第一章 運命の邂逅
星は、いつもそこに在った。
生まれた時から、変わらず夜空に浮かび、 何も語らず、何も訴えず、 ただ、静かに世界を照らしていた。
少なくとも―― 彼女は、そう信じていた。
あの夜までは。
夜の都市を走る長距離バスは、静かな振動と規則正しいエンジン音を刻みながら、緩やかなカーブを描いていた。窓の外には、冬の冷たい風に揺れる街灯が連なり、遠くの高層ビル群が宝石のように瞬いている。
乗客の多くは疲れ切った表情で座席に身を沈め、ある者は眠りに落ち、ある者はスマートフォンの画面をぼんやりと眺めていた。
その一角、通路側の席に座る青年――マルクス・クリエートは、静かに目を閉じていた。
整った短髪、日焼けした健康的な肌、そして穏やかな微笑を浮かべた横顔。年齢は二十代後半。だがその表情には、同年代の若者にはない覚悟と、どこか達観した影が滲んでいた。
彼は、生まれてこの方、家族という存在を知らない。
医療施設併設の養護施設で育ち、名前も顔も知らぬまま、この世界に放り出された。だが、その過酷な環境が彼の心を歪ませることはなかった。
むしろ彼は、人一倍、他人の痛みに敏感だった。
「……誰かの役に立てるなら、それでいい」
それが、彼の口癖だった。
突如、車内の空気が張り詰める。
後方から荒い足音と、金属音が響いた。
「動くな! 全員、座ったまま手を上げろ!」
男の怒号が、密閉された車内に叩きつけられる。
一瞬で理解した。
――バスジャック。
乗客たちの悲鳴、子供の泣き声、誰かの押し殺した嗚咽。
通路に立つ男は、片手にナイフ、もう片方には簡易爆弾らしき装置を握っていた。血走った目で周囲を睨みつけ、理性を失った獣のような息遣いをしている。
運転手は硬直し、ハンドルを握る指が白くなっていた。
マルクスは、ゆっくりと目を開いた。
心臓の鼓動が、異様なほど静かだった。
(……落ち着け。距離、三メートル。右腕、ナイフ。左手、起爆装置。照明、弱。死角、あり)
瞬時に状況を把握し、最善の行動を組み立てる。
恐怖はない。
あるのは、ただ一つ――誰も死なせない、という意志。
次の瞬間。
男が前方の乗客に視線を向けた刹那、マルクスは通路へと身を投げ出した。
一歩、二歩。
そして、跳躍。
肘打ちが男の顎を正確に捉え、同時に起爆装置を握る手首を捻り上げる。ナイフが宙を舞い、床に乾いた音を立てて転がった。
一瞬の沈黙。
次の瞬間、男は床に押さえつけられていた。
「大丈夫です。もう終わりました」
マルクスの声は、驚くほど穏やかだった。
数分後、バスは緊急停車し、警察と救急が駆けつける。
混乱の中、乗客たちは次々と降車していった。
その中で、一人の女性が、マルクスの前に立ち止まった。
長い黒髪、透き通るような瞳、凛とした佇まい。
キアラ・グレイス。
彼女は、真っ直ぐにマルクスを見つめ、深く頭を下げた。
「……ありがとうございました。あなたがいなければ、きっと誰かが……」
言葉の途中で声が震える。
マルクスは、困ったように微笑んだ。
「いえ。誰でも、あの場にいたら同じことをしたと思います」
「いいえ……」
キアラは首を振り、涙をこらえながら言った。
「あなたは、ヒーローです」
その一言が、マルクスの胸を、静かに打った。
――ヒーロー。
そんな言葉、自分には似合わない。
それでも、彼女の瞳に宿る感謝と安堵の光は、確かに彼の心に温かな何かを残した。
それから一週間後。
街の片隅にある小さなレストランで、二人は偶然、再会する。
「……あ」
同時に漏れた声。
そして、互いに気まずそうに笑った。
この再会が、
やがて世界の運命を変えることになるなど、
二人は、まだ知る由もなかった。
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星は、静かに二人を見つめていた。
やがて訪れる、
文明戦争の夜明けを、
ただ、黙して。




