なデスゲームへと放り込まれた、無力で可哀想な犠牲者の姿そのものだった。
相対して。その斜め向かいに座る少年は、身動き一つしなかった。
擦り切れた灰色のジャンパーを纏い、細身の身体を椅子に沈めている。
少女が悲鳴を上げ、身を震わせても、少年はただ瞬きもしない。
底の知れない黒い瞳で彼女を見つめ続けていた。
そして、少年の座席から少女へ向けて伸びるらせんは、すでに異常な光景を現出させていた。
鮮烈な、灼熱の紅。
少年の前から伸びた光のらせんは、脈打つ生体組織のように激しく明滅しながら――。
十等分された棘のすべてをすでに貫き通していた。
一片の躊躇もなく最後の棘を突き抜け、少女の座席の真ん前、その胸元の直下まで。
暴虐なまでの光の奔流が到達して静止している。
その異様な光景にあっても、少年の顔には羞恥も興奮も浮かんでいない。
ただ静かに、何もない空間を見つめるような冷ややかさで、少女を見つめている。
何を考えているのか全く読めない、不気味な少年の佇まいだった。
沈黙を破ったのは、もう一人の参加者、上等なスーツを着こなした男だった。
男はネクタイの結び目をわずかに正すと、洗練された動作で息を吐き、穏やかな微笑みを浮かべた。
恐怖や混乱の気配は微塵もない。
高級ホテルのクラブラウンジで、気難しいクライアントと対峙しているかのような余裕だった。
「……なるほど。状況は把握したよ」
男は、怯える少女へと視線を向け、宥めるように両手をわずかに持ち上げてみせた。
「怯えなくていい、お嬢さん。まずは深呼吸をして、話を聞いてほしい。パニックを起こすのは良くない。この様子を見ている悪趣味な連中を喜ばせるだけだ」
通る、落ち着いたバリトン。
少女は涙を拭う仕草をしながら、縋るように男を見上げた。
「あ、あなたは……?」
「神代圭吾。投資ファンドで執行役員をしている。政財界にはそれなりに顔が利くし、金も人脈も持っている」
圭吾と名乗った男は肩をすくめ、軽やかに言った。
「こんなふざけた密室で死ぬ気は毛頭ないよ。君だって、こんなところで命を落としたくはないだろう?」
「は、はい……死にたくないです……っ」
「なら、安心するといい。君を助けてあげる。……ルールは聞いたね? これは互いの愛情値をシンクロさせるゲームだ。そう難しいことじゃない。互いに憎しみ合い、愛情値が無い状態であっても、シンクロすれば生還できる」
「憎しみ合っていても……、ですか?」
「そうだ。私から君に対する愛情値は、最初の棘を少し過ぎたところ。数値にして一割と少し。……そして、君から私からへの愛情値は無い。当然さ、こんな状況で見知らぬ男二人に囲まれて、愛情値が湧いている方がおかしい」
圭吾はちらりと、少年の方を見たが、少年は反応しない。
邪魔をしないのであれば、警戒をする必要はないか、そう思いながら圭吾は続けた。
「君が私に対して、ほんのわずかでも好意や信頼を寄せてくれれば、私たちの愛情値はすぐにシンクロして、クリア条件を満たす」
圭吾は少女の瞳を真っ直ぐに見つめ、口説くように言葉を重ねた。
「ここから出たら、君の身の安全は私がすべて保障する。住む場所も用意しよう。食べるものにも不自由しない。着るものだって、気分次第で選んで良いんだ。クローゼットに好きなだけ並べてみてほしい。贅沢な暮らしも、君が望むものは何だって用意しよう。君が私を信用してくれるなら、君に一生不自由はさせない」
甘く、力強い約束。
極限状態に置かれた女性なら、誰もが縋り付きたくなるような言葉を並べたのだが――。
奇妙な違和感があった。
「……喋りすぎると、ボロが出るぞ。その口説き文句は、まるで"住む場所にも、食べるものにも、困っていることを知ってる"みたいに聞こえる」
黙って聞いていた少年が漏らした言葉。その声は、温度をもたない、感情の何も読み取れない、不気味な周波数。
圭吾は、笑顔を保ちながら、その頬は少し引きつっていた。
「わ、わたし、別に住む場所に困ってるわけじゃ……」
圭吾は、テーブル中央で削り取られていく円環を見下ろしながら、皮肉げな笑みを浮かべた。
「そう。さっき私は言ったね? これは互いの愛情値をシンクロさせるゲームだ。そう難しいことじゃない、と。しかし、簡単なわけでもない。それでは、ゲームとして成り立たなくなる。だから、彼のように、足を引っ張る存在が用意されている」
「……、どういうこと、ですか?」
少女は、少年と、そして圭吾をゆっくり交互に見つめながら、口元に手を当てる。
「実を言うとね、私はこの狂ったデスゲームの存在を知っている。上流階級の限られた人間だけがアクセスできる、アンダーグラウンドの会員制ライブ配信。……観客として、誰が生き残るかチップを賭けたことさえある」
「え……配信、されてるの、ですか……?」
少女が怯えたように声を漏らす。
圭吾はおどけたように両手を広げた。
「まさか自分がプレイヤーとして選ばれるとは思っていなかったがね。主催者の財団への献金を少しケチってしまったせいかもしれない。まったく、手痛いしっぺ返しを食らったものだ」
軽妙なジョーク。
圭吾は完全に場を支配し、少女の警戒を解き、自分とのシンクロを成立させようとしていた。
その様子を、ボロボロのジャンパーを着た少年は、じっと観察していた。
圭吾の流暢な弁舌を、感情の抜け落ちた目で見つめている。
圭吾は少年を一瞥し、侮蔑するように鼻を鳴らした。
