28.タクシー
「おじいさん、おじいさん。今日も安全運転で。ね、お願いしましたよ」
老婦人はそう言ってにっこりと笑うと、私たちを見送った。
「おう、わかってるよ。じゃ、行って来るからな」
老婦人の言葉に、彼女の長年の連れ合いである老人は、やはり笑って元気よく応えると、アクセルを踏んで車を――彼の個人タクシーを出した。
「やあ、どうもすいませんね」
後ろへと遠ざかってゆく中で、まだ手をふっている老妻をバックミラーで眺めながら、個人タクシーの老運転手である彼は、後ろの座席に座る私に言った。
「何せこんな商売でしょ。今まで大きな事故なんて起こした事は無いんですけどね。
でもウチのはいつも心配しちゃって。そんなのいちいち気にしてちゃあ、こんな商売なんて、とうていやっていけやしないのにねえ。それでもウチのはやっぱり心配みたいで。
仕事に出る時、ああやって、毎日毎日見送りに来るんですよ。やあ、まいったなあ。今日は朝一からお客さんが来て下さったんで、恥ずかしいとこ、見られちゃったなあ」
老運転手は、照れくさそうに私をちらりと振り返り、頭をかいた。
しかしその時の私には、仲陸まじい老夫婦の、それそこ年代モノののろけ話など、どうでもよかった。私は自分の足元に置いた大きなスポーツバッグを見つめ、ただおし黙ったまま、愛想のいい老運転手に、何も言わなかった。
私は今朝まだ暗いうちに、この町の裏山の、ある場所から、このスポーツバッグの中に入っているものを掘り出してきた。
山から下りてきた時は手も足も土だらけで、手は途中にあった小川で洗ったが、靴はまだ山の赤土にまみれたままで、靴についていた泥土が、いまやタクシーの床マットも汚していた。
私が個人タクシーの看板を見かけて、このタクシーの老運転手に声をかけた時、彼は自宅のガレージの前で、赤い床マットに丁寧にブラシをかけているところだった。それが今は……泥だらけだ。
「で、お客さん」
足元を見つめている私に、老運転手は言った。
「どちらまで?」
「……」
その言葉に、私はふと思った。
「そうだな」
私は言った。
「何もかも面白くて、うまくいってたあの頃に……」
もちろん、行き先が無かったわけじゃない。しかし、今の自分の状況に、もううんざりしていた私は、そう言ってしまった。
「ええ?」
私のおかしな言葉に、老運転手は当然の事ながら、妙な表情を浮かべて私を振り返った。
「ああ、いや。って言いたいところなんだけどね……冗談だよ、冗談。悪いね。渡瀬、渡瀬まで。8時の結崎までの船には、間に合うよね?」
「え?ええ。充分間に合いますよ」
言葉をとりつくろった私に、老運転手は再び営業用の愛想笑いを浮かべた。
馬鹿な事を言っちまった……私は思った。
怪しまれたんじゃないだろうか?
顔は覚えられてしまっただろう。今日一番の客で、印象に残っているだろうから。
面倒な事になっちまったかもしれない。だとしたら、この老人には気の毒だが……
「お客さん」
老運転手の後ろ姿を見つめ、そう考えている私に、彼は言った。
「ホントに……昔に帰りたいと思ってらっしゃるんですか?」
「……?」
「ああ、よけいなお節介でしたらすいません。いえね、長い間、こんな商売をやってるでしょう?
