第一節『トリスタン』
冷ややかな風が山脈を伝う、南エルリッヒ地方。
北部とは違い、乾燥した内地であるこの地。
天上は雲一つ無い、"二つの月"と数多の星が輝く素晴らしい景色が広がっていた。
神話の時代に作られた、"ニンナの月"。
マグノリア暦45年に現れた、"幻影の月"。
現実では有り得ぬ、まるで物語の中に居る様な、幻想的な景色を前に、…私はある事に辿り着いた。
「…私は…誰だ?」
私はグラーフ・トリスタン=ルートヴィヒ・フォン=ヅィークシュタイン。
ヅィークシュタイン伯爵家の当主である。
両親は早逝し、姉が一人居るが、その姉に殺されそうになったのだ。
それもその筈。私は幼君で、姉のアーデルハイトは、子供一人殺せば当主になれるのだ。
…それは、前世の価値観では考えられぬ事であった。
私は山野彩。
日本人であった。
俗に言う、異世界転生をしたのだ。
(よりによって性別まで…)
…先程幼君と言ったが、私は15歳、姉は19歳である。
家の生け垣を乗り越え、灯り一つ点いていない街を走り抜け…。
街が見渡せる、小高い丘の頂上までやって来た。
南エルリッヒ人は、山岳の間や、谷間などに集落を作る傾向にある。
そこで私は、何故南エルリッヒの街は谷間にしか存在しないのか、それを理解した。
…寒すぎる。
寒く、乾燥した北風を避ける為に、そういった場所に集落を作るのだ。
「此処におられましたか、お坊ちゃま。」
私は驚いて、声の方を振り向いた。
…しかし、誰も居なかった。
幻聴が聞こえる、疲れているに違いない。
今の声は、日の入り前の事だ。
執事の声に、私は後ろを振り向いた。
「晩御飯の準備が出来ておりますよ、お坊ちゃま。」
西の空がオレンジ色に染まり、一日が終ろうとしている時である。
そこで私は…思い出したのだ。
"グレーフィン"・アーデルハイト・フォン=ヅィークシュタイン
昔読んだ小説の…悪役であった。
「―――…っ…!」
彼女は、ノルドベルノルティング公爵領の領内に存在する、ホーンフルッセ伯爵領の女伯爵であり、彼女の弟、トリスタン=ルートヴィヒ・フォン=ヅィークシュタイン…もとい私は、小説が開始されるマグノリア暦70年よりも前に、不慮の事故で死亡する。
今はマグノリア暦65年、つまり私は、5年以内に暗殺される事になるのだ。
執事の後ろを歩く私。
気付けば、自らの手がまるで、踊り病にでも罹ったのでは無いかと言う程に、震えていた。
※踊り病とは、エルリッヒ地方に蔓延する病であり、手の震えや幻覚などの症状が出る。
おかしくなりそうな、恐怖。
気付けば私は、家の垣根を乗り越え、街を駆け抜け、…この見晴らしの良い頂上に辿り着いていた。
二つの月を見た私は、異世界に来たのだと、つくづく実感させられた。
「…。」
私は護身用の短刀を抜き、洗礼の儀に備え長く伸ばした自身の髪を、ばっさりと切った。
どんだけ不格好でも構わない。
大聖マグノリア帝国ノルドベルノルティング公爵領ホーンフルッセ伯爵領の領主、
トリスタン=ルートヴィヒ・フォン=ヅィークシュタイン伯爵。
伯爵と言う私…いや、"彼"は…もう死んだのだ。
「…私は…誰だ?」
私には好きな物語がある。
この場合の私とは、山野彩としての私である。
その登場人物から名前を取った。
「…Mein…mein Name ist…Tantris.」
しかし、モルオルトを殺すのは後になりそうだ。
毒刃を受ける前に、私は逃げ出したのだから。
感想等頂けると幸いです。