第三巻
本日は、午後にもう一話投稿予定です。
赤備えは思いの外、鄭重に甫庵を案内した。
「お世話係を御案内仕った」
本陣が見えた。
甫庵は息を深く吸って、甲府を囲む山から吹き下ろす風を思い浮かべた。坂を転げた風は枝を撓めて引き寄せ、突き放す。声を出した。
「甫庵が罷り越したでごいす。立派な本陣で、迷っちもうじゃん」
陣幕が幾重にも甫庵の目を覆う。薄く透ける幕。厚くだらりと重い幕。萌黄や丹色の幕が、甫庵を取り囲んだ。姿が見えないが、大勢の声が幕の間から聞こえた。
「許せぬ。何故に拙者が外に出なければならぬ。御親戚衆が黙っておらぬ。ええい、幕が邪魔だ。引っ張るな。手を放せ。千代――」
ぐだぐだと尾を引くのは梅雪の声だ。縋った声が重い幕に呑まれた。白い女子の手が、ひらりと動いた。
「雑魚は引っ込んでな。お前を相手に済む用向きじゃあないよ」
「千代女殿がおるずらか。狼煙の返事より早く走るじゃんね」
梅雪を雑魚と言い切るのは、埒外にいる千代女だけだろう。千代女は自由だ。
下を向き、顎に手を置いた男が、幕からずうっと出て甫庵の横を過ぎた。
「残すなら、今から書き溜めて置こうぞ。御屋形様の為された武勇に、国の仕組。法もある。成果を余さず証とする。ああ、重い責任だ。武士に知らしめる」
「弾正様(高坂昌信)には何か申し付けたじゃん。本を書くのずらか」
昌信の文才を、信玄は褒めていた。
幕にも甫庵にも気を向けず、昌信は一足ごとに潜思を深めていた。端麗な唇は幕の中でも光を集めて紅に煌めき、典雅な眉は細く嫋やかだった。
「容貌が美麗とも愛でておったじゃん。ぐふふっ」
透ける幕の奥で、昌信の清涼な目が甫庵を捉えた。
幕を潜る度に、えもいわれぬ陽炎が揺蕩った。劈くほどの力を持った陽炎が、甫庵の鼻を惹きつけた。しっかと握ったと思った刹那、ずるりと手から崩れて、揺れて立ち昇る。腐臭だ。身体の腐朽が発する死の臭いだ。
懐に手を突っ込んで、巻物を取り出す。だらりと伸びた白い紙に、矢立から出した筆を押し付けた。矢立は、筆と墨壺が一緒になっていて持ち運べる。甫庵は腰に矢立を下げていた。
「字が揺れっちもう。全部は書き切れんじゃん」
陣幕が、甫庵の身体に纏わりつく。巻物を幕の間に転がした。
甫庵は巻物に絡んだ白い指を目の端で捉えて、動く眉を押さえた。山を転げる風の姿で幕の奥へと進む。先が見えぬと思った時に、身体がぐらりと揺れて幕が上がった。
本陣の中には、三人の男がいた。
「御屋形様は痩せて骨が浮いた。てっ、恵林寺の釈尊像様に似ておるでごいす」
信玄が欠かさず礼拝したのは、巌の上で修行をする釈迦の姿を現した仏像だった。
浮き出た骨が美しい釈迦が、本陣に臥しておった。
勝頼と昌景が進み出た。
「久遠寺から戻った甫庵は霊験も灼かに、御仏の姿を父上に見た。余も同意する、甫庵はお世話係だ」
二十七歳の勝頼は、赤鬼面の前立に白い毛を後ろに引いた兜を被っていた。本陣で被るには厳めしすぎる。
若い頃の信玄に、勝頼は似ていない。老いた信玄と並んでも、違いばかりが目につく。似せた動作をするほどに、勝頼は信玄を慕った。懸命に、姿を追っていた。
追うから逃げる。
浮かんだ言を、眉の動きに合わせて甫庵は呑み下した。
「戯言ですよ。四郎様まで、御屋形様が痩せて骨が浮くと仰る。甫庵殿は瑣細な事物をしつこく取り上げます。拙者は、固陋だと感じております」
甫庵の耳朶に息が当たった。赤備えの甲冑がずいっと圧し掛かった。
昌景は信玄の五つ高年で、日に焼けた肌は艶を放った。信玄への変わらぬ忠義を、毛穴の全てから噴き出した。
戦支度を解かずに、勝頼と昌景は本陣に詰めていた。鼻息が飛び、唾が振った。互いに黄昏の先駆けを争い、物憂い後朝の殿を狙う。
笈を信玄の側に据えた。さして貴重な物は入っていないと告げる粗略な手付で、甫庵は慎重に場所を定めた。皆に見えるが、誰の手も届かない場所だ。
首を竦めて、甫庵は独り言ちる。
「本陣の中も道と同じじゃん。諏訪衆と甲斐の国衆は、互いを忌み嫌ってるずら。埒もねえこんだ」
甫庵の言を聞き逃し、二人が張り合って動き出す。
「その笈の中身が、久遠寺からの献上の品だな」
「見分いたします」
妙に気が合う二人の動作だった。
伸ばす昌景の手と、勝頼の首をゆっくりと遮る。二人が息を詰めるまで押し返す。
「触っちょし。御屋形様のみに献上するじゃん。秘術が漏れちもうわ」
二人をしっかと見て、鼻息を飛ばす。
身延山の久遠寺で授けられた秘術がなければ、何事も成立しない。身代わりのお世話係も、無用となる。
