第四巻
千代女は本陣を見下ろしていた。何層にも陣幕を張っても、頭の上は覆えない。高い場所から見下ろせば、容易く中を窺える。
「赤備えが走り回っている。諏訪法性の兜も飛んだり跳ねたり、忙しい。甫庵は、誰の世話をしているんだよ」
躑躅ヶ崎館の御伽衆は、信玄の身近に侍って細々とした世話をした。加えて、甫庵は調薬にも明るい。病のある信玄の世話をするには、他の追従を許さない位置づけだった。
甫庵は、御伽衆とも薬師本道とも呼ばれない。
「器用に何にでも応じるのが、お世話係の甫庵だ」
凡ゆる書物に精通する信玄から何を問われても、甫庵は絶妙に返した。
「世話のできない部分にまでお世話ができる係とは、言いえて妙だ。『お』の尊称まで賜ってやがる」
揶揄や妬みを含みながらも、甫庵はお世話係と認められていた。
千代女は樫の木の枝から、ぶら下がっていた。足を枝にかけ、身体を垂らした。頭に血が集まっていく。
望月一党の女子は、溺れるほど険しい山を越えた。見上げるばかりの底知れぬ紺碧の海を渡った。繁吹く波にそそられて怒涛の川を泳いだ。
全ては、信玄の下知だ。甫庵の望む物を揃えるためだ。
徒労だったのだろうか。本陣の中の甫庵は、狙いが定まっていないようだ。
女子衆が伸ばし蹴り出した足も、水から顔を出し継いだ息も、砂を掴んだ掌も、浪費と思える。
「今日の吾は、格別綺麗に装っているんだ」
闇に映り、陽に輝く素破の化粧を素破は施す。
千代女は一見、清楚で可憐な見た目だ。信玄の側に侍れば、大人しく謙虚を装う。厳つい家来には明朗で、優しく応対する。儚げで妖艶な姿に、誰もが振り返る。決して手を伸ばせないほどの清廉な笑顔で、傲然と千代女は本陣に近づく。
「早く動け。まだなのか。甫庵。けっ、面白くもない。甫庵のすることだ。もう首尾は万端にできているんだろうよ。焦らしやがって、お世話係の役を果たせ」
揺れる目の端が、本陣の中に碧を捉えた。枝に足を強く引き付けた。揺れを押さえて確かめる。間違いない。
「碧だ。甫庵の巻物に書いてあった色だ。ええっと思い出せ。陽の恩恵を遮る木々が枝を伸ばして、闇が空に滲み出す時の色だ。陽を遠ざけた積年の努力に報いる色が空に宿った色だ」
躑躅ヶ崎館で似た色を見た。今、本陣にいる甫庵の手の中にあった。
届けた荷を解き、口の形だけで甫庵は笑んだ。碧い液を作り出した。効用を伝える声を千代女は制した。煩わしい情報は聞かない。
「頭領様」
千代女を呼ぶ声が、下から這い上がってきた。顔を掠めて、巻物が投げられた。はっしと掴む。
巻物を持って来たのは、望月一党の女子だ。幼い顔で、身体も細く全ての造作が小さい。幼女に見える姿だが、歳は千代女と変わらない。
「お待ちかねでしたねえ。読むと苛つくんでしょうか? 楽しそうに見えますよ」
幼女の姿で、一言も二言も多い。
だらっと巻物を開いた。長い手紙だ。半分を巻き取った辺りに、甫庵の字が揺れて滲んでいた。
「玄蕃頭を雑魚と呼んだらしいな。甫庵の手紙は子細に伝えて来る」
「苛ついていますねえ。良いお顔です」
「身代わりの出番だ。抜かるなよ、甫庵」
胸の谷間に手を突っ込んだ。枝を蹴る。望月一党を従えて、千代女は走り出した。
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