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第五巻

 信玄の顔が止まった。

「余は決して、決して忘れぬ。伊那四郎と呼ばれ、誰とも定まらぬ身の四郎だ。甲府の生まれで、諏訪の字を持つ」

 信濃に信玄が侵攻したのは、三十余年を遡る話だ。

 信玄は多くの子に恵まれた。息子は七人で、娘は五人いた。『信』の字を受け継いだ息子は六人。その息子たちの母は、公家の三条家の姫と、甲斐の国衆の姫だった。

 勝頼の母は、諏訪家の姫だ。一人だけ諏訪家の『頼』の字を継いだ。諏訪家は信濃の国衆を纏め、大祝と呼ばれる諏訪大社の祭祀の長を務めた。

「四郎様は、大祝にならなかったのですね」

 信玄の目が、明瞭な意志を持って何かを見ていた。

 下知を得たりと昌景が手を伸べて、先を示した。

御旗(みはた)も御照覧あれ。共におります」

 朱で丸く日輪が描かれた旗は、新羅三郎から伝わる武田家の宝だ。もう一つの家宝を探す。

「てっ、(たて)無鎧(なしのよろい)が見えんじゃん。御出陣にならんかったずらか」

「重い鎧は、菅田天神社に備えてある。鬼門の守りだ。四郎の息子の武王丸(武田信(のぶ)(かつ))が、楯無鎧を継ぐ。四郎は後見ぞ。願いを聞いた」

 昌景が目を剥いた。知らなかったのだろう。何度も口を動かすが、声が出ない。干された瓜の如く、赤備えが萎んだ。

「余は陣代となる」

「本願ぞのう。兵衛尉よ。旗も立つ。本願――」

 信玄の息は切れ、肩が上下した。言葉が続かなかった。

 勝頼が昌景に問い掛けた。

「本願とは、大坂本願寺の意味だろうか?」

 何度も唾で唇を濡らし、昌景からやっと声が出た。

「顕如様に文を差し上げるなら、花押は如何にするのでしょう。御屋形様は、もう書けますまい」

 顕如の守る大坂本願寺は、畿内から食み出る信長の力を懸命に削いだ。

「花押は、八百枚を躑躅ヶ崎館に残してある。御屋形様は後の者が道を誤らぬよう、全てを御采配だ。兵衛尉も案ずるな」

 応じた勝頼に、昌景は痛まし気な目を返した。

 信玄の手が震え出した。

 時が近づくのを感じ、甫庵は薬湯を用意する。

 曼珠沙華に高麗人参と鬱金(うこん)は根を使った。銀杏に芥子と、数えたら両手に渡る材料で、薬湯を煎じた。

 耳目を信玄に集める。周囲を鼓舞する話題が必要だ。信玄の意志を感じさせる言葉を捻り出す。

「御伽衆しか知り得ない話でごいす。詮無いながらも、お伝えするでごいすよ」

 眉を動かし、噛み締める声を出した。

「御屋形様は、上洛を望んで戦に出たっちゅうこんずらか?」

「拙者には分かります。御屋形様が旗を瀬田に立てます。洛中には(にお)の海の瀬田から入ります。守護大名から続く武田家の誉れです。誰か、旗を持って参れ」

 昌景の大音声に信玄が目を上げた。ぐらりと前に崩れ落ちる。

 顔から落ちないように、甫庵は抱き止めた。信玄をやや仰け反らせた。

「大声を上げちょし。旗より御屋形様には薬湯が先じゃん」

「珍しい色の薬湯だ。余が飲ませる」

 逡巡し、甫庵の腕が竦んだ。湧き出た躊躇いが震わす指に、碧が映えた。

「顎を引いて、顔を下に向けてくりょうし。薬湯で咽っちもうじゃん」

 甫庵の言に勝頼が深く頷く。薬湯を飲み下した信玄の背を、甫庵は軽く叩いた。支える甫庵の腕に掛かる信玄の重さは、驚くほど軽い。肩が上下した。

「西に孫子の旗を――」

 勝頼が手を叩いて応じた。

「全ての指物を西に向けよ。御旗と諏訪法性の兜が先陣だ」

 甫庵は明るい声を出して、本陣を取り囲む旗に腕を伸べた。

「恵林寺の快川和尚様が揮毫の孫子の旗もあるじゃん。絹地に金泥ずら。諏訪明神旗は、朱漆に金泥で鮮やかでごいす。金山衆の百足の大指物も見事じゃん」

 こくりこくりと、信玄が頷いた。

 動きに合わせて、勝頼が言を続けた。

「鹿皮で武田菱を縫い取った旗は、本陣を囲んでおる。黒漆で花菱を三つ重ねた朱漆の馬旗。瀬田の唐橋は上洛の道。父上は天下をお望みだ」

 勝頼から、軍配が信玄に渡された。真ん中に硝子玉が嵌め込まれ、日月と七曜星を配していた。

 信玄が左手の指を三本前に出した。右手の軍配が返った。