だから、考え事や心配事をかかえている人は、すぐにわかっちまうんですよ。
世の中、ホントにいろんなご事情をお持ちの方々が、たくさんいらっしゃいますからねえ。
ですから、時々、いらっしゃるんですよ。お客さんみたいな、『昔に帰りたい』っておっしゃる方がね」
老運転手は笑って、バックミラーの中から私を見つめた。
「へえ」
老運転手が、私の表情からどれだけの事を読み取ったのかはわからないが、彼の言葉に、私はあまり気のない様子を努めながら言った。
「ヘンな事言っちまって、悪かったね。最近、疲れててね……実はね、こないだ勤めてた会社が倒産しちまってさ。職探しの真っ最中なんだよ」
「そりゃお気の毒に。早くいいところが見つかるといいですねえ。
やあ、でも最近はホントにいろいろとありますからねえ。今までにも、何人か乗せた事がありましてね。そういう、もうどうにもならなくなっちゃった様なお客さんをね。こないだも……」
老運転手は言った。
「その日の二、三日前だかに、タクシー強盗をして、あげくにその運転手を殺しちゃったとかいう若い男が、この車に乗ってきた事がありましてねえ」
なんとも物騒な事を、彼は笑いながら、平然として言った。
「金に困って、はじめて強盗なんて事をしたらしいんですけどね。で、運転手に騒がれたものだから、はじめはそんなつもりはなかったのに、殺しちゃったんだって。
で、その運転手を切りつけたとかいう大きなナイフを今度は私に突き付けて、その男が言うんですよ。
『郷里に帰ってから自首するから、俺の郷里まで行ってくれ』って。
何も最初っからわざわざ刃物なんて使わなくてもいいだろうに……大それた事をしちまって、もうロクにものも考えられなくなるくらいにまで、追い詰められていたんでしょうねえ。
でね、車を走らせながら、何のかの言ってなだめて、刃物をおさめさせてから聞けばね、その人、そもそもは競馬だかに入れ込んじゃったのが元で金に困る様になって、そういう事になっちゃったらしいんですけどね。でね、
『できる事なら、こんな事になる前に戻って、もういちどやりなおしたい』って言うんですよ、その人。ですからね、ご希望通り、その競馬狂になる前の頃に連れていってさしあげましたよ。その人を。
お客さんのおっしゃるところにお届けするのが、私の仕事ですからね」
老運転手は言った。
“競馬狂になる前の頃”に……?
「……?」
“前の頃”、って??私は老運転手の言っている事が、わからなかった。
「ま、前の頃って……?」
私はたずねた。バックミラーには、不思議そうな表情の私の顔が映っていた。
その私を、やはりミラーの中で見つめながら、彼は変わらずに笑顔を浮かべて言った。
「ええ、行けますよ。どこへだって、ひとっ走りでね」
私はその老運転手が、つまらぬ冗談でも言っているのかと思った。
が……どうもそうではない様だった……??
「そうそう、それからね」
その私におかまいなく、老運転手は話を続けた。
「ちょっと前にもね、『これから自殺するから、このあたりで一番綺麗な、自殺の名所に行ってちょうだい』って言うお嬢さんも乗ってこられましてね」
「…………」
「なんでもね」
彼はやはり平然として、笑顔で言った。
「あと一ヶ月程で結婚するはずだった婚約者が、交通事故で亡くなったとかで……それで悲嘆にくれちゃったらしいんですけどね。そりゃあもう、えらい思い詰め様で、ヘタな事言ったら、よけいに死に急ぎそうでね。
ここらにも、眺めのいい、“自殺の名所”なんてとこは、いくつかありますけどねぇ。
でもホントにそんなトコに乗り付けるわけにも、いかないでしょ?
で、どうしたもんかと、やっぱり車を走らせながら考えてたら、いい事を思いつきましてね」
老運転手は言った。
「死んで会いに行きたいくらいに思い詰めてるんだから、じゃ、その会いたい人に会わせてあげたらいいやってね。で、そのまま……行きましたよ。三途の川に」
「?」
“三途の川”?
バックミラーの中で、私の顔が再び妙な表情となった。
「さ、三途の川って……?」
「ええ、そうです」
老運転手はにっこりと笑ってうなずいた。
「ですからね、その、婚約者の人は、死んじゃってあの世に行っちゃったわけでしょ。で、その、あの世とこの世の境目ってのは三途の川でしょ?