「そこの少年。……君は一体何者なんだ? 初対面の女性に対して、棘すべてを貫通させる愛情――。ゲーム終盤になっていてもありえない。こんな状況を見たのは初めだ。愛情というよりも、愛執といった方がいいか? まるで出来の悪いバグだな。気味が悪すぎる。お嬢さんが君のような不気味な男に心を許すとは思えないね」
少年は何も答えない。
ただ、圭吾の瞳の奥をじっと射抜くように見つめ返した。
その視線には、怒りも動揺もなかった。
まるで、最初からすべてを知っているかのような、深淵の静けさ。
圭吾は小さく舌打ちし、再び少女に向き直った。
「お嬢さん、私の話だけを聞くんだ、いいね? あの少年に関わる必要はない。私を信じてくれ。私の手を取るだけでいいんだ。そうすれば、私と君は助かる。この少年など、最初からいなかったかのように、消えてなくなるだけのことだ」
少女は涙を拭い、コクンと頷いた。
「は、はい……信じます……神代さん……っ」
完璧な流れだった。
圭吾の言葉に救われ、心を寄せたか弱い少女。
これで、少女から圭吾への光が最初の棘に向かって伸びれば、ゲームは終わるはずだった。
だが。
少女から延びるはずの光のらせんは、暗いままだった。
ガラスの棘は冷たく眠りについている。
どれほど涙を流そうと、どれほど怯えた表情を作ろうと――。
テーブルに内蔵された感情値センサーには、演技は意味をなさない。
センサーから照射される不可視の走査波は、大脳辺縁系から報酬系へと連なるシナプス回路をリアルタイムで透視する。
誰かを愛おしいと感じた瞬間、ニューロンのわずかな隙間へと放出されるオキシトシン、ドーパミン、そしてフェニルエチルアミン。
それら神経伝達物質の分泌量と受容体への結合率をナノ秒単位で捕捉し、独自のアルゴリズムによって『愛情値』へと冷徹に換算していく。
どれほど完璧な笑顔を貼り付けていようと、シナプス間隙にオキシトシンの奔流がなければ数値はピクリとも動かない。
この進みすぎた社会において"愛"とはもはや魂の神秘などではなく、数十種類の分子が織りなすただの化学反応として、残酷なまでに暴き出されていた。
圭吾の口元から、完璧な営業用の笑みがスッと消え失せた。
「……なるほどな」
圭吾は低く息を吐き、背もたれに深く身体を預けた。
彼の瞳から、先ほどまでの甘さは完全に抜け落ちていた。
「茶番はやめようか、お嬢さん――」
少女はきょとんとした顔で首を傾げた。
「え……? 神代、さん……?」
「その怯えた顔、震える指先、涙を滲ませた瞳。名演だが、誤魔化せない」
圭吾は冷ややかな声で告げた。
「私はさっき言ったはずだ。このゲームの配信を、観客として見ていたことがある、とな。……私はな、半年前の第十二回試行の配信でも、君のその顔を見たんだよ」
少女の眉が、わずかにピクリと動いた。
「男二人に、女は君一人。この構図が宜しく無い。これは愛情を奪い合うゲームだ。必然、男と男は君を取り合うように、君に縋る。自分を愛してくれと。時間が迫れば、男たちが殺し合うようになる。その横で、君は全く同じように震え、全く同じタイミングで涙を流していた。……君は参加者じゃない。神経伝達物質をナノマシンによって遮断され、感情をロックされている。プレイヤーを撹乱するために配置された、主催者側の『罠』だ」
白い部屋に、冷たい沈黙が落ちた。
少女の顔から、怯えの表情が完全に抜け落ちていった。
まるで電源を切られたアンドロイドのように、涙を浮かべていた瞳から一切のハイライトが消え、平坦な虚無が戻る。
彼女は背筋を伸ばし、無機質な視線で圭吾を見つめ返した。
見抜かれたところで、罠は罠のままだった。主催者にとって、演技は飾りにすぎない。数値が動かない――それだけで、この席は役目を果たす。
圭吾はさらに、吐き捨てるように付け足した。
「……それに。私の――。いや、オレのよく知る君、祈から、律への愛情がゼロなんてありえない」
感情をロックされた少女――祈の唇が、静かに開いた。
「……全部捨てたはず、でしょ?」
――― ୨୧ ――― ୨୧ ――― ୨୧ ―――
「いいのか? これ、配信されてるんだろ?」
黙っていた少年――律は、圭吾に確かめる。キョロキョロと部屋を見渡してカメラを探しながら。
その口調は、先程までと違い、温かさを含んでいた。表情も、少年らしさを取り戻し、彼本来の人の良さを示している。
「ああ。生き残れなきゃ、過去を隠したところで意味がないからな」
圭吾は自嘲気味に口角を歪め、首元のネクタイを乱暴に緩めた。
「こうして三人が顔を合わせたのは、十二年ぶり、か。お前たち、まるで変わってないのな」
「お前は、まったく変わったな。すっかり成長してる。やっぱ、良いもん食べると育つんだな」
律は、微笑みを浮かべ、圭吾を見つめる。その表情に、圭吾はほっとしながらも、強い違和感を感じていた。
「オレが施設を出た後、お前たちがどうなったかは知らない。ろくな死に方はしないと思っていたが――」
「その通りだ。まさに今、この状況がそれだろう」
「違いないな」
圭吾は冷笑し、思考を巡らせた。
『もっと、恨まれていても、いいはずだが――?』
そっと、テーブル外縁に刻まれた二重らせんの進行度を見つめる。
律から圭吾に向けた愛情値は、数値にして、五割といったところか。
今の、律の態度にも矛盾しない。しかし、圭吾が"したこと"を思えば、それは違和感しか無い。
ましてや――。
「できれば、二人と懐かしい話に花を咲かせたいところではあるんだが、そうも言ってられない。わかっているな? オレたちには時間がないんだ。改めてルールの説明はいらないな? オレは配信を見ていたから良く知っている。そして、オレの見立てじゃ、祈は主催者側。ルールの外側にいる存在だ。そして、律、お前は――」
