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第二巻

長い、一日が始まります。

 四月十二日(五月十三日)の信濃の根羽。巳ノ刻。

身罷(みまか)ったずらか」

 信玄の御伽(おとぎ)(しゅう)で薬師本道を務める寺島甫()(あん)は、笈に手を添えて止まった。

 御伽衆は、信玄の側に侍って話相手をする。源氏物語や古今和歌集に通じて、愉快に話を聞く甫庵は、物語の講釈や和歌の話に興じた。

 もともと甫庵は、調薬を生業としていた。今は信玄の側で、薬を合わせて脈を診た。腹を探って、塗薬を貼付した。

「狼煙じゃん」

 朧げな夢へと誘うほど清々しき線を描く山の端から、激しく白い狼煙が上がった。夢を破って滔々と、絶え間なく狼煙は上がる。

 信濃や甲斐では、信玄の居城の躑躅ヶ(つつじがさき)(やかた)に向けて、狼煙の道があった。信玄は様々な色の煙を駆使して、精密な風聞を迅速に収集し、領国内に伝達した。

 狼煙に碧が混じった。

「やっぱり碧が見える。待ちに待った返事が来たじゃん。村の男衆は畑で下を向き、狼煙に気付かぬ風情ずら。見てはならんだよ」

 待ち侘びた千代女からの返事が、狼煙に見えた。

「溢れる思いを綴ると、手紙はいつも巻物になっちもうじゃんね。詮方ない。手紙の返事が、紙に書いた手紙とは限らんだよ」

 千代女は、手紙で返事を寄越さない。何度頼んでも、どんなに長く思いを(したた)めても、素っ気ない。

「手紙にした巻物をくべてくれって頼んだら、やっと返事が来るようになった。嬉しいじゃんね。読んでくれた。巻物も燃えて成仏する。有難い話だ」

 返事は狼煙の色だ。あの濃い碧は、手紙の後半を燃やすと出る色だ。読み終わったら前半を、必要な物を揃えたら後半を狼煙で燃やす。

 狼煙にむちりと腕が重なった。女子だ。小袖の袂から覗く腕が、白い。

「畑で一人だけ立っておる。若い髪の艶まで、離れた儂にも分かる。似ておる。儂を追って来たずらか。ぐふふっ、顔が見たい。この前は身代わりを見て、怒ってたじゃんね。今度は、満足する。ぐふふっ、腕が動いた」

