第六巻
短いです。
信玄を乗せた輿が、本陣の幕の中に進む。輿を守るのは、三つ花菱の穴山衆だ。親戚衆の中でも勝頼に年が近い梅雪は、口を引き結んで手綱を握った。
「目が真っ赤じゃんね。玄蕃頭様は、御屋形様がお隠れになった事実を聞いたずら。御親戚衆の穴山衆は、粛々と足を運ぶ。暴ける諏訪衆とは違うじゃんね。話過ぎた」
事実と零した言葉に、甫庵は口を引き結んだ。顔の全てを横に引っ張った。
輿の揺れで、ぽたりと雫が垂れた。雫が甫庵の眉を動かす。黙ってはいられない。言葉は数珠の如く連なった。
「何が真か儂には判ぜられぬ。尿が流れておるじゃん。躑躅ヶ崎館に戻るには、久遠寺の秘術が要る。儂に、できるずらか」
竦む首が固まった。足も手も、自分の身体とは思えぬ重さがあった。
「やらねばならん。薬師本道の職分じゃん」
ぎりりっと腕を伸ばした。甫庵は身体引き摺って、輿の後を追った。歩みを止めようとする足に何度も、何度も、務めを果たせと叱咤を浴びせた。
申ノ刻(午後4時)の鐘が、甫庵を出迎えた。
風を孕んだ幕を払って、勝頼が入ってきた。甫庵の耳朶に口を寄せた。
「駒場の長岳寺で今日は留まる。後は、甲府まで止まらぬ。久遠寺から献上された品を使え。秘術と父上から聞いた。三年を秘事とする技だったな」
赤備えのまま昌景が後を追ってきた。
思い定めた顔に、先手を打つ。残られては難儀が増す。
「如何に頼まれても、承諾はできんでごいす。本陣から出て行ってくりょうし」
額を土に付けて、昌景が平伏した。
「御屋形様の側で、最期の御奉公をします。甫庵殿の邪魔は決してしませぬ」
側におるだけで、面倒が増す。赤備えに凄んで見せても徒労だ。大きく口を開けて、笑みを見せた。
甫庵の笑みに、昌景が深く頷く。紅く染まった顔が鎧と見分けらぬ。
「ぐふふっ、ほんじゃあ、儂は出て行く。兵衛尉様が久遠寺の秘術も献上の品も使ってくりょうし。時は限られているじゃんね。励んでくりょうし」
顎を大きく引いた勝頼が、昌景の首を掴んで幕の中に引きずり込んだ。
「去ぬるぞ。団扇太鼓が近づいてきている。甫庵を残して、兵衛尉は余と共に来い。国衆の話を聞く。御親戚衆は玄蕃頭があしらう」
昌景の足が、ずるりと幕に呑まれていった。
団扇太鼓が甫庵の耳に届いた。まだ遠い音だ。ドドンッと連なる五回を叩いて、一拍を休む。お題目が甫庵の口を吐いた。
「『南無妙法蓮華経』でごいす。御屋形様も聞いてくりょうし。あれは久遠寺の団扇太鼓じゃん」
太鼓の音に沿って、甫庵の頭を焼くほどに暑い風が闇を纏って吹き付けた。
風を宥める如き香が、揺蕩った。
口元を緩め、甫庵は香を胸の中に納めて行く。
「荷葉を選んだだね。季節に合って、時節も捉えているじゃん。千代女殿の返事は、待った甲斐があるじゃんね」
蓮の花の匂いを現した香が荷葉だ。蓮は仏花で夏を表している。今の本陣に相応しい。
「端座の姿の前に清めるずら。てっ、お身体が固まってきておる。薬が効き過ぎたずらか」
甫庵の触れた顎は、閉じて動かなかった。焦る甫庵を、荷葉の香が宥める。そっと歯を開けて、唇を解す。信玄の顔が僅かに笑んだ。口を布で覆い下帯姿になった甫庵は、長い棒を浄巾で拭った。
「浄巾も久遠寺で授かった。直ぐに必要となったじゃん。甲斐の夏の暑さじゃあ、身体が朽ちちもうじゃんね」
甫庵の耳を聾する団扇太鼓の音が、本陣の周りを取巻いた。
「お題目が大きく聞こえる」
ふわりっと幕が動き、白装束の女子が甫庵の前に立った。笑んだ。
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本日は、合計三話(あと二つ)を投稿予定です。お読みいただけると、嬉しいです。