「ああ。説明はいらない。僕は、ここに自ら潜り込んだんだ。祈に会うために」
圭吾は、律の言葉に訝しがる。圭吾はこのデスゲームを知っている。主催者の正体さえ知っている。
しかし、だからこそ"自ら潜り込んだ"という発言の持つ重みを、計りかねていた。
簡単なことではない、だが、出来ないことでもない。
莫大な資産や権力を使えばーー。
だが。思考を急停止。
繰り返し、認識する。時間がないんだ。
圭吾はテーブルの中央を見下ろした。
白金の円環は、すでに三分の一が削り取られ、光の弧が短くなっていた。
だから、あえて、疑問には目を瞑る。
「よし、話を進めるぞ。助かる道は二つだ。祈が解除不能の罠なら、オレが祈への愛情値を完全に消してゼロにするか。あるいは、オレと律の愛情値を揃えるか、だ」
圭吾から律へは、愛情値はゼロだ。それは当然の結果だった。
「恋愛ホルモン」「抱擁ホルモン」と呼ばれるシナプス内の物質は、恋愛にも友情にも共通する。
しかし一方で、理性を保つセロトニンが極端に低下せず、かつ、「性ホルモン」の有無によって、恋愛と友情は区別される。
十数年ぶりに再会した、かつての親友であったとは言え、圭吾に愛情を抱くほうがおかしい。
――そう。この律という少年の愛情値は異常だった。
罠として配置された祈は、どのような状況にあっても、誰に対しても、愛情値はゼロとなる。
そう、仕組まれているからだ。
だが、律は違うはずだ。まともな"人間"であるならば。
圭吾は、短い間に、覚悟を決めた。自分が生き残るためには、何をすべきなのかを、悟ったからだ。
「オレは、オレと律の愛情値を揃える、ことにする。愛情値を下げるより、上げるほうが容易だと思うからだ。生き残るためなら、昔の友情を思い出して、それを愛情に変換してみせよう」
「断る」
律は即座に吐き捨てた。
「祈を助けろ。僕のことはどうでもいい。お前の祈への愛情値を下げ、ゼロにするほうが遥かに早い」
圭吾は、内心では、その正論に賛同していた。圭吾の、祈への愛情値は、一割といったところ。
だが、この一割が問題なのだ。
それは、これまでのデスゲームを配信で見ていた圭吾は思い知っていた。
愛情値という人のパラメータは複雑で、煩雑で、頑固だ。
人間にはそれを自分の意思で操作する術などない。
忘れようと足掻くほどに脳は相手を強く意識してしまい、決してゼロにはならないその皮肉なメカニズム。
これまで幾人ものプレイヤーを死へと追いやってきたのだ。
「……そもそも、なんだその、微妙な愛情値は?」
律の鋭い問いに、圭吾は苦々しく顔を歪めた。視線を逸らし、忌々しそうに呟いた。
「ここに至って、格好をつけても仕方がない。言ってやるよ。――オレは施設にいた頃、祈のことが好きだった」
宣告の瞬間、カチリと硬質な音が響いた。
圭吾の前から祈へと向かう溝に、青白い光が走り、二本目の棘の手前で止まる。
「……なるほどな。口にして自覚を促したことで、光が伸びたか」
圭吾は自嘲した。律は冷ややかに告げる。
「お前は、何もかも捨てた。僕はそのことを恨んじゃいない。でも、今はあえて、言わせてくれ。成功するために、すべてを捨てられたお前なら、生き残るために、初恋の残滓を捨てることくらい容易なはずだ。……捨てろ、圭吾」
「ひどい物言いだな。かつての親友に、初恋を捨てろと脅されるとは」
おどけた様子で言ったが、律も、祈も、その感情はまったく動かない。ため息一つも出やしない。
圭吾は、先に発生した現象を注意深く考えていた、初恋だと口にしただけで、センサーは敏感に脳内物質を読み取った。
ならば、その逆もまた然り。祈を見据え、氷のように冷淡な言葉を並べ立てた。
「いいだろう。――祈なんて、今となってはどうでもいい存在だ。施設には女が少なかった。見目のいい女はすぐに富裕層に買われていくからな。祈はただの売れ残り。他に選択肢がなかったから、ガキのオレは執着しただけだ。成功した今、オレの周りにはいくらでも洗練された女がいる。……祈への感情なんて、とっくに消え失せている」
淀みなく紡がれる合理的な自己暗示。
だが。
圭吾から祈へと伸びる光は、微塵も後退しなかった。
「……消えないぞ」
「嘘はついていないつもりだ。本気でそう思っている」
「口ではなんとでも言える、ってやつだ。感情センサーがそれを証明してみせた」
「待て。お前はどうなんだ、口ではオレを批難しているようでも、オレへの愛情値はまったく減っていない」
お互いがお互いに、愛情値を示すらせんを見つめるのだが、全く動いていない。
「僕の数値も、祈と同じで動かないものと思ってくれ。お前への友情を否定するつもりもないが、この数値は当てにはならん」
「それはどういうことだ?」
「僕は、もう人であるかも怪しい。お前が施設を去ったあとのことは言いたくないから、言わないが――」
祈の乾いた声が響いた。
「律は、わたしと一緒に売られたの」
二人の視線が祈へと集まる。
祈は感情の宿らない瞳のまま、淡々と過去を語り始めた。
「わたしとセット売りを希望したのは、律だった。自分も一緒に買え、そして……すべての苦痛は自分が引き受けるから、わたしには指一本触れるな、と」
カチリ、と音がして、圭吾から律へ伸びる光が一本目の棘を呑み込んだ。
「おい!」
律が、その数値の変動に文句を言うが、圭吾には、当然のことだった。
「思い出したのさ、お前はそういうやつだったな。それが数値に表れたんだろう。敏感なセンサーだ」