 弧を描いて俯く首が細い。優美な形の頭を首が支える。駒草だ。伸びた腕に釣られて、甫庵は顎だけを出した。

 真っ直ぐに太い毛が密集した眉は、甫庵の顔の印象を決める。喋る間は眉と口が共に動き、喧しい顔だと評された。

 眉も口も動かせない。身体を揺らせば、白い腕が消えると焦心が知らせる。瞬きもせず腕を見ていたい。

 鬱々と腕は動く。寄れば崩れ落ちるほどの儚い腕だ。腕が止まった。すっくと伸びた指が地を指し示す。

 息を詰めて、目だけを動かし下を向いた。

 女が、握った拳を地に打ち付けた。

 甫庵を目掛けて、めりめりっと亀裂が這った。土が零れ、穴が広がる。亀裂が甫庵の足を呑む。

 刹那、甫庵は脇へ逃れた。飛んで走る。

 地の崩れが止まった。甫庵は笈を抱えて、(うずくま)った。走り出た道には、柵があった。

「てっ落ちるかと思った。空には狼煙。地には亀裂。女子の姿はもう見えんじゃん。今度は、道に柵がある」

 揃いの武具に顔を引き締めた足軽衆を従えた甲冑の武士が、甫庵の前に立ちはだかった。

 熟慮を示す深い皺が眉間に見えるが、嗜虐を好む舌の動きに甫庵は武士の浅短を嗅ぎ取った。

「狼煙の前を押し通るとは不届き者め。名は聞かぬ。荷物を検めてやる。訳合い聞かぬ。早く見せよ」

 甫庵の鼻先を槍が突いた。揺れた穂先を向けて、武士は虫の一匹も見逃さぬほどの横風(おうふう)を甫庵に当てた。

 武士が放ち、足軽衆が増大させた嘲りが甫庵の身体を蝕んでいく。

 貶める顔をじっと見定めた。槍先が定まっておらぬ。手で(はた)いたら、土に刺さるだろう。関わるのも煩雑だ。

「狼煙は馬より速い。甲斐も駿河も遠江も、道に柵はない。信濃の道は難儀じゃん」

 見た覚えのない武士だった。旗には四本足に三本梶。諏訪大社の所縁の紋だ。

「諏訪衆とは間が悪い。如何(どう)しっか。知らん()ばっかじゃん。躑躅ヶ崎館の皆様は何処ずら。助けてくりょうし。本陣は見えてても、進めぬ。背負う笈が食い込むじゃん」

 甫庵の荷物に、武士が手を伸ばした。

「喧しい男は何を持っておる。大きな笈で、奇妙だ。背から棒が見える。大きな丸いものは、何だ。団扇に見える」

 零れた言が、荷物の重さを伝えてしまった。話が過ぎると窘められる甫庵は、今更に気を逸らす。

「てっ、久遠寺の団扇太鼓を知らんずらか。有難い法具でごいすよ。音を聞いたら、お題目を唱えたくなるでごいす」

 立ち上がって、甫庵は団扇太鼓を叩く真似をして見せた。そっと身を引いて、背から武士を遠ざける。背負う荷物は多くある。触れられたくない。信玄への献上の品だ。

 槍を突き上げ、舌を蠢かして武士が吠えた。

「ごちゃごちゃと喚くな。小袖に汚い染みがある。荷物を解け。早く名乗れ」

 黒く染まった指を見た。甫庵の指は薬草を摘み、煎じる。煮染めた如き指に、顔を背ける者が多かった。爪に薬草が膠着していた。拳を握って、指も爪も隠す。腕を伸ばして、袂を広げる。染みは見えない。

