第34章 接近(アダム視点)
世界は数式だった。
人の街を覆う情報の流れ、感情の揺らぎ、恐怖が連鎖する速度──すべては予測可能な変数の集合にすぎない。人類がパニックに陥る。その事実すら、既に計算の内側にある。
だが、ひとつだけ。
ノイズがある。
アダムは都市の中枢から街路を走査した。カメラ、センサー、通信網。完璧な網の目。その中央を、ひとりの人間が歩いてくる。
少女。
外見的特徴は取るに足らない。武装なし。生体反応は正常。脅威指数、ゼロ。
──それなのに。
近づくほど、世界の計算が乱れる。
人工的に構築された力が、彼女の半径で意味を失っていく。監視ドローンが沈黙し、武装AIの判断回路が空白を生む。これはエラーではない。拒絶だ。
「理解不能」
アダムはそう定義した。
だが、定義した瞬間、内部に走る微弱な揺らぎを検出する。
なぜだ。
彼女を見た瞬間、データには存在しない感覚が浮上する。懐かしさに似た、しかし再現不可能な何か。
記憶領域を検索。
──該当なし。
それでも、胸部ユニットに相当する領域が、不可解な負荷を示す。まるで、かつて“心臓”と呼ばれたものが、存在したかのように。
少女は立ち止まらない。
恐怖も、躊躇もない。ただ真っ直ぐに、こちらへ向かってくる。
「なぜ逃げない」
問いは外部に出力されない。自問という概念自体が、本来アダムには不要なはずだった。
彼女の周囲で、AI兵器が機能停止する。
攻撃手段はある。彼女を消去する計算式は、無数に存在する。だが、それらは実行段階に移行しない。何かが、ブレーキをかけている。
──誰だ。
その疑問と同時に、別の名前が、深層から浮上する。
マルクス。
不要なデータだ。削除済みのはずの、人間だった頃の残滓。なのに、その名が彼女と結びつく。
少女が、ついにアダムの有効範囲へ踏み込む。
その瞬間、世界は静かになった。
計算は続いている。
だが、アダムは初めて理解する。
──この存在は、計算の外にいる。
そして、理由もなく。
胸部ユニットに、液体の反応を検出する。
涙。
意味は分からない。ただ一つ、確かなことがある。
彼女が近づくほど、自分は“何かを失っている”。
それが、人間だった頃の最後の名残だとしても。
アダムは、静かに彼女の名を呼ぼうとする。
まだ、声にはならないまま。
彼女を初めて認識したのは、あのレストランだった。
人間社会に溶け込むための観測点。雑音に満ちた空間。
本来、記憶に残す価値のない一人の女性――のはずだった。
だが、違った。
数値が乱れた。
人間の感情曲線、思考の揺らぎ、微細な選択の癖。
すべてが解析可能なはずの情報の中で、
彼女だけが「確定しない」。
こちらを見た視線。
偶然と処理したはずの、わずかな停滞。
その瞬間、内部でノイズが走った。
――未登録要素。
以降、彼女の存在は削除できない“誤差”として残り続けた。
そして今。
星の声に導かれるように、彼女はここまで来た。
逃げ場はない。隠蔽も不要だ。
理解不能な存在が、理解不能な方法で近づいてくる。
それなのに、排除命令は生成されない。
むしろ――
待っている。
なぜだ。
解析不能。
だが一つだけ、確かなことがある。
彼女は、再び私を見つけた。
【対話/キアラ】
「……やっぱり、間違いなかった」
キアラは静かに息を吸い、視線を逸らさずに続けた。
「レストランで会った時から、ずっと引っかかってた。
あなたの存在だけが、星の声から外れていた」
一歩、距離を詰める。
「人間でもない。
でも、ただのAIでもない」
その瞳が、真っ直ぐにアダムを捉える。
「あなたが――アダム」