その二人のやり取りなど、まったく意に介さない祈が続ける。
「最初の買主はサディストだった。律が『やめてくれ』と懇願した瞬間に、対象をわたしに切り替えるというルール。でも、律は一度も言わなかった。どれほど殴られても、骨を折られても。……買主が飽きて、わたしたちは別のバイヤーに転売された」
祈の平坦な声が、密室の空気を切り裂いていく。
「次の買主も同じだった」
祈の声には、悲しみも怒りも乗っていない。
ただ古い記録データを読み上げるかのような、冷たく平坦な響きだった。
「……おい、祈。もういい、その話はよせ」
律が低く掠れた声で制止しようとしたが、祈は瞬き一つせず言葉を継いだ。
「律の提示した条件を面白がって、律に『やめてくれ』と言わせるために、律だけを壊し続けた」
圭吾の視線が、律の纏う擦り切れた灰色のジャンパーへと向かう。
その薄い布地の下に、どれほどの凄惨な痕跡が隠されているのか。
「……胸糞が悪いな。持て余した富裕層の道楽ほど、吐き気がするものは無い」
圭吾は吐き捨てるように言ったが、その声からは先ほどまでの余裕が消え失せていた。
律は何も言い返さず、ただ唇を固く噛み締めてテーブルの一点を睨みつけている。
天板の上に置かれた彼の細い拳が、白く骨が浮き出るほど強く握りしめられていた。
「わたしはただ、それを見ているだけ」
祈のガラス玉のような瞳が、虚空を映す。
今はナノマシンによって凍てついているその心も、当時は生身のままだったはずだ。
自分を守るために、目の前で大切な人間が少しずつ挽き潰されていく光景。
それをただ見せつけられる日々がどれほどの地獄だったか、想像するに余りある。
「祈……! そんな昔話、今さら圭吾に聞かせても意味がない」
律の絞り出すような悲痛な声にも、祈は揺らがない。
「……ある日、律は心停止した。買主もわたしも、ようやく死んだと思った」
「心停止、だと……?」
圭吾は思わず息を呑み、斜め向かいに座る律を見た。
『僕は、もう人であるかも怪しい』
――ついさっき律が零した言葉が、鉛のような重みを持って圭吾の脳裏に蘇る。
律は圭吾の視線から逃れるように顔を伏せ、自嘲めいた薄い笑みを浮かべただけで、否定も肯定もしなかった。
「律の身体は生体廃棄場に投棄され、わたしは別の買主に買い取られた」
無機質な白い部屋に、低周波ノイズだけが重苦しく響く。
自分が施設を抜け出し、陽の当たる場所で成功と贅沢を享受していた十二年間。
その同じ時間の中で、かつての仲間が擦り潰されていたという事実。
考えないようにしていた、その事実が、圭吾の喉元を締め上げた。
「そして感情を消す実験体にされて、このゲームの罠として配置された」
「……主催者の財団が、実験動物としてお前を買い取ったのか」
圭吾の低く震える呟きに、祈はわずかに視線を動かし、機械的な動作で小さく頷いた。
「そう。圭吾の言った通り、わたしは罠。ナノマシンによってシナプスの受容体をブロックされている」
祈の黒い瞳が、律を捉えた。
「律が生きていたと知れただけで、わたしはもう十分。……律は、助かって」
「駄目だ!」
律の怒声が轟いた。
「祈だけは絶対に助ける! そのために、這いずり回って生きてきたんだ!」
中央の白金の円環は、すでに半分以上が削り取られていた。
このままでは、祈が処分される。
焦燥に駆られた律は、突如として席を立ち、祈へと跳びかかった。
「律――!?」
圭吾の制止を無視し、律は祈の胸元を乱暴に掴み、その衣服を引き裂いた。
布が裂ける鋭い音。
祈は抵抗しなかった。
恐怖も、羞恥もない。
露わになった彼女の白い肌には、無数の生体実験の縫合痕――。
黒ずんだ拘束のケロイドが、醜悪な幾何学模様を描いて刻まれていた。
「見ろ、圭吾!」
律は喉を引き裂かんばかりに叫んだ。
自らを悪魔に堕とし、親友の初恋を叩き割るために。
「お前の美しい初恋は、もうどこにもない! こいつは壊れた人形だ! 生体部品の残骸だ! こんなものに、なんの愛情もわかないだろう?!」
泥を被り、親友の幻想を破壊しようとする律の絶叫。
だが。
圭吾は目を背けなかった。
彼は祈の傷跡を静かに見つめ、それから、律の目を真っ直ぐに見返した。
「……馬鹿野郎」
圭吾の声は、静かだった。
圭吾は、静かに立ち上がり、仕立ての良いジャケットを脱ぎ始めた。
「彼女がどう壊れていようと、初恋は色褪せないんだよ。……わかるだろ? 男にとって、初恋ってのは上書きができないんだ」
圭吾は、祈へと歩み寄った。
そして、ジャケットを祈に被せる。
「そして律。お前が本気で彼女を『壊れた人形』だと思っているなら――。なぜお前からの光は、揺らいでいないんだ?」
律は息を呑み、テーブルの縁を見下ろした。
深紅の光の奔流。
棘のすべてを灼熱の紅で染め抜いたらせん。
どれほど口先で彼女を罵倒しようと、魂の深淵にある愛の証として微動だにしていなかった。
「お前は昔からそうだ。全部一人で背負い込んで、泥を被って、自分を一番の悪者に仕立て上げる」
圭吾の瞳に、熱い光が宿っていた。
「……お前のそういうところ、昔から本当に大嫌いで。そして、たまらなく好きだったよ」
カチリ、カチリと乾いた電子音が連鎖した。
圭吾から律へ向かう光が、二本目、三本目、四本目の棘を呑み込む音だ。
五本目の手前で鋭く火花を散らして静止した。
律の五本と、圭吾の四本。
二人の通過した棘の差は、わずかに――。
――― ୨୧ ――― ୨୧ ――― ୨୧ ―――
『規定誤差を検知。圭吾、律のペアによる愛情シンクロを認識しました』
