62 バララット邸
バララット家に仕える文官のトガスは、廊下を小走りで進んでいた。彼以外も廊下を行き交う人は早足だ。何度も人とぶつかりそうになりながら、中庭を目指す。
中庭にたどり着くと、そこには大勢の男達がぎっちりと並んでいた。表情は皆不安げで、落ち着かない様子だ。中庭の端には机が置かれ、着席した下級の文官が必死に羊皮紙にペンを走らせている。
「状況はどうだ?」
トガスの問いに文官が顔を上げる。顔には疲労の色が濃い。
「ご指示通りリストを作成しています。キツいですが、何とか回っています」
トガスは書類の一枚を手に取る。内容は徴兵された住民の一覧だ。『西門通り、肉屋のピーター』『プラム通り、パン職人ロッド』など、ひたすら人名が記されている。ひとまず、個人を特定できる記載だ。
「よし。記載はこの程度で問題ない。作業を続けてくれ」
そう言って、書類を戻す。
トガスの職場であるバララット邸は極度の混乱の中にあった。
発端は領民が持ち込んだ王女名義の荒唐無稽な手紙だ。それを領主代行であるセヴランが本物と断じたその瞬間から、文官も兵士も息つく間もなく駆けずり回っている。
「王女殿下をお迎えに上がる」と騎兵を連れて飛び出したセヴランの残した指示は3つ。徴兵、周辺の索敵、避難民の受け入れ準備だ。
そして、周辺索敵に関してはすでに成果が出ていた。斥候部隊が移動する大量のモンスターを確認、市民にも情報は開示され、都市内は緊迫に包まれている。
トガスは踵を返して、再び早足で進む。目的の部屋につき、樫の木でできた重い扉を開けた。
中ではトガスの上司達が机に向かって唸っている。正直、頼りない上司達だ。以前は優秀な人間がいたが、彼らはバララット伯爵が王都に連れて行ってしまった。
トガスは「ご報告します」と声を上げる。上司たちが顔を上げるのを確認してから話し出す。
「確認してまいりました。住民の徴兵作業は順当に進んでおります」
嘘になるから『順調に進んでいる』とは言わない。
永く平和だったバルエリに住民を徴兵する仕組みなど無かった。フィーナ王国成立以前なら有事に各職業組合に人数を割り当て、兵士を出させた記録がある。しかし突然そんな方法を復活させても上手くいく筈がない。仕方なく、兵士が都市を回り、体格が良い男性を片っ端から連れて来るという方法が採られていた。
武器も、地下の武器庫に存在はしている。大昔の槍を鍛冶師を集めて点検・整備中だ。
「そうか、冒険者ギルドの方はどうだ?」
上司の質問にトガスは心の中でため息をつく。冒険者ギルドについては3時間前に状況を確認し、報告したばかりだ。それ程大きな動きがある筈もない。
「前回の報告以降、特段の追加情報は掴んでいません」
「わかった。最新の状況をギルド長に確認して、後ほど報告してくれ」
そう言われ、更に気分が沈む。上司達は報告を頻繁に求めるだけで、その情報が活用されている様子はない。正直マンパワーの浪費に思えた。
特にギルドではコネをフル活用して戦闘力を持つ人間を掻き集めてくれている。報告要請で邪魔はしたくない。
とはいえ、命令を無視もできない。トガスは「承知いたしました」と返し、部屋を出る。
廊下を進んでいると、トガスの同僚が小走りで近付いてきた。少し焦った様子だ。
「トガス、聞いたか? 先触れがあった。エリーサ王女殿下が、本当に入城されるらしい。もうすぐそこまで来ているそうだ」
「本当に王女殿下だったのか……。しかしセヴラン様が戻れば少しは混乱が収まるな」
忙しいのは変わらないだろうが、今より秩序立って動ける筈だ。だが同僚は首を横に振る。そして、トガスの耳元に口を寄せ小声で言う。
「セヴラン様は意識不明らしい」
トガスは思わず「はあ!?」と大きな声を上げてしまう。同僚に「しっ」と言われ、慌てて声のボリュームを下げ「なんで?」と問う。
「セヴラン様はエリーサ王女殿下のもとに向かう途中で魔族に襲われたらしい。同行した騎兵達も半分が命を落としたそうだ」
「大惨事だな。エリーサ様や同行騎兵の生き残りは無事なのか?」
「そちらは全員元気らしいぞ」
トガスはまた「はぁ?」と声を出してしまった。
「元気……なのか? 騎兵達は魔族に襲われて命からがらだろう?」
その状況なら何人かは重症を負っていると考えるのが妥当だ。
「それがな、話によるとエリーサ王女殿下が『生命再生』で治したそうだ」
「『生命再生』って、最高位の回復魔術だったよな。エリーサ王女殿下そんな魔術使えるの」
「そうらしい。従者の一人も連れずお一人で避難民を守っていらしたと……」
「それ……本当に王女殿下なのか?」
「ロマリー様が御顔を確認に南門に向っているらしいが、まぁ、たぶん」




