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76.脅迫

 扉を開け放った時、リテリアはその場で硬直してしまった。


(……あれ?)


 そこは間違い無く、聖癒士養成学科の学部教室だ。教壇には中年男性の教授が立ち、ひな壇の様な階段状の生徒席には、大勢の新入生らがそれぞれの机でペンを手に取り、板書の内容を手元のノートや巻物などに書き写している。

 が、この光景はどう見ても、講義の真っ最中だ。今から点呼を取って教授が話し始めるという様な雰囲気ではない。

 もしかして――いや、しかしこれはどう見ても、間違い無い。

 自分は、遅刻してしまったのだ。それも講義初日から。

 一体何故、こんなことになってしまったのか。

 昨晩聞いた話では、リテリアが足を運んできたこの時間から講義開始だった筈だ。

 そんなことを漠然と考えながらひな壇席を見渡すと、とある一角に見覚えのある顔があった。昨日の夜、態々リテリアの個室を訪ねてきて、初日の講義開始時刻が変更になったと知らせてくれた娘だった。

 ところがその娘は、にやにやしながらこちらを眺めてくるばかり。しかもそのすぐ近くには、ミラベルの姿があった。彼女もあからさまな程の嘲笑を浮かべ、リテリアを見下ろしている。

 他の学生らの間でも、くすくすと馬鹿にした様な笑い声がそこかしこで響いていた。

 嗚呼、そういうことか。

 リテリアは大体、何が起こったのかを理解した。


(この間の意趣返しってやつね……)


 余りに幼稚で、余りに馬鹿馬鹿しい。しかしこれが、貴族令嬢のやり方なのだろう。そしてこれが、彼女達からの洗礼という訳だ。

 恐らくここで何をどう弁明したところで昨晩リテリアを訪れたあの娘はただシラを切るだけだろうし、何も知らない教授は問答無用で叱責を与えてくるだけだろう。

 ここはもう、諦めるしかないだろうか。

 リテリアは奥歯をぐっと噛み締めて、教授からの言葉を待った。


「君ィ、今何時だと思っているのかね? もうとっくに講義の時間は始まっているよ?」


 その教授は、確かオルドフという名の聖導子爵だった筈だ。その態度や仕草から、恐らく権威を嵩に着るタイプなのだろう。


「全く、今どきの見習いは……私の講義など途中からで十分だなどと高を括っているのかね? 何とも嘆かわしい」


 リテリアに弁明の機会すら与えず、一方的にねちねちと責め立ててくるオルドフ聖導子爵。

 生徒達の間で広がる笑い声は少しずつ、ざわめきの様に広がりつつあった。

 そんな中、ひとりだけ心配そうな眼差しで見つめてくる姿があった。

 カティアである。彼女だけはリテリアの味方で居てくれる様だが、流石にこの空気の中で声をかけるのは相当な勇気が必要となるだろう。

 リテリアとしても、そこまでして自分を庇って貰いたいとは思っていない。寧ろカティアの心に負担となるのなら、逆に黙っておいて貰った方が気が楽であった。


「あらあら、本当に田舎の方って時間に大らかですのね。わたくし共とはきっと育ちが違うのでしょう」


 ミラベルの嫌味ったらしい声に、取り巻き令嬢達がその通りだ何だと次々に同調の声を上げる。

 流石にもう、相手にする気にもならない。


(ま、私も悪いわよね……あんな嘘に、簡単に引っかかっちゃうだなんて……)


 ろくに確認もせず、相手の善意を信じた己が馬鹿だったと、諦めるしかない。

 高い授業料だったと思って、次から気を付けることにしよう――リテリアは腹を括った。


「さて、名を聞こうか。初日から盛大に遅れてきたからには、それなりの罰は覚悟しているんだろうね」


 オルドフ聖導子爵はしかめっ面で手元の名簿を開いているが、その眼差しには妙に嗜虐的な色が見え隠れしている。

 この手の連中は、調子に乗るとあれやこれやと無茶な要求を突きつけてくるケースがあるが、この男は果たしてどうなのか。

 しかしここで幾ら考えても仕方が無いだろう。リテリアは頭を下げて謝罪を述べてから名乗ることにした。


「誠に申し訳ございませんでした。私はリテリア・ローデルクです」


 ところがその瞬間、教壇上で異変が起きた。

 今の今まで侮蔑の色を浮かべていたオルドフ聖導子爵の顔が、いきなり恐怖の色に染まったのである。

 顔色は一気に青ざめ、全身が小刻みに震えている様にも見えた。


「そ、そうか……きききき君が、ローデルク嬢か……あ、い、良いよ。もう、良いから、そのまま、席に座りなさい……」


 リテリアは耳を疑った。一体、何がどうなっているのだろう。

 しかし彼女以上に納得がいっていないのか、ミラベルが猛然と抗議し始めた。


「教授! 一体、どういうことですの? これだけ盛大に遅刻された方に何の罰則も無いなんて、他の方々に示しがつかないのではありませんこと?」

「だ、黙らっしゃい!」


 意外にも、オルドフ聖導子爵は逆にミラベルを怒鳴りつけた。流石にミラベルもこの反応は予想外だったのだろうか、全身を一度大きく震わせてから、その場に凝り固まった。


「わ、私にもね、事情ってもんがあるんだよ……余計なことはいわず、ここは私の裁定に従って頂きたい」


 リテリアは何が何だかよく分からないまま、オルドフ聖導子爵の指示に従って手近の空いている席に腰を落ち着けた。


◆ ◇ ◆


 同時刻。

 万職相互組合ムルペリウス本部のエントランス兼ロビー横の休憩スペースで、ミルネッティはソウルケイジの隣に陣取り、朝食のサンドイッチを頬張っていた。


「そいやぁご主人様。昨日のあのリストのひと達、結局どうしたの?」

「脅迫した」


 想定外のひと言に、ミルネッティは思わず手を止めてしまった。そして慌てて、例のリストを取り出す。

 彼らは一体、どういう理由で、何をどう脅されたのだろう。

 ミルネッティは物凄く気になったが、訊くのはやめた。

 尚、その先頭行にはペドロ・オルドフという名が記されていた。

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