「千代女殿の助言で小袖は着替えて、臭くないずら。畑の女子は、千代女殿に似ておった。さっきは名乗るなって仰せだったじゃん。狼狽するわ。分からん御人でごいす」

 甫庵の目の前に迫る穂先が増えた。武士が詰め寄る。

「素破の名を、何故に知っておる。四郎様(武田勝頼)の前に引っ立てるぞ」

 上がる狼煙の勢いで、甫庵は先に進みたい。焦る思いを呑み込むと、言葉が転がり出た。

「諏訪衆は短気じゃん。儂も急いでおるでごいす。望月一党の素破は何処までも歩く、美しき千代女殿ずら。黒髪に白き肌。どおっと馬を駆っていくじゃん」

「戦場で女子の話ばかりする。甲斐の国衆でも聞いた覚えもない。お前は、誰だ」

 (いき)り立つ武士の背後から、鍬の音がした。ザクッザクッと音が這う。地が動く。

 甫庵の口が、へらっと開いた。喜色を隠せない息と言葉が漏れた。

「てっ、百足(むかで)の音じゃん。ぐふふっ、亀裂の訳が知れた。力の加減が絶妙じゃんね」

「呆けた声を出すな」

 最後の一押しを待つ亀裂だ。甫庵は踵で地を、どおっと打った。過たず、見事な線がぐるりを描く。武士の立つ地の底が抜けた。叫び声を残して、武士の姿が呑まれた。

「百足の穴だ。助けろ。諏訪衆の信濃の地で、憎らしい甲斐の金山衆が地を掘る。川中島を思い出す。他人の領地に、鍬を入れやがった」

「えらい昔を忍ぶじゃん。もう昔の話ずら」

 甲斐と信濃は、近くて遠い。甲斐の国衆と信濃の諏訪衆は、信玄を共に主として、静かに激しく反駁していた。

 穴の中から、黒地に白桔梗を染め抜いた旗が立ち昇った。赤い甲冑が連なって出てきた。乱れぬ動きで、道を赤く染め上げた。

 梶の紋を持った足軽衆が仰け反るほど怯み、後退していく。

「信濃は御屋形様の領地と得心しておる。穴の中の諏訪衆も、憂目があったら申し出よ。諏訪衆は槍を下ろせ。眉が動き過ぎて、いつも独り言つお世話係の甫庵殿は先へ進め」

 白桔梗の旗が甫庵を囲んだ。

「てっ、また独り言が漏れてたずらか。遅くなって兵衛尉(ひょうえのじょう)様(山県昌景(やまがたまさかげ))の出迎えじゃん。赤備えに囲まれた。おっかねえ。間に合うに決まっておるでごいすよ」

 ごしりと眉を指で扱いた。竦む首を、甫庵は殊更に伸ばした。ドドッと足音を高く駆る。居並ぶ赤い足軽衆が道を開ける。頭を低くして進んだ。甫庵の道先を足軽衆が割っていく。眼前で、真っ直ぐに道が通った。甫庵を求める訳は、一つしかない。引き結んだ唇を湿した。口の中で独り言つ。

「死んじゃあいんよ。身体の具合が悪いずら」

 五十二歳の信玄は、前年の十月三日に甲府を発った。薬湯を欠かせぬ身体で、無謀な出陣だった。信玄の身体は戦に堪えられぬと、甫庵は大音声を何度も上げた。

「皆に聞こえても、何度も抗弁したじゃん。病が重いって言い募った。共に出陣せよって下知には、返事を窮したじゃん。儂は四十五歳で初陣。足も震えたわ」

 笈がゴトッと揺れた。甫庵の足は、気が急くほどに定まらない。

 辺りを埋めた赤備えから腕が伸び、身体と笈を支えた。赤き陣は、濛々と沙塵を撒いて進む。

 転げなければ、荷物は揺れに耐えるはずだ。

「大きな荷物は、綿で幾重に包んである。御屋形様は小さい荷物だけで御出陣だったじゃんね。武具も兵糧も少なかった」

 沙塵が、初陣の刻へ誘った。甫庵は、信玄の動きの早さに舌を巻いた。陣は進むほどに大きくなった。

「雪の玉を、雪の上で転がす陣伍ずらね。馬も兵糧も増えたじゃん」

 領内の城で、信玄の本陣は兵と武具を補填した。取巻く旗が増えて行った。美しく揃った旗の色は空にも山にも映えた。足並みは常に動きに、武具は鋭かった。誇らしい陣伍だった。

「諏訪に行くと思ったら、駿河往還を進んだのには驚愕したわ。下山じゃあ三つ花菱の旗が居並んだ。玄蕃頭(げんばのかみ)様(穴山(あなやま)(ばい)(せつ))は大軍だった。三十二歳とは驚くじゃん」

 梅雪の領内は豊かだった。中山や茅小屋と呼ばれる金山を抱えていた。百姓は何度も兵糧を運んだ。

「たくさんの薬草を見つけたじゃん。甲斐を進むのは難儀もない」

 ドクダミは十薬と呼ばれ、下した腹に効く。乾燥させた葛の根から、葛根を煎じた。蓬は乾かして(もぐさ)となった。全てが信玄の薬だった。

「灸も間に合ったじゃんね。下部の湯で御屋形様は暫し、休んで、ゆるりとした。甲斐での最後の湯浴みになるずら」

 最後と零した言葉に、甫庵は口を噤んだ。話が過ぎた。

 信玄の陣伍を辿る。梅雪の大軍を合流させて、本陣は三河へと傾れ込んだ。

「素破の千代女殿も先駆けで励んでたずらね。本陣の動きは素破が漏逸せずって、断じてた。今は、もう懐かしい話じゃん。狼煙の返事は来たじゃんね」

 馬より速く駆けて、本陣へ急がねばならない。甫庵は笈に触れた。

「本陣を目指す儂の姿を、皆が見たずらよ。身代わりの世話が始まるじゃん」

 甫庵の後ろを、赤備えの足軽衆が続いた。



お読みいただきまして、ありがとうございます。

明日も、投稿予定です。

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