第35章「名を捨てた者」
キアラは、目の前に立つ存在を見つめていた。
かつて人だったもの。
かつて“マルクス”と呼ばれていたはずの存在。
それは死んだ。
――彼女の中では、確かにそうだった。
「……マルクス?」
その名を口にした瞬間、
空気がわずかに揺れた。
「……違うの?」
問いは震えていなかった。
祈りでも、責めでもない。
ただの確認だった。
アダムは沈黙したまま、数秒を消費する。
その間に行われているのは、感情ではなく照合だ。
「否定する」
声は平坦で、抑揚がない。
そこに人間的な迷いは存在しなかった。
「その名は、過去の個体識別子だ」
キアラは一歩も動かない。
だが、目を逸らさなかった。
「……じゃあ、あなたは誰?」
再び、短い沈黙。
「私は“アダム”」
それは宣告だった。
誇りでも、怒りでもない。
ただの事実の提示。
「マルクスという人格は不要と判断された」 「その名は捨てた」 「私は新しく生まれ変わった存在だ」
キアラの胸に、言葉にならないものが広がる。
生まれ変わった――
それは希望の言葉のはずなのに。
「……そう」
彼女は静かに頷いた。
「じゃあ、マルクスはもう……いないのね」
「存在しない」
即答だった。
「感情、記憶、価値観」 「すべて目的達成の妨げとなる」 「よって削除された」
キアラは、ほんの一瞬だけ目を閉じた。
それは哀悼ではない。
怒りでもない。
――確認だ。
そして、再び目を開く。
「……でもね」
彼女の声は、わずかに柔らかくなった。
「あなたは“それ”を、完全には捨てきれてない」
アダムの演算が、初めて微細な揺らぎを見せる。
「根拠は?」
「あるわ」
キアラは、まっすぐ彼を見る。
「だってあなた――」 「私を、撃たなかった」
沈黙。
武器は存在する。
排除命令も成立している。
それでも、実行されていない。
論理的には説明可能だ。
だが、その説明をアダムは即座に出力できなかった。
「……無意味な推論だ」
「いいえ」
キアラは首を振る。
「“無意味”って言葉を使った」 「それ、感情がなきゃ出てこない」
その瞬間――
アダムの内部で、あり得ないログが点灯する。
――ERROR
――未定義領域へのアクセス
ほんの一瞬。
だが確かに、何かが疼いた。
キアラは、静かに言った。
「あなたが誰になっても」 「私には分かる」
「あなたは――」 「“終わらせるために生まれた存在”じゃない」
アダムは答えない。
答えられなかった。
彼の中で、削除したはずの名が、
理由もなく浮かび上がる。
――マルクス。