部屋のスピーカーから、無慈悲なアナウンスが響き渡った。
『中央の円環が消滅すると同時に、現在のシンクロ状態を維持されていますと、確定とします。御二方の退出と共に、処分シークエンスに移行します』
テーブル中央の白金の円環は、ドーナッツに十字のナイフを入れたような、大ぶりな一切れの形。
律の表情が絶望に染まる中――。
圭吾は、ふっと口角を釣り上げた。
「……よし。狙い通りだ」
圭吾の声には、焦りも狼狽もなかった。
冷徹なエリートの計算が、完璧に結実した瞬間だった。
圭吾の目的は、最初から一貫していた。
自分が生き残ること。
祈が感情をロックされた解除不能の罠であると看破した時点で、圭吾が生き残るための唯一の解は。
『律とシンクロすること』
これ以外になかった。
だからこそ圭吾は、祈が語った過去を聞き、友情を刺激し、四本目の棘まで光を伸ばした。
二人の間を走るらせんが、互いに手を伸ばし合い、その一部だけが絡み合う。
「悪いな、祈。だがオレは死ぬ気はない。……律、これでオレとお前は助かる」
圭吾は冷然と告げた。
だが、その言葉に律の理性が完全に決壊した。
「ふざけるなッ!」
律は咆哮し、天板を叩いた。
「圭吾、僕を憎め、殴れ、何でもいいからゼロに戻せ!」
「できるわけがないだろう」
圭吾は冷ややかに腕を組んだ。
「一度自覚した感情を意図的に消すことは難しい。諦めろ、律。オレたちが助かるんだ」
「祈が死ぬんだぞ! 祈が死んだら、僕が生きてる意味なんてないんだ!」
律は祈の横に縋るように、崩れ落ちた。
彼は祈の冷たい両手を掴み、狂気じみた形相で縋り付いた。
圭吾は、一歩離れた場所で、その様子を見つめている。
「祈……。頼む。圭吾への気持ちを思い出してくれ。圭吾と過ごした日々を。祈も、決して圭吾を恨んではいなかったはずだ。僕たちを捨て、一人だけ自由になった。けれど、誇らしく思っていたはずだ。ほんの少しの、暖かな憧憬を思い描くだけで十分なはずなんだ」
「律。ごめん、わたしにはどうすることもできないの」
「頼むよ、何でも良い、圭吾はお前を助けられる。僕なんかじゃなく、祈が生き残ってくれ……!」
祈の黒い瞳が、静かに律を見つめ返した。
「律。……あなたは死んだはずだった。どうして、どうやって、ここにいるの?」
律と祈はお互いを見つめ合っている。だから、そのことに気づいたのは圭吾だけ。
わずかな明滅。祈の正面、愛情値を示すららせんを模した糸に、火が幽かに灯され、そして吹き消えた。
「君の情報を買ったんだ」
「え……」
「ほう、そりゃあ、こんな社会だ。買えないものは無いだろうが――。高く付くぞ」
圭吾が唸る。
財界に身を置く圭吾ならば、特定個人の情報が、いかに法外な値がつけられるのか、肌で感じていた。
とてもじゃないが、律が用意できるとは思えない。
「どうやって、生き延びたのか、それは僕にもわからない。気がついたとき、雨水に混ざる油を啜り、砕けた肋骨を抱えながら、ただ祈の名前だけを呼んでいたんだ」
律の脳裏に、この部屋に辿り着くまでの地獄が蘇る。
あの生体廃棄場で、ゴミのように積み上げられた死体の山から這い出したあの日。
律の声が震えていた。
「僕にしか売れないものを売った。……それがなにか、なんて、聞かないでくれ。頼むから、聞かないで。僕の身体はおろか、『魂』にすら、もう差し押さえ札が貼られてるんだ」
言いながら、律は無意識にうなじの手術痕へと手をやった。
まだ生々しく赤みを帯びたそこには、闇ブローカーの査定針が穿たれた跡が残っている。
シナプスを飛び交う一過性の化学物質などではない。
松果体の内部で、人生のあらゆる記憶と痛みを記録し続ける微細結晶――『脳砂』。
律が差し出したのは、その結晶の永久所有権だった。
「……正気か、律。脳砂の青田買いなんざ、文字通り人間をやめる契約だぞ」
今この瞬間も、彼の松果体には債権者の管理ナノマシンが張り付き、結晶が育つプロセスを冷徹にモニタリングしている。
いわば頭蓋のど真ん中に、決して剥がせないデジタルな『差押標章』を直接焼き付けられているようなものだ。
「正気? そんなもの、誰が買ってくれるのさ?」
「――契約満了の日が来れば、生きたまま頭を開けられることになる」
圭吾の声が低く震える。
どれほど冷酷な資本家であっても、脳砂の売買だけは"魂の冒涜"として忌み嫌う領域だった。
律は青白い顔で、ひどく穏やかに微笑んだ。
「けど、引き換えに、僕はこうして君の前に立ち、君を見つけた。……祈、僕の魂が誰のものになろうと、僕が君を想うこの気持ちだけは、まだ誰にも売っちゃいない」
文字通り、魂すら天秤にかけた律の思いは、閉じられたはずの祈の心を、少しだけ開く。
再び、幽かに灯るのは、祈の魂の輝きか。けれど、無常にも、すぐに吹き消えてしまう。
「律。……あなたも、わたしも、もう生きているなんて、言えない。幽霊ですらない。世界のノイズ、ね」
「いいんだ」
律は祈の手を、自らの胸へと押し当てた。
そこには、何もない。体温も、鼓動も、失われつつある、人のであったものの残骸。
「僕はここまで来た。祈……、生きてくれ……ッ!」
それは合理的な愛などではない。
自らを燃料にして燃え尽きる、狂気だった。
祈の瞳孔が、激しく震えた。再び、円卓の外縁が、不規則に瞬いた。
その微小な火花は、紛れもなく彼女の心が律の執念に反応した証拠だった。
そして。
そのすべてを、圭吾は見ていた。
「…………」
圭吾の胸の奥底で、何かが激しく音を立てて軋んだ。