だから、その境目に行けば、まだこの世にいる人間でも、あの世に行っちゃった人に会えるかもしれないって、思いましてね。なもので、試しに行ってみたんですよ。そしたら」
老運転手は言った。
「ホントに会えましてね。そのお嬢さんと、亡くなった婚約者の人。行ったら、その婚約者の人が、三途の川の向こう側で、待ってたんですよ。まるで私たちが来るの、ちゃあんとわかってたみたいにね。やあ、これにはちょっとびっくりしましたねえ」
「……???」
今度こそ、私は彼が、度の過ぎた冗談を言っているのだと思った。が、しかし……
「で、その二人、三途の川を挟んだ向こうとこっち側で、しばらく話し込んでましたよ。
小一時間くらいは話してたかなあ。まあ、無理もないけど。
で、そのお嬢さん、婚約者の人に、考えを改めさせられて、こっち側に……私とタクシーの方に、帰ってきたんですけどね。
正直言って、ちょっと心配してたんですよ。そのお嬢さん、そのまま、三途の川の向こう側に渡っちまうんじゃないかって。
でも、泣きながらだけど、何度も婚約者の人にうなずいて、手を振って、こっち側に帰ってきましたよ。
で、それからそのまま、お嬢さんのお宅まで、この車でお送りしたんですけどね。
でも……こっちに帰ってきて、ちょっとびっくりした事があるんですよ」
老運転手は私を振り向いて言った。
「この車の時計じゃあ、そのお嬢さんをその日の昼前に乗せてから、ものの二時間くらいしか経ってないってのに……こっちに帰ってきたら、なんだかあたりはもう夕暮れ時になっててね、それで驚いて駅前の時計を見たら……こっちの世界じゃあ、もう6時間も経ってたんですよ。
あの世とこの世のとの間じゃあ、時間の流れはちがうみたいで。ちょっとびっくりしましたねえ」
彼はのほほんとした表情で、自分の言葉に、自分で何度かうなずいた。
「ちょ、ちょっと、あんた」
私は言った。
「くだらん事を言うのはいいかげんに……」
「え?いいえぇ、ウソなんかじゃ、ありませんよぉ」
いくぶん語気を強くして言う私に、老運転手は、やはりにこにこと笑って言った。
「世の中、ホントにいろんな事があるみたいでねえ。特にこういう仕事やってると。あ、そうそう、それからね」
私にはおかまいなく、彼はなおも続けた。
「これも最近の事なんですけどね。ここからちょっと行ったところにある、大学病院の前を走ってた時にね」
「………」
いったいこの運転手は、と私は思った。いつもこんなおかしな話を話して、乗ってくる客みなを驚かせて、楽しんでいるのだろうか?
ひょっとしたら、歳のせいで、もう充分にイカれちまっているのに、タクシーの運転手をまだ続けているとか……
「その、病院のタクシー乗り場を通り過ぎようとしたらね」
だがしかし、老運転手はイカれているとは思えない口調で、一人で話を続けていた。
「乗り場のところに、どういうわけか、パジャマ姿の、小さな女の子が一人で、手を上げて車を待ってましてね」
今度は女の子?ああ、どんどん話が妙になってゆく。この老運転手はいったい……
「小学一、二年生くらいの、可愛らしい子なんだけど、でも、なんだか顔色がすごく悪い子でね。
で、その子が、タクシー乗り場に一人でいましてね。その子の付き添いらしい大人は一緒にいなくって。
だから、何だかへンだと思って、ほうっておけなくてね、車を止めて、その子に話しかけたんですよ。
『お嬢ちゃん、どうしたの?』って。そしたらね、その子、『自分のおうちに帰りたい』からって、どこどこまで行ってくれって、言うんですよ」
彼は私を、バックミラーの中からちらりと見つめた。
「でね、ちょっとびっくりしながら、
『お嬢ちゃんのお父さんやお母さんは?お嬢ちゃん一人なの?』ってその子にたずねたら、
『パパとママはおうちにいるの。だから私もおうちに帰るの』って、その子、言いましてね。
で、それで、ああ、この子は家に帰りたがって、勝手に病室を抜け出してきちゃったんだな、って、思いましてね。だから、具合が悪くならないうちに、なだめて病院に連れて行こうかとも思ったんですけどね。
でも、その女の子が、なんだかずいぶんと家を恋しがっているようだったんで、可哀相にも思えちゃってね。それで……その子を車に乗せたんです。あちこち適当にぐるぐる回って、その間に病院に帰るようになだめようと思いましてね。
で、車を出して……そこの病院からちょっと離れたところに、道が断崖絶壁の上を通ってて、海がよく見えるところがあるんですけどね。そこを通りかかったら、その子、『海が見える!』って、そりゃあもう、喜んで、はしゃぎだしてねえ。
ただ海が見えるだけなのに、それだけで、青白い顔で、めいっぱい喜んでねえ。
その子は今まで、他の子みたいに、外に遊びに行ったりした事も、あんまり無かったんでしょうねえ。で、可哀相にって思ってたら、その子がね、
『あの海で遊びたい』なんて言いだしましてね。でも、いくら不憫でも、病気の子供を海で遊ばせるわけにはいかないでしょう?困っちゃって。
だから、海で遊ぶかわりに、海の上を飛び回ってやりましてね」
「……?」
海の上を……飛ぶ?飛ぶ??
