第十巻
長岳寺を出て二日が経った。担ぎ手が走って、馬と同じ速さで、輿は休まず進んだ。
騎乗した甫庵の目の前を、棒道が貫いていた。
「逸見山の棒道は、真っすぐだ。馬が三頭も並走する道は、他所にはない。申ノ刻で辺りは暗くなってきた。輿の様子も変わりない。夜は棒道が進みやすいじゃん」
赤備えが近づいてきた。
「甫庵殿だけが輿の御側に控えます。今は誰も、近寄りませぬ。夜も陣は進む。四郎様が定めました。長岳寺では千代女殿が来ていましたね」
昌景は前を向いたままだ。
「違う女子じゃん。幼い。千代女殿の目は、もっと大きい。赤く唇はふくりと膨らむ。肉も豊かにあって、柔らかいでごいす」
少女の骨の細さが掌に残っていた。千代女の姿を、甫庵は掌の奥で懸命に探った。
「稚い千代女殿を、猥らに邪な言葉で伝える話は聞きませぬ。甫庵殿に拙者は聞きたい事実があります。待てませぬ。本陣から引き摺り出されて、ずっと考えておりました」
昌景が馬を寄せた。ぶつかりそうだ。
「おっかねんじゃんけ。赤備えで凄んじょし」
「拙者には御屋形様の思いが分かりませぬ。西に進んで何を望んだのでしょうか。四郎様は、あのままでよいのでしょうか。案じられます」
昌景の言に、甫庵は目が明けた。棒道を囲む木々の背の高さほどに、昌景が大きく見えた。頼みとなるは、赤備えだ。
「諏訪衆の四郎様を憂慮してるだね。四郎様は陣代になる」
甲斐の国衆と勝頼を支える諏訪衆が、歩み寄るやも知れない。甲斐の国衆を纏めるのは、識の任に当たる昌景だけだ。親戚衆は血の濃さを常に争い、言分も強すぎる。
「甲斐の旗は継がぬと、仰せだった。御親戚衆は、玄蕃頭様を始めとして全ての溜飲を下げられた」
梅雪の主張で、親戚衆を押さえる采配だろう。昌景の顔に辛苦が見えた。
「甲斐の国衆も御親戚衆も、信濃の衆とは合わんだね。儂には、計り知れんじゃん」
「驚いております。四郎様があれほど歩み寄るとは思いませんでした。全ては武王丸様が継ぐのだと仰った」
甲斐と信濃は、近くて遠い場所だ。
「諏訪なら、まだ風が冷たい。御屋形様のお身体にも、障らぬと諏訪衆は大騒ぎです」
「甲斐の冬なら、からっと風が乾いておるから腐らんじゃん。今の甲府は、儂の身体でも腐りそうじゃん。暑すぎる」
身代わりも、熱さに身体が溶けるかもしれない。顔の艶には蠟を使っている。何も知らない諏訪衆が、正鵠を射ていた。
昌景が手綱を引いて、馬の歩を緩めた。
「躑躅ヶ崎館なら、甫庵殿の薬湯も、さらに良い物が、作れたでしょう。御屋形様のお身体だって、ゆっくりお休みできたのです。草の戸で寝る時もなかったでしょう」
本陣を出て行った白装束が蘇る。
「戦場が好きだったずら。生きた如く死んでいくじゃん」
甫庵の言葉を、昌景は丁寧に咀嚼する。
「戦場が御屋形様のある場でした。武勇を示したのです。しかし拙者は、御屋形様が月卿雲客に交わりたかったと、弾正様から聞きました」
信玄は細やかに言葉を伝えたようだ。甫庵の知らない話が出てきた。
「公達や殿上人と何をするずら」
「執心の歌の会を、挙行したい。妙心寺や大徳寺の他に、洛中の五山の長老の皆様と漢詩を詠みたかった。御屋形様は文武の両道を歩かれました」
文の道の先を漏らしたようだ。甫庵は苦笑いを眉の奥で留めた。隠しきれない思いが出た姿も、また信玄だ。
「甲斐では、時宗の一蓮寺で歌会をしたでごいすよ。甲府の五山の長老様とも漢詩を吟詠したじゃん。極めたいずらね」
信玄が最後に欲した願いを叶える戦だ。甲斐から遠い、西に行く必要があった。文の道が、信玄を西へと向かわせた。逃れる先は、西しかない。
「寺や社を焼かぬ。ああ、御屋形様は、どの寺も大切になさった。社領を寄進しました。甲斐で成した詩文の隆盛を、武を持って天下に示そうとしたのでしょう」
隠した思いを、零してはならない。甫庵はするりと眉を撫で、封印した。
「文と武の両道とは、難しい話じゃん。儂は側で聴いてるだけで、腹が膨れる」
昌景が先に進んでいった。
甫庵は胸の中から巻物を出した。
「辞世の句は、とっかかりも考えつかぬ。『大ていは、地に任せて、肌骨好し、紅粉を塗らず、自ら風流』とは、何を伝えてるずら。千代女殿にも手紙で知らせたいじゃんね」
馬の背の上で考えを廻らす。
「肌も骨も、若い時とは違うずらね。死病もあった。知らぬ地に任せられぬじゃん。西に行って憂慮は、ないずらか」
泡の如く疑問が浮かぶ。