「このまま、躑躅ヶ崎館に向かう。全てを伝えた。三――」

 信玄が動きを止めて、刹那、甫庵を見た。微かな笑みが信玄の頬を掠める。

 笑みを甫庵は心の中で握り締めた。後は、言葉を吐き続けるだけだ。御伽衆の技だ。

「御屋形様は何を仰ったずらか。意味が分からんじゃん。兵衛尉様には何と聞こえたでごいすか。四郎様も教えてくりょうし」

 昌景は震える顎を押さえ、信玄から目を据えたまま、甫庵の膝に齧り付いた。

「拙者は『さん』と承りました。三年の意味でしょうか。涙が溢れて、御顔を見られませぬ」

 諏訪法性の白い毛が甫庵の顔を打った。勝頼が身体を仰け反らせた。

「躑躅ヶ崎館と余には聞こえた。三本の指が立っておる。やはり、御逝去を三年の間は秘事とする御意思だ」

 信玄の手から軍配が落ちた。

 甫庵は信玄の口に耳を寄せ、鼻に指を当てた。

「息をしておらんじゃん。一緒に識認して、教えてくりょうし」

「何だと。甫庵は戯言ばかりだ。父上が身罷るはずがない。陣伍は何処に進むのだ?」

 胸元を寛げ、心ノ臓を弄る。浮き出た骨の奥に、抑揚はなかった。

 勝頼の手が甫庵と重なる。如何に探っても動かぬ心ノ臓に、勝頼が瞠目した。

 昌景が椀を持ち上げた。

「薬湯を差し上げましょう。まだ三途の川を渡り切っておりませぬ。呼び止めます。御屋形様を一人で死なせませぬ。拙者がお供いたします。お待ち下され」

 昌景が薬湯を口元に運んだ。信玄の口から薬湯がゴボッと溢れ、骨が浮いた胸を濡らした。椀が落ちた。

 どおっと風を巻いて、信玄の身体が傾げた。顔の皮が、血の色を失くしていく。開いた目は、もう何も見ていなかった。信玄の身体から、生が消えた。全ての動きが失われた。

 赤備えをガタガタと振るって、昌景が信玄の頭の前に蹲った。

「何故に、御屋形様の命が尽きたのでしょうか。関東管領様(上杉謙信)や、三河守様も、右府様(織田信長)も戦に出ております。お健やかなら負けぬ。口惜しい」

 諏訪法性の兜の緒を緩め、勝頼が信玄の頭を抱き上げた。

「昔の話をするな。父上の天命が尽き果て給うた。このまま躑躅ヶ崎に向かう」

 信玄の笑みが蘇る。甫庵にも為すべき役務がある。言質が要る。

「このままとは、座して御帰着するずらか。甲府はもう暑いじゃん。本陣に人が入ると、憂慮するわ」

 踏付にする如くじりっと足裏を捻じって、勝頼が立ち上がった。

「暑くても端座だ。直ぐに発つ。遺言は皆が聞いた。本陣の警固を怠らぬ。甫庵だけが残れ。進むぞ。半刻の後に本陣は出立する。立て、兵衛尉」

 勝頼の言が気になる。逸って足を踏み鳴らす勝頼には聞き(がた)い。昌景に小さく問うた。

「御屋形様は、何を言い残されたでごいすか」

「多くの遺言でございましたよ。御覚悟が定まっておりました」

「武田家の当主の旗を、余は用いぬ。諏訪大明神の『大』の旗を頂く。父上と決めた」

 言が掠れて、勝頼が顔を覆った。音もなく手甲の間から雫が零れた。

 勝頼の手が大きいと識認する。手が似ていたと、甫庵の眉が動いた。

 指が兜の緒を撫でた。諏訪法性の兜を被った意味が知れた。勝頼は諏訪衆を纏める大将だ。

「甲州法度次第や兵法の考え方を残す。武田家の全てを書いて残す。父上が定めた」

 幕で聞いた昌信の言が蘇った。

「本を書くずらね」

 (ぬく)い信玄の背を支えたまま、甫庵は手で信玄の腹を押さえた。食べていなかったのだろう。腹の中で動く物がなかった。

「三年も巧く残るずらか。腐っちもうじゃん。献上の品も秘儀も、使うずらね」

 夏の甲府は暑い。躑躅ヶ崎館の囲む山から、蒸した風が絶えず吹いた。窪んだ地はじめりと湿った。生きた身体も腐らせる。

 昌景が首を振って、指を突き付けた。逃さぬと目が迫る。

「薬師本道なら――」

 勝頼が甫庵の肩を掴んだ。稲穂が風に吹き荒ぶ肩が揺れた。

「何とかしろ」

 初めて、二人の下知が揃った。


お読みいただきまして、ありがとうございました。

本日は一話のみ投稿です。明日も投稿予定です。よろしくお願いいたします。


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