第一巻
戦国物です。本日は、午後にもう一話投稿します。
元亀四年(一五七三年)春。甲斐の身延山の頂で、雄叫びが上がった。
「こんなだらだらと長くて、詳細過ぎる手紙を読めるか! 読み終わる時には、昼が過ぎる。巻物で手紙を書くのが、そもそも間違ってるぞ」
手から巻物が零れた。手繰ると、追われてなるものかと巻物は解けて行く。追いつかない。山の静謐な朝日を浴びて、流麗な文字が浮かび上がった。
望月千代女は、盛大な舌打ちをした。
「待て、止まれ」
巻物は意志を持っているかの如く、千代女から離れる。巧みに岩を伝って、巻物が広がっていく。
座っていた岩から飛び降り、裾を翻して駆け出す。草鞋が滑る砂礫を捉えた。
身延山の岨道は峻険で、岩が多い難所が続く。
「欲しい物を端的に書けと命じた意味が、理解できないようだ。まだ、欲しい物に辿り着かない。読み始めて一刻(二時間)は経った。吾は読むのが、のろいのだろうか?」
傾げた首から色香が舞う。巻物を追った足はしなやかで、眩い。滑らかな黒髪を従えた千代女は、当然に美しい。伸ばした白い指の触れる刹那、巻物が、岩の間に沈み込んだ。
「落ちるな! 手間かけさせやがって、戻って来い」
千代女は素破で、女子だけの望月一党の頭領だ。
素破は陰に隠れて、情報を集める役割を担う。後に、忍びや間者と呼ばれる者だ。
多くの女子が千代女の元に集い、素破となって励んでいた。頭領として、千代女は集った女子を慈しんで育てた。優美な千代女は慕われ、艶やかな憧憬の的だった。
数多の女子が、有益で貴重な多くの情報を集めた。慎重に隠された情報を、望月一党の女子が繋いで運んだ。
望月一党の素破に下知を出すのは、武田信玄が唯一人だった。
「御屋形様(信玄)の下知を待っている間に、砂礫に塗れて岩に身を捩る。知られたくない姿だ。堪えろ。顔が黒くなる。踏み拉かれた駒草だ。全ては、巻物になるほど長い手紙を書く彼奴の悪行だ。覚えてろ。許さんぞ」
口から零れる罵詈とは合わない優美な千代女の動作は、駒草と愛でられた。風に震えて華麗な香を纏った。
駒草は峻険な山の砂礫の間で僅かに訪れる夏に咲き、掌に載るほどの小さな花で、全身に毒を秘めていた。身延山の奥地にも、僅かに駒草があった。砂礫に囲まれた高山で、駒草は水を求め、根で地を穿つ。
「誰にも見せられぬ。忌々しい。巻物に手が届かない」
千代女の額に汗が浮かんだ。今を生きる執着とは異なり、いっそ潔ささえ覚える汗が蟀谷で滲んで伸びた。千代女は何度も足を地に擦りつけて、汗を飛ばす。
優美に動き典雅に笑う千代女は、人知れず逆上していた。懸命に隠していたが、全身で苛々と憤慨していた。
千代女を唯一キレさせるのは、届いた巻物だ。
「朝起きて、何を食べたか知りたくない。欲しい物だけ、書いて寄越せ! 首尾だけを知らせろ!」
満面の笑みで、掴んだ巻物を千代女は突き上げた。
腰を据えて、千代女は巻物を読み込んだ。馥郁たる和歌の如く語られる思いに、眉を顰めた。美味そう水の描写に相槌を打つ。千代女は巻物に引き込まれていた。
日が翳り夕闇が近づく頃に、千代女は立ち上がった。
「癪に障るほど長い。やっと要件が読み取れた。必要な物は分かった。相変わらず注文が多い。雄黄は、卵の黄身の色よりさらに明るくとの指定だ」
巻物の手紙は、読み尽くすと長文になる所以が知れる。必要な品物を、微に入り細を穿って説明を施している。
色や形、取れた産地に凡その値段。数量も巻物に書かれていた。
