第七巻
千代女だ。顔は紛うことなく千代女だ。だが、歳が違う。背が足らぬ。幼い。手も腰も甫庵が見知った千代女と見えて、違う少女と示した。
「千代女殿じゃあないじゃん。望月一党の素破ずら。何か用があるだけ?」
山が迫る長岳寺は闇が早く迫るようだ。見返した少女の顔が増えて行く。瞬くと、少女に続いて白装束の女子衆が入って来た。数えるたびに女子衆の数は増えて、減った。団扇太鼓が甫庵の身体を圧する。
女子衆はするするっと動き、火をつけた。幕に火が照り、本陣は煌々と浮かび上がった。大きな窯に湯を沸く。手桶で汲んだ湯を甫庵に渡す。
信玄の身体を湯で何度も拭った。女子衆の淀みない動きに、甫庵の手も早くなる。
「お身体が奇麗になっていくじゃん」
流れ出た尿や便を、甕の中に入れた。汚れた小袖も下帯も甕に封じた。本陣には十の甕が並んだ。女子衆が甕を油紙でくるくると包んだ。
「御屋形様は何処まで先を見てたずらか。久遠寺に参れとの下知だった。棒を使って、お身体から残った物を搔き出す。秘術は、人には見せられんずら」
信玄の身体を横たえ、口から碧い薬湯を入れる。腹をぐぐいと押すと、尻から水が出た。
「苦しそうな顔になった。顔の色が悪くて、如何見ても死んでおる。輿で躑躅ヶ崎館に戻るって決まった。端座の姿を見せねばならんじゃんね」
少女が蝋燭を顔に近づけた。蝋をぽたりと掌に集めた。
慌てて少女の腕を掴む。腕が細い。掴んだら折れてしまう。甫庵は、ぎこつなく指を腕から外した。
「何をするで。危ないじゃん。掌が火脹れになっちもうじゃん」
熱くないのだろうか。少女の表情は変わらぬ。集めた蝋を甕の口に塗った。
少女の声を聞きたいと願い、分かりたくないと耳を閉ざした。何を拒むのか、甫庵にも判ぜられなかった。眉を動かし言を重ねて、問に自ら答えを出す。
「甕を開かんようにするだね。千代女殿の差配ずらよ」
蠟で封印された甕の周りを、団扇太鼓を奏でた衆が取り囲んだ。
「甕は長岳寺で供養してもらうずら。本陣は疾く風と進むじゃん」
少女が甫庵を覗き込む。
「ああ、だから信濃を進むだね。躑躅ヶ崎館に御帰着する足軽衆は、えらい減る――」
信玄の頬を撫でて、甫庵は窮した言を零した。
「何処を進むずらかね。白い狼煙が上がったでごいすよ」
幕が動いた。辺りを揺らす足音で幕が傾げる。甫庵の頭に幕が圧し掛かった。
勝頼の声がした。
「下がれ。諏訪衆が本陣に入ってはならぬ。案ずるな。大事ない。余が見て参る」
「四郎様は間が悪い。死んだお姿を見に来た。御逝去が信じられんずらか」
顰めた顔で、甫庵は幕の動きを見た。勝頼は忙しく腕を振るのだろう。鎧がガシャリと喧しい。
まだ早い。整っていない。信玄は横たわったままだ。幕に向かって怒鳴った。
「入られちゃあ、敵わぬじゃん。秘術が成らぬ。四郎様も止まってくりょうし」
昏い風が吹いた。本陣の幕が闇を纏って膨らむ。四方の幕が波を打つ。
横たわった信玄を起こさなければならない。身代わりは、まだ笈の中だ。用意ができていない。
幕の波に呑まれて、女子衆が消えた。団扇太鼓の音が遠くなった。少女の顔が波間に見えた。
「待って――」
甫庵は口を噤んだ。声も息も懸命に呑み込んだ。
輿の上に、信玄が座していた。
幕に入った勝頼の顔を、透けた薄い幕が覆った。少女の手が幕の間に見えた。
勝頼は輿の上を見て、小さく囁く。
「信じられぬ。生きておる父上の姿だ。薄い布が目を覆っても、見間違えぬ」
勝頼の言に甫庵は昏惑した。がくりと落ちた顎で勝頼を見た。
「生きておるでごいすか」
勝頼の頷きが、段々と大きくなる。
「おお、驚いた。甫庵は久遠寺の御加護を施した。これなら、誰も疑わぬ。生きておると信じる。三年の秘事が叶う。極秘の時を稼げる。余も演じるぞ。お世話係の甫庵だけに、任せておけぬ」
勝頼は本陣の外に向けて大音声を上げた。
「甫庵の薬湯が効いた。久遠寺の御加護を得た秘術だ。御屋形様はお健やかだ。穏やかなお顔で端座されておる。皆が納得して、躑躅ヶ崎館に凱旋すると決まった」
勝鬨が上がった。
「お世話係よ。父上の襟が開けておる。裾も直せ」
勝頼が、勝鬨と共に遠退く。本陣の中には団扇太鼓が鳴っていた。
「見せる姿は、今は、生きておって良いじゃんね」
湯がぐらりっと沸騰した。大きな蒸気が吐かれた。蒸気に包まれて、甫庵の耳の底に下知が届いた。
「棒道を進め」
甫庵は慎重に手を差し伸べた。しっかと応じる指に撥を握らせる。
「薬湯は違えてはおらんよ。浄巾も棒も、使った。心ノ臓も動いてなかった。四郎様も識認したでごいす。兵衛尉様も嘆かれた。御屋形様は御逝去でごいす」
「長岳寺を過ぎたら遠くなる。やっと西まで来た」
「なかなか応じぬから、案じたでごいす」
輿の上で、信玄が目を開けた。
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