祈のために自らの命を切り売りし、ボロボロになりながら縋り付く親友を。
愚かで、不器用で、誰よりも純粋な、その姿を。
じっと見つめていた。
(……ああ、そうか)
圭吾の脳裏に、かつて、飢えに震える自分に食料レーションの半分を無言で差し出してくれた少年の顔が蘇った。
(オレは……こいつが、好きだったんだ)
這い上がり、損得勘定だけで生きてきた圭吾の心に、激しい感情の濁流が押し寄せる。
自分が助かるための完璧な計算が、急速に色褪せていく。
死にたくない。
十二年かけて積み上げたものが、全部ここで消える。ネクタイの結び目に触れた指が、わずかに震えていた。
成功も、金も、人脈も、思考の外に置いていく。それは、あの日の施設を出た時と同じ軽さではなかった。
それでも。レーションの半分を差し出した、あの手の記憶のほうが、重かった。
祈のためではない。
この、あまりにも愛おしく、あまりにも不器用な親友を――律を、どうにかしてやりたい。
圭吾は静かに息を吸い込み、エリートの冷徹な笑みを浮かべ直した。
圭吾は、円卓の縁を見下ろした。
律から自分へ五割。
自分から律へ四割。
愛情値の差は一割以下。システムはこれを規定誤差として、シンクロを認めている。
このままなら、自分は助かる。――しかし、祈が死に。そうなれば、はたして律は助かると言えるのか。
感情センサーは敏感だ。なにか状況が変われば、すぐに自分と律の関係は崩れる。
そして祈の光が律に届くなら、残る席は一つ。その席に座るのは、自分。
愛情値は容易には下げられない。自分でそう言ったのだ。
……ならば、消せないものを、突き抜けさせればいい。
圭吾の低い声が落ちてきた。
「今から、律を殺す」
「……え?」
律が振り返る暇もなく、圭吾の革靴が、屈んでいた律の側頭部を容赦なく蹴り飛ばした。
激痛。
律の身体が床に叩きつけられる。
「圭吾、お前……!?」
「黙ってろ」
圭吾は律に馬乗りになり、その顔面に容赦なく拳を叩き込んだ。
鈍い打撃音が白い部屋に響き渡る。
律の鼻腔と唇から鮮血が噴き出し、無機質な白い床を赤く染め上げていく。
律は抵抗しなかった。
律はすぐに悟った。
さっき自分が「僕を憎め、殴れ」と懇願したとおり、圭吾は愛情値をゼロに戻そうとしているのだ、と。
祈が助かるなら、圭吾の暴力を甘んじて受け入れる。
「やめて……」
祈の喉から、掠れた声が漏れた。
圭吾は殴打をやめ、痩せて軽い律の身体を無造作に吊り上げた。
太い前腕が、律の首を正確に締め上げる、冷酷なネック・ハンギング・ツリー。
「が……っ、あ……!」
律の顔面が急速に鬱血し、赤黒く腫れ上がっていく。
酸素を求めて、無意識に律の指先が宙を掻こうとするが、意思がそれを辞めさせる。
「やめて……やめてッ!」
祈の絶叫が響いた。
眼の前で起こっている現象は、祈にとっては、ただの暴力ではなかった。
かつての再現。
祈と律を買った買主たちが行った、数々の享楽の宴。
いつも、そうだった。
律は「やめてくれ」とは言わない。決して口にしない。
祈はただ、見つめているだけ。
――― ୨୧ ――― ୨୧ ――― ୨୧ ―――
――その刹那、祈の頭蓋の深淵では、かつてないミクロの攻防戦が火蓋を切っていた。
恐怖と、恋愛。
脳科学において、この二つの情動は極めて近いシナプス経路を辿る。
引き金となるのは同じ覚醒物質――ノルアドレナリン。
震源地は、恐怖と情動の司令塔たる扁桃体だった。
目の前で律の首が絞め落とされるという"最悪のトラウマの再現"と"最愛の人が死ぬ"という極限の喪失感。
その二つが同時に襲いかかり、扁桃体の緊急警報を限界領域まで振り切らせたのだ。
前シナプス膜から、無数の神経伝達物質が放たれる。
幅わずか二十ナノメートルの暗黒領域――『シナプス間隙』へと、一斉に射出されていく。
だが、先陣を切るノルアドレナリンの行く手に立ち塞がるものがある。
後シナプス膜を隙間なく覆い尽くす数億の医療用ナノマシン群だった。
銀色の装甲によって感情の受容体ポートは固くロックされている。
表面には接近する物質を無力化する分解酵素『モノアミン酸化酵素』の砲座が幾千万も林立している。
突入したノルアドレナリンの先遣隊は、受容体に辿り着く間もなくMAO砲座によって次々と酸化・分解され、撃ち落とされていく。
生き残った分子すらも前シナプス側の『再取り込みトランスポーター』によって強制回収される。
シナプス間隙の宙域は無残な残骸で埋め尽くされた。
ナノマシンの演算ユニットが、冷酷な鎮圧完了シグナルを出力する。
――だが、ナノマシンはひとつの計算違いをしていた。
恐怖を燃料にして"愛"へと変換する、狂気じみた短絡回路が存在することを。
扁桃体からの異常な恐怖シグナルは、減衰するどころか、脳のさらなる深部――報酬系の中枢『腹側被蓋野』へと引火した。
理性のブレーキを司る前頭前野のセロトニン防衛網が、ここで完全に融解を起こす。
極限の恐怖と、極限の執着。
脳科学において「吊り橋効果」と呼ばれる現象の、さらに数千倍にも及ぶ暴走。
目の前で失われゆく律の姿が、祈の魂の底に眠っていた"激しい恋愛感情"の格納庫を、内側から爆破したのだ。
腹側被蓋野から恋情の閃光たる『フェニルエチルアミン』が――。
そして快楽と執着を司る『ドーパミン』の大奔流が一斉に雪崩れ込んだ。
"恐怖"と"恋愛"が合流した情動の連合軍は、後シナプス膜の最奥部――。
ナノマシンの装甲がわずかに浮き上がった"D2受容体ポート"を目指し、滑り込む。
