表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
9/10

第九巻

 幾重にも巻いた巻物を掴んだ。千代女は声に出して読み上げる。

「長い。難しい。『誘引(さそは)ずは、口惜(くや)しからまし、桜花、(さね)()ん頃は、雪の降る寺』とは、()の在る御屋形様を示している。そんなことは、分かっている」

 巻物を手繰っていく。

「何々、甫庵の講釈だぞ。まず、漢字は多くの意味を持つ。確かにな。この和歌は、『(さね)』と漢字で書いてある」

 巻物の中で、甫庵の講釈が続く。甫庵によると、読み方は伊勢物語を踏まえているらしい。『真』と同じ意味を持って、人の器量を示す。

「『実』の字が、領国を治める主の器を示すと、快川和尚が手を叩いた。ほう、誰もが褒める御屋形様だから当然だ」

 信玄の姿を思い浮かべて、千代女は笑んだ。

「快川和尚様は『太守桜を愛す蘇玉堂、恵林もまた是れ鶴林寺』と返歌をした。『太守』と応じていた。分からん、さっぱり意味が知れない」

 きっと信玄と快川の二人だけが通じ合う、文の道なのだろう。

「甫庵が、御屋形様に何度も解釈を求めたって書いてあるぞ。けっ、甫庵も分からなかったんだな。でも御屋形様から答えとして差し出されたのは、源氏物語と伊勢物語だった。互いに難儀なことだ」

 御伽衆の甫庵なら、終日(ひねもす)、薬湯を煎じて、物語を読み込んだだろう。

「さらに幾重にも意味は重なる。そんな説明で満足できないぞ。甫庵、しっかり語れ。読む音で考えれば、『さねこんころ』には源氏物語が意味に加わる」

 薄雲巻の光源氏の和歌を踏まえる必要があるらしい。源氏物語を知らない千代女には、甫庵の巻物だけが頼りだ。読み進める。

「光源氏は、浮気がばれたんだな。それで、不実を妻が責めた。妻に、光源氏は『明日もさねこんなかなかに』と返す。『さね』は「まことに」「本当に」の意味を持つ。明日は必ず、本当に帰ってくると光源氏は妻に伝えた」

 躑躅ヶ崎館の寝所で甫庵が披露した解釈だと、巻物に書いてあった。

 背を伸ばして、千代女は読み上げる。

「明日になってしまえば、本当に雪の如くに散った桜が降る。桜を見逃す。快川和尚様の誘引にお応えします」

 解釈を聞いて、信玄が頷いたと甫庵の喜びが巻物に綴られる。千代女の笑みが、棒道の木立の中に沈んだ。

 実力を持ち、確実に道を拓いた信玄がいなくなった。信玄は有職を踏まえ、故実を慈しんだ。共に過ごす明日は実現しない。もう来ない。現実に千代女は打ちのめされた。

「長い手紙だ。棒道が、巻物に見えてきた」

 千代女は和歌を、何度も反復した。言葉を()る。削ぎ落すと音になった。

「まし――」

 事実とは反対の出来事を、仮に考えて思い描く時に使う言だ。例えの言い方で、思いを強めて伝える言葉だ。

 もし誘いに応じなかったら、悔しかっただろう。応じたから、後悔はない。

 望んで作り上げた事実と、真実の間に仮定は幾らでも存在する。千代女は事実と反対の出来事を想像する。

 もし死んでしまったら、残らなかっただろう。生きて残る。

 何が生きると問うのは、素破の職分ではない。何が死ぬと考えるのは、素破の役務ではない。

 千代女は死を喧伝する。三年を費やして、真実と反対の事実を躑躅ヶ崎館から流し続ける。素破として、在り続ける。

 千代女の口が、くっつと広がった。笑んだ自分が信じられないほどに、歓喜が広がる。綻ぶ蕾は砂礫を押して茎を伸ばし、峻険な頂で咲き誇った。

 事実として死んだ信玄を伝えれば、生きておる真実を隠して保つ。脈々と存命する。死の証拠を掲げて、生きるために信玄は揺るがぬ死を作った。誰にも覆せぬ死を手に入れた。

 伸ばした根が、水を吸い上げるほどに笑みが止まらぬ。事実とは反対の真実があると、千代女は知った。完全なる喪失の中に、違えぬ冀望があった。

 永き時を信玄は生き続ける。身体はぐるりの山へと変わり、風は耳目と為る。住まう民に慈悲の雨を降らせ、飛礫に富を託す。

 蒸気を孕んだ重い狼煙が、ずずいっと黄昏に進んだ。白が消えて行く。手が離れた。

「口惜しからまし」

 もし素破として誘われなかった、悔しかっただろう。誘われたから、口惜しくない。

 巻物を破った。裏返す。

「手紙は、端的に書く」

 千代女はたっぷりと墨を付けた筆を、反故に押し付けた。


お読みいただきまして、ありがとうございました。

次回が、最終話となります。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