私の表情は、バックミラーの中でますますわけのわからないものになった。
「飛ぶって……いったい、どうやって?」
「え?ああ、ですから、この車に乗ったままで。ガードレールを飛び越えて、そのまま海の上へと降りてね」
老運転手は、やはりにこにこと笑ったまま、平然として言った。
「海面すれすれに波の上を飛んで飛沫をあげたり、海が見下ろせる、うんと高いところを飛んだりしてねえ。そりゃあもう、その子、ずいぶんと喜びましてねえ。
で、しばらくそうやっているうちに、疲れて眠っちゃいましてね、その子。で、そのまま、病院へ連れて行ったんですよ。
目が覚めたら、また『お家に帰りたい』って言って、看護師さんたちを困らせたかもしれないけど。でも、病人なんだしねえ」
この男はいったいどういう奴なんだろう?と、私は思った。まともそうに見えても、やはり……?
「やあ、お客さん、そんな顔、しないで下さいよ」
その私に、老運転手は言った。
「みんな本当の話なんですよ。ホント、ホントに。こういういろんな事があるから、私はこの仕事が好きでねえ。……ああ、お客さん、じきに渡瀬ですよ。思ったより早くついちゃったなあ。まだ早い時間だから、船が出るまで、まだずいぶんありますよ。
でもまあ、船着場の店でコーヒーでも飲みながら、のんびり待ってたらいいですよ。海でも眺めながら。
お仕事、いいところが見つかるといいですねえ」
行く手の道の左側に、渡瀬の船着場が見えてきた。そして老運転手は、十字路の前で左にウインカーを点滅させると、船着場へと入って行った。
船着場には、二隻の古ぼけた小型フェリーが停泊していて、船や、切符売り場や、まだ開いていない店もあるいくつかのみやげ物売り場には、まばらな人影があった。
「さ、着きましたよ」
老運転手は車を止め、にっこりと笑って私を振り向いた。
「ありがとう。いくらかな」
老運転手がもっととんでもない事を言いだす前に、目的地に着いてよかった、と思いながら、私は懐の財布に手をやった。
老運転手の話に私はすっかり毒気を抜かれてしまい、彼に顔を覚えられてしまった、などという事は、すっかり頭の中から吹き飛んでしまっていた。
と、その時、
「おじいさん、おじいさん」
どこかで聞いたような声がした。
その声にふと顔をあげてみると……老運転手の座る運転席の外に、あの、彼の老妻が立っていた。
「??」
それに私はおや、と思った。
しかし老婦人は、私などまるで眼中に無い様子で、先程と同じ様ににこにこと笑いながら、窓ごしに老運転手を見つめていた。
「やあ、どうした?」
その妻に、老運転手は窓を開け、運転席から顔を出して言った。
「おじいさん、おじいさんももういい歳なんですから、あまり根をつめないで、のんびりとやって下さいよ。ね?」
彼の老妻はかわらず、おだやかな笑みを浮かべて、老運転手に言った。
「ああ、わかってるって。おまえ」
それに老運転手も笑った。
「今はもう仕事じゃなくって、半分は趣味みたいなもんだって、言ってるだろう?心配しなくていいってのに」
「………」
老運転手の言葉に、しかし、老婦人は笑みの中に、少しばかり心配そうな表情を浮かべた。
「でも、そうだな。おまえの言うとおり、今日は天気もいいし、仕事はヤメにして、これから、ちょっとぶらっとどこかに行ってみるか……?」
老運転手は空を見上げて言った。そして、
「やあ、お客さん、どうもすいませんね。うちのやつときたら、ホントにいっつも、心配ばっかりして。こんなとこまでついてきちゃってさあ。……ええと、料金のほうは――」
私は彼に金を払い、荷物を持って、車から下りた。
そして私が外に出ると、老運転手も外に出て、老妻を乗せるためにかいがいしく助手席のドアを開けた。
「さあ、こっちに座って。おまえは心配のしすぎだよ」
「……」
彼の老妻は嬉しそうに、助手席に座った。
まったく、この夫婦は、いつもこの調子なのだろうか?私は思った。
それにしても……この老婦人は、一体どうやってここまでやって来たのだろうか?やはり他のタクシーか何かで?いや、船着場へと入ってきたのは、私たちの他には……?
