第八巻
長い、長い、一日です。
陣幕を手繰って、千代女は笈を運び込んだ。
「四郎様は正しい目を持っている。生きていると見抜いた。けっ、お世話係も肝を潰しただろう」
千代女の手を持って、信玄が立ち上がった。
「甫庵が遅くて、寝ておるのも難儀だった。喉が渇いた。薬湯が不味くて、吹き出したわ。心ノ臓の動きが分からなくなる薬湯を、甫庵が作り上げた。褒めて遣わす」
差し出した水を、信玄は呑み干した。
「四郎様と兵衛尉様に、黙れって、何度も喚きたかった。御屋形様も、本陣でべらりとよく喋ったじゃんね。健やか過ぎて焦ったでごいす。今は本陣に、誰も入って来んじゃん」
ゆるりと信玄の破顔が広がる。
大きな口の動きは人を惹きつける。どのような言が飛び出すのだろうか。千代女は逸る思いで下知を待った。
「良き死にざまであった」
甫庵が零れ出る笑みを、懸命に押さえていた。信玄の言葉だ。端的にして、多くの意味を纏わせる。聞く者に考えさせる。
「良きかな。御逝去が定まったでごいす。千代女殿も嬉しそうじゃんね」
「眉が動くだけでも煩いのに、甫庵は口も良く動く」
千代女は白装束を手に取った。
「周到に準備をした。甫庵の薬も久遠寺の身代わりも、長い年月が掛かった。秘術は、薬も身体から搔き出すと聞いた。ごしごしと腹の中で音がしたぞ」
できうる限りの技を用いて、甫庵は慎重に棒は動かしていた。秘術の子細は千代女も知らない。聞かれても、伝えられないだろう。
「薬を作って一年。秘儀の修得には、さらに一年を費やしたでごいす。心ノ臓が弱くなる薬を造れって下知には、驚いた。御屋形様はずっと、西に来る刻を待ってたでごいすね」
愚痴が混じる甫庵を嗜めるように、信玄が指を折った。
「薬ができた。越後も僅かに鎮まり、信濃に四郎がおる。国衆も親戚衆も紛擾だが、総じて穏便。残す法も技も定まり、甲斐には仕組ができた。西へ行くには、今しかない」
何度も話し合ってきた。千代女は小さく笑んだ。信玄の言には常に驚かされる。
「甲斐だと、逃れられぬと聞いた時には笑ったじゃん。ぐふふっ」
笈から出した木材を、甫庵が組み立てる。
信玄が脱いだ直垂を、十字に組んだ棒に絡ませる。横に渡す棒が増えて、直垂が膨らむ。肩の厚みができる。腹が丸く出張った。
「身代わりは、太った御屋形様だ。長い巻物の手紙に書いてあったよりも、見事な仕事だ。手紙も短く書いてみろ。出来るだろう」
「千代女殿に褒められたじゃん」
「褒めてはないぞ。しっかと聞けよ」
顔が笈から出てきた。表情のない木偶だ。僅かに俯くように、顔が乗った。
「ご機嫌は如何でごいすか? 腹の具合も、胸の具合も、心配はないじゃんね」
「中身がないから、憂慮もないわ」
輿に鎮座した身代わりの裾を、甫庵は丹念に直した。
身代わりが表情を持って行く。
「如何なる手段を使ってでも、余の目を覚まそうと、兵衛尉が腐心する。加持や祈祷を四郎が執り行う。見舞いの玄蕃頭が寝所から帰らぬ。考えただけでも怖ろしい」
稚児が泣く如き動きで、嫌だ嫌だと信玄が首を振った。
「家臣に恵まれたちゅう話じゃん。御自慢にもなる。物語になるずらね」
信玄は多くの物語を好んだ。甫庵は信玄の話を聞き、共に笑い、時に涙した。
「後の世で、生き残ったと噂になった兵は多い。全てが死を識認できない場合だ。誰もが信じる死を、用意せねばならぬ。疑えぬ死が要る。ならば書き残す。物語があれば、混沌の中にさらに死が定まっていく」