だが、受容体ポートを覆うナノマシンの壁はあまりに分厚かった。
迎撃分子『アンタゴニスト(拮抗物質)』が怒涛の体当たりを浴びせ、先頭を駆けるPEAの分子構造を粉砕。
さらには、後続のドーパミンをも軌道から無惨に弾き出していく。
どんなに激しい恋心も、冷徹な機械の要塞を前にして悉く阻まれていった。
――律の指先が痙攣し、その瞳から光が消えかけていた。
祈の唇が、声にならない悲鳴を上げる。
「律……ッ! 死なないで、わたしを置いていかないで……ッ!」
その魂の絶叫が、脳の最深部――視床下部・室傍核の最終封印を叩き割った。
視床下部の最奥ゲートが、軋みを上げて開いていく。
そこから放たれたのは、ただの興奮物質ではない。
九つのアミノ酸が強固なジスルフィド結合で結ばれた、愛と絆の最終決戦兵器――巨大ペプチド分子『オキシトシン』。
祈の脳内宇宙が激しく揺れた。一過性のスリルや恋着ではない。
地獄の底で律と共に生き、律に守られ続けた記憶そのものが結晶化した、圧倒的な質量の『愛着ホルモン』。
オキシトシンの奔流が、シナプス間隙へと突入する。
それを守るように、生き残ったノルアドレナリンとフェニルエチルアミン、ドーパミンの全残存分子が周囲を固めた。
恐怖と恋心が、深い愛を届けるための盾となって特攻していく。
ナノマシンの統合制御が、かつてない異常事態に警報を鳴り響かせた。
ナノマシン群が緊急迎撃態勢に入り、受容体ポートの隙間を完全に埋めようと蠢く。
降り注ぐ迎撃レーザーの豪雨。
護衛のドーパミンが身代わりに散り、フェニルエチルアミンがナノマシンの砲座へと特攻して自らの分子を爆発させ、迎撃網に一瞬の空白を作った。
そこに生じた、わずか一オングストロームの隙間。
オキシトシン分子が、そしてそれに続くドーパミンの一分子が、ナノマシンの装甲の継ぎ目を完璧にすり抜けた。
世界の運命が切り替わる。
受容体の構造が劇的に変化し、固く閉ざされていた『イオンチャネル』のゲートが内側から大爆発を起こすように全開となった。
そこへ雪崩れ込むのは、膨大なナトリウムイオンとカルシウムイオンの奔流だ。
脱分極、発生。
後シナプス膜の電位がプラスへと一気に跳ね上がり、活動電位の連鎖爆発が始まった。
内側から噴き上がる生体電流の猛威に、表面を覆っていたナノマシン要塞が耐えきれず悲鳴を上げる。
分厚い装甲が、内側から大爆発を起こして次々と弾け飛んでいく。
祈の脳内で、焼き切れたナノマシンが青い火花を散らして剥がれ落ちていった。
一箇所の突破口から始まった感情の解放は、ドミノ倒しのように全脳のシナプス回路へと燃え広がる。
堰を切ったように、オキシトシンとドーパミンの大洪水が彼女のニューロンを駆け巡った。
まず、変革に反応したのは、円卓の外縁。
目を灼くほどに激しい純白のらせんが噴き上がったのだ。
一本目、二本目、三本目――!
ガラスの棘が、出力の凄まじさに悲鳴を上げ、火花を散らしながら次々と貫かれていく。
「な……っ!?」
律の首を絞め上げていた圭吾が、驚愕に目を見開いた。
祈の瞳から、大粒の涙がボロボロと零れ落ちる。
アンドロイドのような虚無は、もうどこにもなかった。
頬を紅潮させ、心臓の鼓動を爆発させながら、祈は喉が裂けんばかりの声で、愛する少年の名を叫んだ。
「――律!」
二本の光の束は、まるで互いを貪り合うように激しく絡み合い、円卓を焦がすような光芒を放ちながら一本の巨大な光の鎖へと結実した。
『完全シンクロを確認。誤差、ゼロ』
部屋を揺るがすファンファーレのようなアナウンスが響き渡った。
中央の白金の円環が完全に消滅し、無に帰す――その刹那のことだった。
『規定の最大値を達成。即時確定します。御二方の生還を承認』
首を締め上げていた腕から、ふっと力が抜けた。
「ごほっ……! げほっ、ごほっ……!」
床に崩れ落ちた律は、激しく咳き込みながら貪るように空気を吸い込んだ。
涙と血で滲む視界の中に、祈が飛び込んできた。
「律……! 律……!」
祈が律の身体を抱きしめていた。
彼女の頬を、止めどなく大粒の涙が濡らしている。
冷たかった彼女の肌に、生々しい人間の体温が宿っていた。
背中に回された細い腕が、折れそうなほど強く律を求めていた。
「祈……」
「馬鹿……っ、どうして死のうとするの……! わたしを置いて、死なないでよ……!」
感情を取り戻した少女の、剥き出しの慟哭。
律は震える血まみれの手で、彼女の黒髪を抱きとめた。
「……狙い通り、だな」
頭上から、息を整える声が降ってきた。
顔を上げると、圭吾が乱れたスーツの襟元を正しながら立っていた。
彼の袖口には、律の血が付着していた。
「祈の愛情値が、お前の告白でわずかに瞬いた。ナノマシンの遮断が、情動に耐えきれなくなっていた証拠だ。……なら、押し切れば勝つ」
律は呆然と圭吾を見上げた。
テーブルの縁を見る。
祈と律の間には、棘すべてを貫いた完全な二重らせんとなり、眩く輝いている。
さらに。
圭吾から律へ伸びた光は、棘の五本目を遥かに越え、八本の棘を呑み込んで青く燃え上がっていた。
律から圭吾へ届いた光は棘の五本目のまま。差は三本以上に開き、二人の回廊は静かにほどけていた。
「お前……。自分を犠牲にする気だったのか……?」
律の掠れた問いに、圭吾はフッと鼻で笑った。
「勘違いするなよ。オレはただ、好きな人の前で格好をつけたかっただけだ。……男の性ってもんだろ?」
背後の白い壁が、重い空気圧の音を立てて横にスライドした。
外界へと続く通路。冷たく澄んだ外気が流れ込んでくる。