信玄に向けてだけ平伏して、甫庵は脈を取った。脈がない。脈の蠢きを探る指の腹に皮膚が膠着して、べろりと剥げた。
押し付けた指の先で、微かな脈の律を聞き取った。弱い。信玄は衰弱して見える。
甫庵は指先の皮膚を握った。
何があっても昌景は嘆く。
勝頼は、甫庵に術を求める。
剥がれた皮膚を見せたら、甫庵の目指す先に進まない。信玄の望みが叶わない。
「兵衛尉様の出迎えで、本陣が分かったでごいす。薬を持って馳せ参じたでごいす」
昌景の丸い顔が甫庵に迫った。赤備えで固めた太い腕が肩を押した。背丈は小さいが、昌景の力は驚くほどに強い。
「生き返らせてください」
ぶぶんっと手を目の前で振るった。
「死んでおらんじゃん。御屋形様の脈は、確かに打っているでごいす」
まだ死んではいない。
まだだ。
暫しの間、信玄の姿から二人の気を逸らしたい。
信玄の死を二人に見せる。二人の前で死なねばならない。揺るぎない離別が要る。甫庵は密やかな声を出して、二人の間に顔を寄せた。
「尋ねる恥より、愚かな無知が儂は辛い。教えてくりょうし。薬湯は臭いずらか」
背で、信玄の顔を隠す。後ろに手を伸ばし、鼻の上で薬を揉み拉だく。鹿の角と蹄を砕いて混ぜて煮詰めた薬だ。尿に似た強い臭いが、気付薬となる。つんっと激しく刺さる薬が、腐臭を宥めて行く。
「臭い姿でも、薬師本道は父上の御伽衆だ。お世話係だ。馳せ参じるが当然よ。御屋形様の狼煙は、信濃より立ち昇ると覚えて置け。甲斐の国衆は黙るを知れ」
軽く握った信玄の腕が、掌の中で蠢いた。薬が届いたのだろう。
「腕が動いておるじゃん。此処は根羽で、御屋形様は信濃に御帰着でごいすよ」
昌景が膝行した。赤備えが信玄の頬を染める。血が巡って見える。
「痩せて、動きやすくなったずら。顔色も良い」
「笑んでいます。拙者も分かります。御屋形様の手が動いて、安堵しました」
「軍配を持って参れ。陣が進むぞ。お目覚めだ」
勝頼の大音声に、本陣の幕が揺れた。
信玄が大きく息を吸った。辺りの音が息に呑まれる。
「寝ておらんわ。喧しく、余の道を妨げるな」
一言一言を吐き出すたびに、信玄に力が満ちて行く。
「兵衛尉も四郎も控えよ。甫庵が、久遠寺の風の音と山の香を聞かせよ」
背に手を添えて、信玄を起こした。腹に手を伸ばし軽く押さえた。
「久遠寺は、人が溢れて華やかだった。団扇太鼓を拝領したでごいす」
「賑やかな久遠寺の門仲市の音がする。荘厳なる寺内が見える」
聞こえない音に首を傾げる。見えぬものに手を伸ばす。信玄の口が笑んだ。
「此処からは遠い。譫言だろうか。寺の話は後にせよ。父上は何処に進む。下知はまだだろうか」
「甫庵殿、しっかと弁えてください。今は戦場におるのですよ」
焦れた勝頼の横で、昌景が黒い顔を歪めた。
ぎぎっと首を廻らし、信玄が二人を睥睨した。息を吸う音が耳を塞ぐ。吐く息が鼻に障る。
「黙れ。端座させよ。余が行く場所は定まった。そのための秘術と献上の品だ」
大音声の信玄の物言いだ。発する一言で辺りを鎮め、引き寄せる。自らの懐へと皆を納めた。
「座ったら、御屋形様の御身体が倒れるじゃん。薬湯で腹が萎びたでごいすね」
信玄の身体は枯れた枝だ。甫庵が本陣を離れた時には、浮腫んで目も開かなかったが、今は眼光が戻った。痩せたが、不動明王と呼ばれた姿が戻った。薬湯が効いた。
本陣の中に風が吹いた。青く芽吹いた葉の香が辺りを包んだ。目を閉じた信玄の口が開くのを、皆が待った。
信玄の口が甫庵の耳朶に触れた。唇がざらっと動く。息の音だけがひゅうっと耳の中に入る。耳の中でぐるりと息が動いた。
勝頼が甫庵の肩をぐいっと押した。
「お世話係の甫庵が、話を促せ。父上は本陣におる。陣伍が進まぬ。滞っておる」
信玄の哄笑が本陣に轟いた。
「信濃へ行きたくなった。諏訪衆の案内があった」
昌景が、膝の上で拳を握った。じりじりと赤備えが燃え上がるほどに、拳を擦った。
「本陣は信濃に向かいました。何故に――」
目を開いた信玄が笑んだ。
「四郎の凄まじき願いも、吟味せねばならぬ。ままならぬな。兵衛尉よ、堪えてくれ」
昌景が勝頼を睨みつけて、言葉を紡ぐ。獲物を追い詰める目は炯々と赤かった。
「四郎様は何を願われたのですか。諏訪衆の動きは、お世話係に槍を向けるほど甲斐の国衆と馴染んでおりませぬ」
勝頼が頭を振るった。兜がぎしりと昌景に迫る。
「兵衛尉が出過ぎた挙動だ。良く聞け。余は諏訪家の惣領でもなく、諏訪大社で、大祝ともならず」
勝頼の大音声が、陣幕を揺らす。本陣の中が静まった。
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