「長過ぎて読み終わらない甫庵の巻物に、同じ話が書いてあった。古の兵が生き残ったと信ずる物語があるんだな」
甫庵が輿の上を信玄に示す。身代わりの面が信玄と近しい。
「木偶とは思えぬ。いい出来の顔だ。余に似ておる。身代わり信玄だ」
「最初は呆けた顔だった。ふざけておるのか思った。あれは、酷かった」
「千代女殿に責められて、仏師を嗾けたじゃん。久遠寺の仏師が、作り上げた顔じゃん。立ったり座ったりもできる」
「雄黄が顔にびっしりだ」
伸ばした千代女の手を、甫庵が押し留めた。
「近づかんでくりょうし。雄黄は有毒の砒霜でごいす」
身体を腐り難くする雄黄は、毒だ。砒素とも呼ばれる猛烈な毒だ。
千代女が届けた雄黄は黄色が透けて、鶏冠の姿だった。身代わりの顔の色となっていた。
「頬の色も見事だ。唇を見ろ、青褪めて、余にそっくりだ。千代女は、他国の素破に動かぬ姿を見せよ。身代わり信玄と共に、棒道を練り歩け。死の噂が広まるぞ」
信玄が欺く先は、果てがないようだ。
「御屋形様が死んだと露見したら、甲斐が攻められるじゃん」
案じた思いを甫庵が零した。
「小さな国でも、兵法を極めれば戦に勝つ。乾いた地には川を曲げて水を引く。堤防を築いて川を御する。金山を掘って米を買う。如何なる道も拓いた。やり遂げて見せた。後は継げる者が継げばよい」
信玄の言葉を反復した。信玄の本意が千代女には掴み切れなかった。技の意味も、継げる者も、曖昧だ。分かり易い言葉は絡み合い、多くの意味を作り出す。
「見限ったでごいすか」
何を、とも聞かない。誰を、とも聞けない。甫庵の問は、千代女の思いとも重なる。返事が欲しい。
「迷う風聞は判断を鈍らせる。四郎も刻を使うを知るだろう。拓いた道を継げる者は、必ずおる。今日や明日ではないが、余は死ぬ。死病がある」
確かに、信玄の身体は病と共に生きていた。死が近づいているのは事実だ。
「急ぎ過ぎとも、思うじゃん。まだ五年は生きる。四郎様が、三年で御屋形様と同じにできると思えんじゃん。陣代は難儀でごいす」
信玄が哄笑を上げた。
「甲斐だけで見るな。もっと深謀だ。遠く先まで慮っておるぞ。仕組は残した」
何度同じ言葉を聞いただろうか。信玄の思索は甲斐に留まらぬ。ぐるりを囲む山を越えて、陣伍の動きよりも早く地を震わして先へと進む。
「仕組を残したいから、死を選んだ。言い募るな。甫庵は御屋形様に抗弁するのか?」
「そんな言い方はしてねえじゃん。千代女殿は随分と冷静だ。儂には難しすぎる。何度聞いても、納得できんでごいす」
首を振る甫庵に、信玄が目を合わせた。口元は楽し気に動く。
「千代女と甫庵は、ぐうたらな旦那と世話焼きの女房のようだ」
「冗談じゃねえ」
二人の返事が重なった。
「こんな愚痴を繰り出す男は、旦那には向かない。だが、甫庵は働き者だ」
「世話を焼くのは儂の仕事でごいす。可愛い千代女殿には、手間を掛けさせんよ」
互いに向き合った首が傾がる。褒めているのか、貶し合うのか、行き場を失った言葉を信玄が引き取った。
「息があっておる。潜考せよ。巧く仕組を使えば、誰でも天下を平らかにできる。法の力を知る。余が生きて残ったら、仕組の力が伝わらぬ。余を法とするであろうな。愚かだ。五年も待てぬ。百姓や商人も工人も、仕組の中で守りたい。法の下で生きると教えたい」