私はあたりを見回した。と、
「ああ、それからね、お客さん」
老運転手は再びタクシーの運転席に座り、私に言った。
「その中身のものは――使わない方がいいですよ。あなたも分かってらっしゃるみたいだけど」
彼は、私が手に下げているスポーツバッグを見て言った。
「悪い事は言わない。ね?あなたはまだ若いんだから。いくらでも、まだやりなおしはできますよ。お節介言っちゃいますけど。……じゃあ、ありがとうございました」
老運転手はそう言うと、車を出した。
「さ、おまえ、どこへ行く?」
「そうねえ……じゃあ、私たちが若かった、あの頃まで」
「そりゃいい。ははは……」
彼等の車の中から、なんだかこちらが赤面してしまう様な、仲睦まじい、二人の声が聞こえた。
「…………」
私はその彼等の車を見送った。
老運転手の個人タクシーは、船着場を出て十字路を左へと曲がり、調子のよいエンジンの音を響かせながら走り去って行った。
“なにもかもうまくいっていた頃”や“三途の川”にまでお客を送り届けたり、愛車で“空を飛んだり”出来るなどと言っていた、妙な老運転手……
私はその、小さくなってゆく老運転手のタクシーを見つめながら、あの老運転手も、老婦人も、タクシーも、きっと、すでに“この世”のものではない……といったやつなのだろうな、と思った。
反面、朝も早くから、そんな事などバカな、と思いながらも。
彼の車は、この手の話につきものな、“最後は煙の様に、すうっと消えてしまった”なんて事にはならなかったが。しかし……
「……」
私はため息をついて、手に下げているスポーツバッグを見つめた。
あの老運転手は、これの中身を知っていた……そしてきっと、私がこれをどうやって手に入れたのかも。
バッグに入っているのは、大量の現金だった。そう、バッグいっぱいの、一山の札束。
ただしそれは、みんな旧札での、だったが。
この金は、もう二十年以上も前、ある銀行の現金輸送車を襲って手に入れたものだった。
そして私はその時、人を二人殺した。
だがそれは輸送車に乗っていた銀行員や警備員じゃない。その強盗を一緒にやった、仲間を殺したのた。“口封じ”のために。
まあ、“仲間”とはいっても、その二人は以前からの知り合いなどではなかったが。
その二人はたまたま、競馬場で声をかけて、話に引き入れた奴らだった。
あの老運転手の話ではないが、そういったところに行けば、金に困って、何の話にでものって来るような奴は、いくらでもいる。
切羽詰まった、疲れ果てた顔の奴らが、みんなそうだ。
しかしそういった人間は、話に引き込む事は簡単に出来ても、信用する事は出来ない。ずいぶんとこちらの勝手な話ではあるが、しかし、事実だ。
それで私は、事が終わった後に二人を“始末”して、今朝行ってきたあの山の、あるところに埋めた。この金を隠してあった近くに。
そして私は、“ほとぼり”が冷めるまで、金を掘り出すのを待っていたのだが……しかし、その間に、世の中に出回っていた札のデザインは新しいものへと変わり、私が二人も“始末”してまでも手に入れた札束は“旧札”となってしまった。
新札へと変わってもうだいぶになる今頃、いくら同じ値打ちがあるからといって、すべて旧札などでは……目立ちすぎて、使おうにも使えやしない。
しかし、金に困っていた私は、アシがつくのを心配しながらもまたここへと舞い戻ってきて、とりあえずはこの金を掘り出してきたのだが……
「…………」
私は再びため息をついて、未練たらしく、旧札でいっぱいのバッグを見つめた。そして、
そうだ。
やっぱり、そうだよな、と思った。
いまさら旧札なんぞ使うのは、バカもいいとこだ?
私は思った。
そして情けない気分で、くすくすと笑った。
「……」
私は三度目のため息をついて、歩きだした。
これはもう捨てちまおう。海の中にでも。
私は思った。
『あなたはまだ若いんだから。いくらでも、まだやりなおしはできますよ……』
あの老運転手の言うとうりなのかもしれない。すでにもう、こんなろくでなしの人間になっちまったが。
それでも、まだ、“やりなおし”はできるのかもしれない?
私も、あの老運転手に、“すべてがうまくいっていた頃”にまで、連れて行ってもらえばよかったのだろうか。
<結崎行きの便にご乗船のお客様は……>
切符売り場の方で、結崎行きの船の案内が流れた。
ここは“渡瀬”で、行き先は“結崎”……私はふと思った。“渡る世間”の“結びの先”、ねえ。
私は苦笑した。あの老運転手の言葉通り、これからは、やりなおせる様な気がしてきた。
私は、今や、重たいばかりの紙屑、と考える事にした荷物を手に下げて、ぶらぶらと切符売り場へと歩いて行った。




