90.魅導因子
アルゼンはその日もいつもの様に、タルネアン太聖大学の武技科が入っている教室棟へと足を運んだ。
朝から第二講堂の演武場内で汗を流し、軽くシャワーを浴びてから座学の講義へと向かう。
しかしこの日はどういう訳か、教室棟全体が妙に浮わついており、そこかしこで奇妙な笑みや囁きが絶えないのがどうにも引っかかった。
そこで何人かの同級生に話を聞いてみたのだが、どうやらロサンテス皇国から臨時編入生として送り込まれてきた蒼雲の聖女が、見学と称してこの武技科を訪れる予定になっているらしい。
(聖女……)
この時、ほんの一瞬だけアルゼンの胸の内に僅かな疼きが走った。
暁の聖女メディスによって引き起こされた冤罪事件。そして彼女の悪逆な策略によって失った、自らの右脚と近衛騎士の誇り。
ソウルケイジが現れなければ、アルゼンは今も尚、罪人としてシンフェニアポリスの下町辺りでひっそりと息を殺して鬱屈した日々を過ごしていたに違いない。
勿論、他の聖女もメディスと同じく悪辣な性格だという訳ではないのだろうが、どうしてもあの時の暗い記憶が蘇ってしまう。
(俺も案外、根に持つタイプだったんだな……)
情けないとは思いながらも、矢張りどうしても吹っ切れない自分が居る。
だが流石に今回は、相手が相手だ。下手に顔に出してしまう訳にはいかない。ここは己の感情を徹底的に押し殺してでも、鉄仮面で通さなければならないだろう。
そんなことを悶々と考えていたアルゼンだったが、その日の午後、武技科の筆頭教官であるルボルティーラ聖導伯爵から呼び出され、思わぬ指示を受けた。
「私が、聖女様の御案内役を?」
「うむ……正確には君と、クロルド殿下がご指名に与った様だ」
ルボルティーラ聖導伯爵は何とも不思議そうな面持ちで、小さく肩を竦めた。
蒼雲の聖女は聖癒士養成科に編入されるのではなかったのか。それなのに何故、武技科のアルゼンや政務論科のクロルドが案内役として指名されたのだろう。
何となく嫌な予感がしたが、しかし相手はロサンテス皇国が送り込んできた聖女だ。一介の王国近衛騎士に過ぎないアルゼンが、正当な理由も無く断る訳にもいかない。
「それで、クロルド殿下はお受けになられたのでしょうか?」
「御快諾なされたと聞いている。それ以上のことは、私にも分からない」
ここでアルゼンは押し黙った。
主家の子息たるクロルドが引き受けたならば尚一層、アルゼンも断れない。ここは腹を括ると同時に、クロルドの考えも聞いておく必要があるだろう。
「……承知致しました。謹んでお受け致します」
「そうか。それは助かる。何せ相手は聖女殿だ。如何に聖教国といえども、無下に扱う訳にはいかないからなぁ……」
この時、ルボルティーラ聖導伯爵の面には若干渋い色が浮かんでいるのが見て取れた。
新歓パーティーでの、ジェスナー第二皇子の失態をロサンテス皇国側は平謝りで謝罪してきたが、かといってカレアナ聖教国側としても友好国であるロサンテスを必要以上に責める訳にもいかず、更には聖女という最強に近いカードを切ってきた相手を無駄に刺激する訳にもいかない。
本音をいえば余り関わりたくなかったのだろうが、聖女という立場を認めている聖教国としてはロサンテスからの申し入れを受け入れざるを得なかったのだろう。
「まぁ兎に角、宜しく頼むよ」
いいながらルボルティーラ聖導伯爵は予定表と記された文書を手渡してきた。
そこには、中々ハードなスケジュールがずらりと並んでいた。
◆ ◇ ◆
ヒルミナは武技科教室棟一階へと足を運び、応接室の扉を勢い良く開け放った。
侍女が慌てていたが、知ったことではない。
「こんにちは! ヒルミナです!」
元気一杯に笑顔を振り撒くヒルミナ。
しかしどういう訳か、室内には困惑の空気が流れている。彼らは一体、何に驚き、困っているのだろう。
「どなたかと思えば、聖女殿でしたか……まさかノックも無しに入って来られるとは……」
少し年上の端正な顔立ちの男性が、驚き慌てた様子でソファーから立ち上がった。
その他にも数名、綺麗な身なりの青年達が一斉に腰を上げる。いずれも、最初に立ち上がった男性の部下か後輩連中であろうと思われる。
「あー、御免なさい。驚かせちゃったぁ?」
あっけらかんと笑うヒルミナ。
同室の、幾分年を取った大学職員や教授と思しき連中はあからさまに眉を顰めるなどしていたが、ヒルミナの視界には彼らの苛立ちなど一切入って来ない。
この世でヒルミナが目にするべきものは、彼女が気に入ったものだけだ。それ以外は正直いって、どうでも良い。
「えっと、もしかして貴方が、クロルド殿下?」
ヒルミナは尚も歩を寄せて行って、最初にソファーから立ち上がった青年との距離を詰めてゆく。
するとその横から、エヴェレウス王国近衛騎士の正装を纏った若い騎士が間に割り込んできた。
「恐れながら聖女殿、こちらにおわすはエヴェレウス王国クロルド王子殿下にあらせられます。その様な礼を失する態度は余りに不敬かと存じ上げます」
「えー? あんた誰よ? 何か、ちょっとムカつくんだけど」
ヒルミナは頬を膨らませて、その騎士然とした青年に抗議の視線をぶつけた。
その青年はアルゼン・バルトスと名乗った。どうやらクロルドに付き従う近衛騎士らしい。
そういえば、確かヒルミナの専属執事が案内役として指名した武技科の青年が、そんな名前だった様な気がする。
この男が、その武技科の生徒だろうか。
(なぁんか偉そうでムカつくんだよね……サクっと処しちゃって貰おっかな)
そんなことを考えながら、ヒルミナはクロルドに改めて笑顔を向けた。
「あはっ、そんなに驚かないでよ殿下。あたしはあたし、ヒルミナだよ。宜しくね!」
「こ、こちらこそ……」
だがこの時、クロルドの瞳の奥には妙に沈んだ色が見え始めている。ヒルミナは内心でほくそ笑んだ。
(うふっ……効き始めたかな?)
蒼雲の聖女ヒルミナには、偉大なる治癒術としての聖法だけではなく、もうひとつ、強力な武器がある。
自身の霊素で相手の感情を操る能力――魅導因子と呼ばれる力だった。