甫庵の口も滑らかに動く。
「銭を定める。商人や工人が守る法を決める。百姓も法を学ぶ。同輩を集めて座を造る。金銭を動かす武士と、法を守らせる武士。甲府では、できてたじゃんね」
口の中が苦い。大刀を使わぬ武士が必要だと、信玄は力を込めて話を聞かせた。躑躅ヶ崎館で、全ての意味を誰が理解しただろうか。
ふんと信玄が鼻息を飛ばした。全ては流れ行き、過ぎた話だった。
「仕組を使え」
白装束になった信玄が立ち上がった。先だけを見て、団扇太鼓を掲げた。
「甫庵の薬湯も要らぬ。五年より長く生きるやも知れぬな。死なぬ」
立ち上がった信玄が背を向けた。
手は伸ばせない。足にも縋れない。信玄の行き先は決まってしまった。
「長い御遺言を書き留めたでごいすね。意味を教えてくりょうし」
振り返った信玄が、あやすように甫庵を見た。
「問われて、言い残す内実が多くなった。死の証拠が、たんと残った。甫庵の話も残せと弾正に告げた。案ずるな」
言葉を繋げて、甫庵が時を懸命に伸ばした。
「証拠が多いほうが、御屋形様が死んだと誰もが信じるずらね。でも、死を三年の間は内密にするとは大掛かりの仕掛じゃん」
「生きていると知られたら、追われる。難儀だ。死んだと嘆きながら、懸命に余の死を隠す労を、親戚衆が取る。生きておるとは、四郎も知らぬ」
焦れた思いをやっと言葉に載せる。
「生きてる風を躑躅ヶ崎館で吹かすずら。装うじゃん。これからは、身代わりお仕えするでごいすよ。話しても、応じてくれん」
身代わりの木偶を信玄とする。考えもつかない謀だ。
信玄が甫庵の顔を覗き込んだ。宥める手を肩へ添えた。
「余の和歌を吟じてみよ。『誘引ずは、口惜しからまし、桜花、実来ん頃は、雪の降る寺』やはり、この和歌に勝るものはない」
「恵林寺の両袖の桜を、一緒に愛でた時の和歌でごいすね」
頷く信玄の目は何処を見ておるのだろうか。遠近の全てを信玄の目が包む。
「快川和尚からの誘いを、誘引以外の言で表せぬ。鶯が桜に誘われるさまだ」
多くの物語や、和歌や漢詩の意味を含んで詠まれた和歌だ。快川和尚が唸ったのを覚えていた。
「伊勢物語を踏まえた和歌でごいす。源氏物語や古今和歌集を知って、初めて和歌の意味が分かるでごいす」
「『花』と『実』の両方を余は望まない。今までは神仏を祀り、文武の両道を念願して、武のみを歩いて来た。『実来ん頃』と時は満ちた。文の道に進む」
共に過ごす時は、過ぎ行く。
「読解が難しい歌だ。読みにも漢字にも意味があった。吾は全てを覚えていない。甫庵が教えてくれ」
「手紙を出すじゃん」
「用件だけを、端的な書け」
信玄が手を出した。
千代女は矢立を差し出した。筆がさらさらと紙を撫でた。
「辞世の句は漢詩とした。『大抵、任地、肌骨好、不塗紅粉、自風流(大ていは、地に任せて、肌骨好し、紅粉を塗らず、自ら風流)』だ」
「さらに難解でごいすよ。判じるには時が要るずらね」
白装束の女子衆が動き出す。団扇太鼓の律が千代女の身体を揺すった。
「身代わり信玄と共に考えよ。余からの最後の下知だ」
「てっ、毒を持ってるじゃん」
軍配と覚えたのは、瞬く間に団扇太鼓と為った。采配の先の短冊の揺れと見えたのは撥だった。
団扇太鼓をすっくと掲げて、撥を振り下ろす。信玄が本陣から闇の中に出て行った。
お読みいただきまして、ありがとうございました。
明日も投稿予定です。よろしくお願いいたします。