だが、表現が具体的で個人的だった。甲府にある信玄の居城の躑躅ヶ崎館の砂礫と、同じ大きさを指定する。快川紹喜を招いた恵林寺の桜の蕾三つ分の重さが、必要だと言い募る。仏殿の美しい東光寺で食べた美味くて甘い干柿の三十個分と、同じ値段だと力説する。
「彼奴の好みの布団の柔らかさは、吾には関わりない。読み終えた巻物は無用だ」
千代女は全てを見通せない。望月一党に与えられる下知は、断片でしかない。万が一、敵に抜き取られても狙いが判然としない切れ切れの情報だ。
「洛北の饅頭が旨い。駿河の魚が痩せている。掴んだ情報は御屋形様の元で、初めて形を持つ。吾が知る必要は、一切ない」
分かる必要はない。望月一党は埒外だ。信玄の側に侍っても、家臣の数には入らない。本陣は朧だ。だから、動ける。核心の側を掠める。
「堺で見つけた香は、難儀して手の入れた。それなのに送り返しやがった。彼奴は粗忽者だ。何故、お世話係が務まっているのか? 不思議でならない」
戻ってきた香を見て、千代女は忿怒のままに川へ投げ捨てそうになった。
「踏みとどまった吾を、褒めたいぞ。使い処を間違えてはならない。身代わりは定まったと巻物には書いてあった。首尾は上々だ」
合わせた襟から零れ落ちそうな胸を、千代女は押さえた。深い胸の間に挟まれて、香は燻らせる時を待っている。
狼煙台に上がった。千代女は目星をつけて、巻物を破った。火にくべる。白い煙が真っ直ぐに立ち昇った。煙が碧く揺らいだ。
読み終わったら、巻物の前半部分を燃やす。
「ほう、此度は碧か。手紙に書いてあった欲しい物と一緒だ。首を洗って待っていろ。お世話係に届けてやる」
千代女は身延山を駆け下った。
巻物に書かれた物を全て揃えると、十日が経った。残りの巻物を狼煙で燃やした。
どれほど走っただろうか。久遠寺が見えた。久遠寺は身延山にある日蓮宗の本山だ。亥ノ刻の闇に潜んで、寺内は賑やかだった。
「また、戻ってきた。さて、身代わりのできを見に行く」
首尾を確かめ、千代女は静かに深く憤怒した。
闇でも艶を弾く形の良い唇を窄めて、狙いを定めた。目当ての男の胸の上に、端座していた。燃やした巻物を思い出して、千代女はふつりとキレた。
小さく揃えた膝の下に、衣と肉があった。闇に声を溶かす。音と聞こえない囁きを、男の耳朶に置いた。
「あんなので、身代わりが務まると思っているのか? いい加減にしろよ。あれじゃあ、唯の木偶だぞ」
膝に圧を掛けた。男が咳込む刹那、力を止めた。弛めずに、圧を維持する。
かっと瞠目した男が、胸を大きく息を吸い込む。揺れに合わせて、千代女の身体が闇で上下した。
「肺腑が潰れる。儂を縊り殺す心算ずらか? 息が止まっちもうわ。闇で見ても千代女殿は典雅じゃんね。寝ている時は、優しく跨ってくりょうし」
応じる声も潜められていた。闇で誰が耳を欹てているのか、知れない。敵は目前にあり、味方も犇めいている。
膝を進めて頬を挟んだ。足裏で胸を圧す。
「顔は愛でられ過ぎている。吾の姿を讃える者は多い。あの木偶は、不細工だ。もっとまともに仕上げろ。御屋形様の身代わりになるんだぞ。お世話係なら、励め。頼まれた物は全て揃えた。吾に抜かりはない」
腿に男の息が掛かった。
「首尾は手紙で知らせるじゃん。思いを綴って、巻物になるじゃんね。待っててくりょうし」
「お世話係の甫庵よ。手紙は、端的に書け!」
千代女は甫庵の頬を挟み潰した。
作品を探していただき、お読みいただきまして、ありがとうございました。