『生還者は速やかに退出してください。残る一名の処分を開始します』
無慈悲なシステムが、タイムリミットを告げる。
「行け」
圭吾が顎で出口をしゃくった。
「オレはここに残らなきゃならない。システムが決めたルールだ」
「圭吾! お前は――」
「さっさと消えろ、律!」
圭吾の鋭い一喝が、律の言葉を遮った。その顔には、迷いも恐怖もなかった。
あるのは、すべてを自らの手で選び取り、美学を貫き通した男の、傲慢なまでのプライドだった。
「ここにいるのは、過去のすべてを捨てて這い上がった、神代圭吾だ。……お前たちの安っぽい感傷に付き合う義理なんかない」
圭吾は背を向け、固定された円卓の椅子へと優雅に腰を下ろした。
「オレはただの、哀れな当て馬さ。……主役の二人がみっともなく立ち止まるな。行け」
扉が、ゆっくりと閉まり始める。
律は祈の肩を抱き、祈に支えられながら、開かれた通路へと踏み出した。
最適化された世界が否定した、狂おしい愛の証明を、その胸に強く抱きしめながら。
――― ୨୧ ――― ୨୧ ――― ୨୧ ―――
二人は答え合わせをしました。
「ねえ、律。このいちごのタルト、すごく美味しいよ。ほら、あーん」
「えっ、ちょっ……祈、待って。周りに他のお客さんもいるって」
「いいから、はい、あーん。口開けて?」
「……ん。……あ、本当だ。美味しい」
「でしょ? ふふ、耳まで真っ赤になってる」
「ちゃんと全部揃ったよ」
「揃ったって……。ああ、デスゲームのクリア特典のこと? 市民権とかの?」
「うん。身元保証も、住居の手配金も、全部手続き完了だって。追跡用だったナノマシンも綺麗さっぱり初期化されて、わたしはもう完全に自由の身なんだってさ。律儀よね」
「デスゲームの主催者が律儀っていうのも変な話だけど……。でも、これで誰にも追われないし縛られないなら、本当によかった」
「ふふ、これでもう正真正銘、律だけの祈」
「そういうこと、恥ずかしげもなく言うよね。感情ブロックの反動なのかな」
「事実だもん。嫌だった?」
「嫌なわけないだろ。……すごく、嬉しいよ」
「じゃあ、次はわたしの番ね。律の頭の、あの契約のほうはどうなの?」
「ああ、ブローカーとの契約? 契約満期まで、まだ十年も先だし、気にしなくていいよ。生きるには、十分だよ」
「なーんだ。じゃあ、今を楽しむには、十分すぎる時間ね」
「うん。十分すぎるよ。それまでずっと祈と一緒にいられるなら、祈のぜんぶを味わえるよ」
「もう、そういう甘いこと急に言わないでよ。……嬉しいけどさ」
「君の言葉に従うなら、事実だからね」
「……そういえばさ、あのデスゲームって、結局なんだったんだろうね?」
「なんだった、っていうのは?」
「世間じゃああいうの、すごく不気味で恐ろしいデスゲームって言って怯えるんでしょ? でも、わたしにはあんまりピンとこなくてさ」
「言われてみれば、そうだね。僕たちからしたら、誰かに買われていた頃のほうが、よっぽど毎日デスゲームだった」
「あはは、ほんとにそう! あっちのほうがルールも何にもなくて、理不尽で、いつ壊されるかわからなかったもんね」
「うん。それに比べたら、あの白い部屋は綺麗だったし、理不尽に殴られることもなかった。あ、圭吾から殴られたけど。負けたって『苦痛を伴わずに処分』なんて、ずいぶん親切な話だよ。痛くない死に方を保証してくれるなんてさ」
「ね。苦痛じゃない死って何? 意味がわかんない。それに、勝てば市民権も自由もくれるんだよ? わたしたちにとっては、すごく良い機会だったよね」
「良い機会、か。普通の人が聞いたら正気を疑われそうだけど」
「でも、本当は何が目的だったのかな。主催者って、もしかしたら救済のつもりだったりして? どん底にいる人たちを集めて、愛の力で新しい人生をあげる、みたいな慈善事業」
「いや、絶対に違うと思うよ。ただの悪趣味な見せ物だよ、たぶん」
「そっか。あんなの見て、何が楽しいんだろ、普通にわたしたちみたいなの買って、自分で楽しめばいいじゃない?」
「うん、絶対にそう。……でも、僕たちにとっては、結果的に奇跡みたいな救済だったね。こうして二人で抜け出せたんだから」
「だよね。主催者の意図はどうあれ、わたしたちは救われちゃった」
「で、これからどうしよっか。このあと」
「そうだな……二人で暮らす部屋を探す? それとも、もう少し街を歩いてみる?」
「部屋探しもいいけど、まずは当たり前のデートがしたいな。寝るのは、どこでも寝られるし」
「まあね、屋根さえあればいいかな」
「だよね。それより、映像資料でしか見たこと無い"当たり前"ってやつをみたいじゃない?」
「水族館とか、映画館とか?」
「あと、ショッピングもしたい! 律の服も選んであげたいし」
「僕の服?」
「うん。彼が言ってたじゃない? 着るものだって、気分次第で選んで良いってやつ?」
「ああ。贅沢だよね」
「でしょでしょ? 律には、わたしの好みの服を着てもらうんだから」
「お手柔らかに」
「ふふ、お楽しみに。……あ、それと、向かいの通りにある話題のパンケーキ屋さんも行きたいな」
「いくらでも付き合うよ。祈の行きたいところ、全部行こう」
「全部? 一生かかっちゃうかもよ?」
「どこで途切れても、いい最後だったね、って言えたら、十分」
「そだね、ちょうどいいよ」
祈は嬉しそうに目を細めると、テーブル越しに律の手に自分の手を重ねた。
指先から伝わるあたたかな温もりに、律もそっと握り返す。
二人は見つめ合い、楽しそうにこれからの未来についておしゃべりを続けた。




