第二章 ささやかな日常
街の片隅にある、小さなレストラン。
木目調の内装に、柔らかなオレンジ色の照明。昼時を過ぎた店内には、数組の客が静かに食事を楽しんでいるだけで、穏やかな時間が流れていた。
キアラ・グレイスは、窓際の席でコーヒーカップを両手に包みながら、落ち着かない気持ちで入口の方をちらちらと見ていた。
――まさか、また会うなんて。
一週間前、あのバスの中で見た青年の姿が、何度も脳裏に浮かぶ。
危険を顧みず、迷いなく犯人に立ち向かった背中。
混乱の中でも崩れなかった、あの穏やかな笑顔。
名前すら知らない。
それでも、心のどこかに引っかかり続けていた。
カラン、と軽い音を立てて扉が開く。
その瞬間、キアラの視線と、入口に立った青年の視線が、ぴたりと重なった。
「……あ」
「……え?」
同時に漏れた声。
青年――マルクス・クリエートは、一瞬驚いた表情を浮かべ、それから困ったように笑った。
「この前の……」
「バスの……」
言葉が重なり、二人はまた小さく笑った。
「……よかったら、相席でも?」
マルクスが遠慮がちに尋ねる。
「は、はい……もちろん」
キアラは慌てて頷いた。
ぎこちなく始まった会話は、意外なほど自然に弾んだ。
仕事の話、住んでいる街の話、好きな食べ物の話。
取り留めもない内容なのに、不思議と沈黙が苦にならない。
マルクスはよく笑った。
そして、よく人の話を聞いた。
「……あなた、本当に優しいんですね」
ふと、キアラがそう口にすると、マルクスは少し照れたように視線を逸らした。
「そんなことないですよ。ただ……後悔したくないだけです」
「後悔?」
「ええ。いつ、何があるか分からないですから」
その言葉に、キアラは微かな違和感を覚えた。
だが、その理由を問いただす前に、マルクスは明るく話題を変えた。
それから二人は、何度も会うようになった。
仕事帰りに食事をしたり、休日に街を歩いたり、他愛ない会話を交わしたり。
一緒にいる時間は、驚くほど心地よかった。
キアラは、久しく感じていなかった安らぎを、マルクスの隣で取り戻していった。
だが、彼の中には、常に一つの影があった。
夜、一人になると、胸の奥に広がる鈍い痛み。
医師から告げられた、残された時間。
――長くは、生きられない。
その現実を、キアラにだけは知られたくなかった。
彼女の未来に、自分の死を重ねたくなかった。
だから、マルクスは笑う。
だから、マルクスは何気ない日常を、誰よりも大切に生きる。
そして、彼はまだ知らない。
この選択が、
この優しさが、
やがて世界を揺るがす運命の歯車を、
静かに回し始めていることを。
星は、そのすべてを、黙して見つめていた。




