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鈴蘭が泣いている。

「また、会いましたね」


 私の目の前には大きな大きな桜の大木が、薄い桃色の花弁を多く落とし、ひらひらと踊らせる。散って征く一枚一枚は過ぎく恋人の事を彷彿とさせた。

 その下にある手前の地面部分には鈴蘭が今日も下を向いている。泣いているようだ。桜も鈴蘭もうつむいて咲く花であり、私には泣いていると感じている。否、泣いているのは私。

 お墓の前で風の時代の到来を感じながら、少し成長した私を見せれないのは哀しい。せめて、空を見上げながら泣こう。今日は晴れ、白い雲がまばらにあるけど、日差しを遮るには少なすぎた。春一番の突風が桜の寿命を削る。鈴蘭も激しく揺らめく。私の長い後ろ髪もなびく。近い距離に風車付きの塔が幾つも建築されており、今日は一層回転していた。羊と山羊やぎ、牧羊犬が駆け回る。遊んでいるのか、そうでないのかは人間である私には見分けが付かない。時折雲が作る影が過ぎる。

 私の位置から見て桜の木の皿に奥は水平線が広がっていて、水面みなもがまばらに光りを散らす。

 どうして亡くなった彼はあんなに、お酒を飲んで呑まれてしまったのか。トドメを刺したのは食道に悪質のがんが出来た事で、つまり酒焼けしてしまった。君がエルマになってしまったのだ。

 それからと言うもの、私は我慢出来る物は全て我慢した。健康的な体型と体調に恵まれ、様々な賞を獲得し、人と社交的にもなった。君を踏み台にしたのが、哀しい。こんな事なら何も出来なくて良いから、何気ない日々を何気なく過ごしたかった。無い物ねだりなのはよく分かっている。でも、失った物の方が確実に大きい。心の穴という、失った物。

 形見としていつも私は君のコートを袖を通さないで肩に掛けるように、着ている。ただ格好付けているとも言われれば否定はしないけど、腕を通す事で君の感触が伝わってゆくのが、楽しかった日々を思い出して辛かった。もう一つ持っている形見が、財布だ。ボロボロの茶色の財布なのでお金を入れると落としてしまうから使う事は無い。入れてるとしたら蛇の抜け殻ぐらい。噂通りにはいかず、私は少々貧乏な暮らしをたしなんでいるけどね。

 ツバのあるワッペン付きの帽子を少しずらして、肩から紐で下げているバッグの位置を整え、ジーパンを持ってお気に入りの感触に、鈴蘭の描かれたハンカチで目元を拭きながら、そろそろお家に戻ろう。帰ったら、愛犬が待っている。


「さよなら。また、桜咲く時に会いましょうね」


 私の名前は、実は無い。物心ついた頃から孤児院にいて、引き取られずに大人になり、しばらく生死を何度か彷徨った挙句、恋人だった人に出会った。とても優しく、時に厳しく、でも最後は笑い合えるような仲だった。

 そんな事を長々と歩きながら考えていると、ある男女の子供が走りながら通り過ぎる。恋人との楽しかった思い出がフラッシュバックしたけど、ここはグッとこらえた。

 気づけば夕暮れが空を焼く。アスファルトも、街灯も、通りかかる人々も動物も、あらゆる建物も夕陽色だ。私も。

 噴水の前を、種類の分からない花々はなばなも、全部景色だ。段々私の人間に対する関心は薄くなっていて、ここ数日でいよいよ誰がいるか、誰が誰かを確認しなくなっていた。まるで顔の無い生物の中にいるよう。このままぜろになってしまったら、私はどうなるのだろう。自分一人の世界になっちゃうのかな。不安が脳裏にぎる。

 私の家は街の横長マンションの一室を借りており、2004:3号室で住んでいる。鍵を開けて入り、いつも通り何気なく私と恋人だった人、愛犬が写った写真に目を向ける。顔が無い。いや、見えないのだろうか。これも噂で聞いた事がある。相貌失認そうぼうしつにんという病気の症状と非常に似通っている。そういえば、通りかかった子供、本当に子供だったのかな。いやいやそれは良い。恋人の顔が、この写真の髪の長い女性、髪の短い体格の良い人、犬。あれ? 分からない。じゃあ、私の両親の写真は、どれだろう。ほぼ全て同じに見える。顔が無い。

 犬が吠えている。恐らく愛犬。愛犬だとしたら、何で私に威嚇してるんだろう。別人になっちゃった気分。固定の電話機で両親の家に通話を掛ける。軽く雑談した上で、誰が誰だか分からない相談をした。最初は新手の詐欺を疑われてしまったけど、次第に本気だと分かってくれた。すぐにでも来てくれるみたいで。通話ぶつ切りで終わった。実家との距離はそれほど離れていなく、見繕った精神科医と共に入ってくる。私視点では、厳密には両親の服装をした男女と、白衣をまとった誰か。必死に話しかけられて、おぼろげな記憶で両親だとかろうじて判断してるものの、半信半疑。

 全員で椅子に座って精神科医と長く話し合う。恋人は亡くなって、いない。そうか、私が恋人を認識出来なくなっていて、それで命を落とした妄想を信じ込んでいたんだ。最初に顔が分からなくなった相手が恋人なだけだった。ショックな事実の筈なのに、それほど心にダメージが無い。不思議だ。受け入れている。

 治療の為、病院への入院を勧められたが、ひとまずお断りを入れた。両親らしき二人はとても反対していたけど、私はこれでもいいかなと何故か思っている。

 皆さん帰った後で、顔のない見知らぬ服の男性が入ってきた。名前を尋ねる。恋人の名前ととてもよく似ている。ちょっと懐かしい気持ちになった。でも、こんな感じだったっけ。

 後に一緒に寝ようと提案されたけど、よく分からない男性と一緒に寝るのは怖いのでそれも断った。渋々した口調で男性は、帰った。



 あれからというもの、誰も話しかけてこないし、仕事も失った。ただ、両親と思う二人が食べ物を恵んでくれるだけ。ただ、小説を書いているだけの生活。

 ある日、悟った。これが実質の桜の木の下、何だって。泣いた。

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― 新着の感想 ―
文章が非常に詩的で、まるで心の中を感情で殴られているような感覚になる素敵な作品だったと思います。 相手の顔が分からなくなる相貌失認という症状が出てきて、知識を作品に結び付けるのが本当に上手だなと思いま…
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