「紅や白粉を塗って、即身仏を仕立てた。白装束に紛れた。風流は華やかで、人目を惹く。風流踊りなら俗を生きるずら。難癖をつけると、叱られる」
甫庵の率直な物言いを、信玄は好ましいと笑んだ。
「もっと褒めて欲しかった。『大抵は』は、如何に考えれば良いずらか?」
先を行く輿の担ぎ手が躓いた。輿がぐらりっと傾いた。
身代わりが転がり出てしまう。甫庵は騎乗から手を伸ばした。甫庵の身も傾げる。馬から落ちそうになった。
「馬を止めろし」
女の声が飛んだ。
手にした紙を懐に突っ込んで、甫庵は手綱を引き絞った。
甫庵が馬を止める前に、老いた女が棒道の脇から走り出た。腰が曲がった白装束だ。白髪を乱して、老婆は肩で輿を支えた。甫庵に向けて手を振って、呼びかけた。
「止まってくりょうし。全然休まんから、御屋形様もお疲れじゃん」
輿の側に老婆が立った。しわがれた大声だ。
老婆に頷き、甫庵は棒道の真ん中に輿を止めた。
「てっ、走ってばっかじゃあ、転ぶさよう。少しは止まれしよ」
大きな口を開け、老婆は甫庵に嚏を飛ばした。
「棒道は真っ直ぐだから、走り易いじゃんね。御屋形様もお喜びじゃん。あれえ、動かんじゃん。眠ってるじゃんけ。お前は薬師本道ずら。早く様子を見ろしよ」
口も手も良く動く老婆だ。日焼けた顔に、皺を刻み、コロコロと太っている。懐から竹筒を出し、担ぎ手に水を飲ませた。
「助けて貰ったでごいす。輿が重くて肩がえらいじゃん。皆も休めしよ」
頭を下げた甫庵に、老婆が大きく手を振って近づいた。
「いいさよう。半刻も進めば、代りの担ぎ手がおる。担ぎ手をこの先はずっと配してあるじゃん。棒道は御屋形様の道。守りは望月一党。躑躅ヶ崎館への凱旋の道」
老婆が若い笑みを見せた。綻んだ駒草の色が唇に灯った。艶やかな髪が黒く染まった。頬に碧が見えた。
慌てて手を伸ばす。届いたら消えてしまう。躊躇う刹那、老婆の姿が棒道の脇に溶けた。
黒駒が前から迫った。
「『大』の旗じゃん。四郎様も止まっただね」
勝頼が騎乗から甫庵を睥睨した。
「千代女殿が間に合ったな。婆様だが、馬より速いわ。この先は、灯も担ぎ手もおるぞ。御屋形様も辛苦はない。余が合図をするまで、暫し休め。甫庵も大儀である」
勝頼は馬を止めずに、後ろへと駆けて行った。
「四郎様も采配を振るう。四郎様の千代女殿は、老婆っちゅう話ずら」
老婆の消えた辺りを見詰めた。高い木がさわさわと風に鳴った。枝に絡んだ巻物が風に揺れて、甫庵の手に届いた。破れた巻物だ。反故だ。裏に、力強い漆黒の手跡が浮かび上がった。
「一言だけ『まし』――。千代女殿だ。短い」
千代女から、初めて紙に書かれた返事が来た。
懐から紙を出し、広げた。
信玄の手跡が黒々と闇の中で浮かんだ。風が、紙をさわさわと撫でた。千代女の返事と共に並べた。
「棒道を風が流れて行く。『大抵は』は発句だ。何処までも意味を引くとも考えられる。否定の言葉と親しいなら『紅粉を塗らず』と呼び合うじゃん。ありきたりに紅や白粉を塗らず、となれば、得心が行くでごいすよ」
言葉を繰り出すほどに、用心していても甫庵の身体に空いた隙間から、温く孤独が浸潤した。
誰にも悟られぬように、浸りたくなる孤独を押し込めて懸命に穴を塞ぐ。信玄はいない。千代女もいない。手紙を届ける先が、なくなってしまった。
頬の熱さに掌を当てた。掌が濡れて光った。棒道を照らす炎が碧く燃え上がった。
甫庵は輿の中に呼びかけた。
「『自ら風に流るる』となれば、儂の良く知る御屋形様の姿じゃん。もう実のある御屋形様は来ぬ。『さねこんころ』は、明日は、風に流れるずらよ。また、返事を持ってるじゃん」
身代わり信玄が笑んで応じた。
【了】
最終話です。お読みいただきまして、ありがとうございました。
〈参考文献〉
『武田氏滅亡』平山優著(角川選書)
『武田信玄と快川和尚」横山住雄著(戎光祥出版)
『信虎・信玄・勝頼 武田三代』平山優執筆・監修(武田三代プロジェクト)
『図説 武田信玄』信玄公宝物館編・磯貝正義監修(河出書房新社)
『武田信玄像の謎』藤本正行(吉川弘文館)
『甲陽軍鑑』斎藤正英校訂・訳(ちくま学芸文庫)
『現代語訳 三河物語』大久保彦左衛門 小林賢章(ちくま学芸文庫)
『武田信玄の和歌をめぐって―恵林寺の花の歌―』島内景二著(電気通信大学紀要21巻)
『中世歌壇と歌人伝の研究』井上宗雄(笠間書院)




