第08話・白髪部皇子と位奈部橘王
その数日後、玄理は蘇我毛人を介して飛鳥の白髪部皇子の宮に招かれた。
白髪部皇子は、山背皇子が話していた位奈部橘王の長男であり、山背皇子の異母弟である。飛鳥の橘宮に母親である亡き厩戸皇子の最後の妃、位奈部橘王と住んでいた。玄理が斑鳩の山背皇子を訪問したことを知ったのだろう。
宮で玄理を迎えたのは、白髪部皇子と、その母親、位奈部橘王だった。
「よく来てくださいました。私が生まれる前から大陸に渡り修学なさっていたとは、さぞ苦労なされたことでしょう。大陸のお話、是非お聞かせください」
来年二十三歳になるという若い白髪部皇子が言った。彼が厩戸皇子の最後の子だった。
清々しいその風貌は、どことなく厩戸皇子の面影がある。玄理が先日に会った山背皇子とは全く雰囲気が違っていた。
「山背大兄から聞きました。斑鳩へ行かれたのですね。遠かったでしょう。私も最近はつい足が遠のいてしまって」
そう言ったのは橘王。玄理が日本を発った時にはまだ厩戸皇子の妃となっていなかったし、存在すら知らなかった。
「いえ、唐の国よりは全然近うございます」
玄理の冗談に橘王は、ほほ、と軽やかな笑い声を上げた。
玄理は橘王が予想外に若く驚いた。彼女は山背皇子の継母になるのだが、まるで逆、橘王のほうが娘であるかのようだ。もしかするとまだ三十代かもしれぬ、とびきり美人というわけではないが、貴人としての風格を持ち嫋やかな女性という印象を受ける。
「大陸はどのようなところですの。私は飛鳥と斑鳩しか知りませぬので、想像もつきませんわ」
幼い頃に父親を亡くし、厩戸皇子と結婚するまでは推古天皇の庇護下にあったという橘王。その声、その片言隻句、立ち居振る舞いに気品が滲み出て、育ちの良さを感じさせる。
「想像以上に何もかもが大きく、京も村々もそれぞれ高い塀に囲まれています」
「私は唐からお帰りになった旻法師の学堂に通っていますが、世の中には知らないことがたくさんあると驚いています。高向臣のお話も聞きたく思います」
白髪部皇子が目を輝かせて言った。
「ええ、旻法師と私は唐で一緒に勉強しましたが、彼は私などと違って優秀で心が広く、信頼できる人物です。旻法師の元で学び、また学堂で豪族の子弟と親しく接することは大変有意なものとなりましょう。私も微力ながら皇子のお役に立てれば光栄にございます」
「私も、学んだことを今後この国のために生かせるように思っています。高向臣も是非、時々宮へきてお話を聞かせてください」
玄理は素直そうな白髪部皇子に好感を持った。また、厩戸皇子亡き後、彼をこのような青年に育てた橘王も立派だと思った。世捨て人のような山背皇子と会った後だから、尚更そんな風に感じたのかも知れない。
「気軽に立ち寄ってくださいね」
橘王も優美に微笑んだ。
・ ・ ・
その頃、斑鳩宮では山背皇子が冷たい風の中、戸を開けて中庭を眺めていた。宮を受け継いだ時に植えた梅の木はまだ蕾をつけていない。奥の松の木が青々としている。
山背皇子は思った。
父、厩戸皇子が死んでから二十年が経とうとしている。先だって訪問を受けた高向玄理は隋そして唐で大陸文化や勉学を学び、立派な学者となって帰国した。その間、自分は何をしてきただろう。
「天皇のご病気の様子が芳しくないそうですね」
ふいに、背後から舂米皇女の声がした。
「もし、このままお身体が悪くなられたら、次は貴方が立つことに反対する者はおりませんでしょう」
「そのようなことを言ってはならぬ。私は、今の世が長く続くことを願っている」
山背皇子はたしなめた。
舂米皇女は、子供の頃から思ったことを恐れなく口にする。父に存分に愛されて育ったからだと山背皇子は思っていた。
「飛鳥でも噂されているそうですわ。天皇の御子たちはまだ若い、上宮大兄しかおられまい、と」
自分が言えずにいることも彼女は臆面もなく言う。
「まだ天皇がおられるのに」
山背皇子は眉をひそめた。
「そのようなことを言ってはならぬ」
山背皇子は、自分に言い聞かせるように呟いた。